↑
これで
妹1が仕事で小×島に来たので、昼から高松観光する。
高松都会過ぎる……
うどん2号
うどん2号と愉快な食べ物たち
満腹になる
コーヒー三昧
空港に着く
高×住民として知らぬ事が多すぎる……うちの蛇口からももしかしたらうどん汁が出ていたのではないだろうか……
ほんとにあったよ
出してみた
飲んでみた……(ry
レーダーだ
管制塔だ
「吉川英治」展の講演でしゃべりました。すべて語ろうとする癖はもういい歳だからやめた方がいいかもしれない……。本当は、これに加えて里見の、武士的なものに対する態度との比較もやろうとしてたのだが、無謀であった……
暑い中、皆様どうもご静聴ありがとうございました。
バタッ(←家で倒れるわたくし
どうも実に風変りなバー・オパールである。
が――。その次の瞬間に、私は、なお一層驚いてしまったのである。
それは、今押した呼鈴の響きに応じて、奥のドアーを排して現われた少女の、その余りの美しさから来る驚きであった。この燻んだようなバー・オパールの雰囲気とは凡そ正反対な、俗にいう眼の覚めるような美少女がまるで手品のように忽然と現われたのである。呼鈴を押したのだから誰かが現われることはあたりまえなのだが、その少女があまりにも私の好みを備えすぎていたせいか、ふと手品を連想したほどであった。
夢幻織のワンピースが、まるで塑像をみるように、ぴったりと体の線を浮出さしていた、そして、その艶々と濡れたような円らな瞳を、ジッと私に灑ぎかけていた。しかし一ト言も口をきかなかった。『いらっしゃいませ』もいわないのである。それでいて、私はその瞳の中から柔かい言葉を、いくつか囁かれたような気がしたのであった。
――蘭郁二郎「白金神経の少女」
「山口六平太」などというマンガを読んでいたら、頭がもやもやとしてきた。――憔悴はしても元気にはなれない。で、楠元六男先生の『我を絵に看る』を読んだら目が覚めてきた。楠元先生の文学史の授業は――「歌経標式」から説き起こされたのがまずびっくりしたのであるが――とても面白かったので記憶に残っている。この本でも、先生の当時の論の運びが耳に響いてくるようである。そんなことを感じてみると……思うのだが、たしかに、発句と同じく、それが置かれた場所や事情によって解釈が変わるのが文章というものであろう。意味は、回線に乗って世界を飛び回るとは限らないのである。
里見の「小暴君」をゼミで考えたのだが、これがなかなかの話であった……。芥川龍之介や島崎藤村が描くことのなかったものが捉えられているのではなかろうか。……それは言い過ぎだとしても、やはりこの人は勇気のある作家であった。まあ、私もようやく志賀直哉とか有島に取り組めそうな気がしてきている今日この頃である。