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大久保典夫氏の「「『風流』論」をめぐる断想」という佐藤春夫論があるが、確か昔読んだはずなのに全く記憶に残っていなかったので、――再読してみると、本題に入るまでが長くエンジンがかかってきて直ぐ終わる。これが記憶に残っていなかった原因ではなかったかと、人のせいにしてみた。
この世代の学者のよいところは、近代文学の作家たちが現役なので、彼らの内実との内的対話が必要だったことだと思う。上のように、本題に入るまでが長いのは、ファイティングポーズをとらなくてはならなかったからであろう。
そして、このポーズによって、なんだかとりあえず氏の主張の本体だけは認めざるをえないような気がしてくる。大久保氏の言いたいのは、ひたすら自らに忠実たらんとした漱石の系譜が佐藤春夫であるということだ。そのために谷崎とか中村光夫みたいな西洋かぶれは退けられなければならない。そして、佐藤が晩年その輝きを失った理由を仄めかしている(はっきり言っていない)。で、我々は佐藤春夫をもう一度読み返してみようと考える。
最近、若手の研究者には、大久保氏のような主張に近づいている者がいる。他ならぬわたくしがそんな傾向があった気がする。研究というのは、あっちへ行ったり上がったり下がったりを繰り返すものであるのでそれもいいと思う。ただ、氏にあったような文学への義務感みたいなものとは遠く離れているのかもしれない。
そんなとき、文学のテキストは逆に障碍にみえはじめるということがあり得る。直接コミットできるのは、むしろ文学ではなく、政治や哲学であるような気がするからだ。――逆に、哲学者、東氏や千葉氏などが、小説という形態に乗り出して、現実へのコミットはむしろ文学によってあり得ると主張したりする。
Serpent & Ophicleide - Symphonie Fantastique V. (extract Dies Irae)
最近のお気に入りは幻想交響曲。中学生の時も好きだったが、いまはもっと気に入っている。今日は、神奈幸子の『ミスターセイント』を読んだせいで調子が狂った。
最近のお気に入りは幻想交響曲。中学生の時も好きだったが、いまはもっと気に入っている。今日は、神奈幸子の『ミスターセイント』を読んだせいで調子が狂った。
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徳田球一と志賀義雄の『獄中十八年』をめくってみた。まだ徳田球一の前半しか読んでないが、なかなか面白い。同志市川が一度仮死して葬式で生き返ったくだりなどなかなか面白い。監獄から出てくるときの描写もよかった。
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木澤佐登志氏の『ニック・ランドと新反動主義』を読む。触れられているのは、オルタナ右翼の起源であるが、我々についても考えてみたいものである。
映画『エイプリルフールズ』を録画で見て、それなりに面白かったのであるが、――我々は、少しの嘘が多少の幸福に繋がることを案外自明の理として生きているのではないか。そりゃ、そういうことはあるかもしれない。しかし、世の中には思想や政治があるのではないか?どうも映画は、非常に穏便にではあるが、フェイクを許している気がしたのである。
そういう意味で、「フェイクニュース」という批判をするときに起こる自ら自身の虚構感による気分的な上昇は、日本では、この映画に見られるような、少しの思いやりの嘘、にも見られる気分であるように思われる。
といっても、わたくしは「加速主義」とか聞いても、「加速ソーチっ」ぐらいしか思い浮かばないていたらくなので、講義のためにも勉強しておこうと思う。とりあえず確かなのは、日本で「加速していかねば」とか言うてるやつはニーチェも欲望機械も知らぬおたんちん(のろま)にすぎない、ということだ。
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体調を整えながら田村隆一などを読んでいたが、田村隆一の年譜を見ていたら、明治の文芸科に入ったときの面接官が、吉田甲子太郎がいて「教員にもなれないけどいいか」などと聞いたそうである。いまなら、「教員になろう」みたいなことを面接官が言ってしまいそうな気がする。岸田國士が科長をしていて、そういえば田村の妻の中に「アルプスの少女ハイジ」の作詞者が……
戦争中、文芸の独立独歩的な側面は、危うい。抑圧もあるが、頼る者がないので強権にむしろ頼ってしまうのである。
軍隊では、暗号の教官に矢内原伊作がいた。彼の人生は、有名人に囲まれている。
思うに、田村隆一には、渡辺一夫とは全く違う方向性ではあるが、有名人に頼る側面がある。高村光太郎論の最後に、リチャード・エバハートの「癌細胞」なんかを引用してくるところなんか、なんかいやな感じがしたが、――いや、彼はものすごく勉強家なのであろう。
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犬どもはううとうなってしばらく室の中をくるくる廻っていましたが、また一声
「わん。」と高く吠えて、いきなり次の扉に飛びつきました。戸はがたりとひらき、犬どもは吸い込まれるように飛んで行きました。
――「注文の多い料理店」
宮澤賢治の作品は、全体としてあまり整った意味を取り出そうとするとさて入信でもするかという気にもなるわけであるが、文脈を無視して引用するとすごく寓話的である。
上の場面なんか、まさに世の「犬ども」の行動様式であって、アクティブラーニングでくるくる回っていたとおもったら、ICTとかに吸い込まれていくのであった。自主的に吸い込まれていく様がすばらしい。かく言うわたくしも、全学共通科目ではアクティブラーニングならぬレポートの回し読み雑談なんかをやってみたわけであり、――わたくしみたいな犬は、常にバスに乗り遅れるのを信条としているのである。敗戦後に、ハワイを爆撃するような感じである。わたくしの如き遅刻魔によって――かくして物事の本質が露呈するのであった。
思うに、――というか、やらないうちから思っていたが、グループワークとかなんちゃらは、教員の見識の高さと発問の工夫がかなり巧妙でない限り、大概の場合は、「集団行動の練習」をやっているに過ぎない。本当はそんなことは数十年前に教育界では実証済みのはずである。つまり失敗の可能性が高いからこそ、その導入の本当の狙いは「集団行動の練習」であったとわたくしは見ている訳である。狙いは、学校を全体として集団行動の場にしてしまうことである。学校というのはもともとそういう要素は濃厚なわけだから、最後のひとおし――教員の知の一方的な発露の禁止がなされれば良いわけであった。あとは、お手お座りなどの指示を聞く場所になるであろう。主体性みたいな言葉に目をくらまされなければ、目の前で展開しているのが何なのか分かるはず……
分からん場合もあるけれど……
わたくしなんか、藤村の霊とかミューズの指令とかで文学に執着している。決して主体的ではない。――いや、これを主体的というのである。ただ、わたくしは、犬にもまともな嗅覚と知性が必要だと言っているだけなんで。もっとも犬は犬なので、大概は、「マヤの一生」の犬みたいなことになってしまうのであろうが……。
(どこから犬はきたか
その痩せた犬は
どこへ走り去ったか
われわれの時代の犬は)
(いかなる暗黒がおまえを追うか
いかなる欲望がおまえを走らせるか)
――田村隆一「幻を見る人」
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秋の空にしもこそ欲しげなりけれ。暮れゆくままに、ものも見えず吹きまよはして、いとむくつけければ、御格子など参りぬるに、うしろめたくいみじと、花の上を思し嘆く。
確かにお花は心配である。
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最近は、ハリウッドでもマーベルコミックスなどが盛んに映画化されていて、たぶんそれでないと回収できないと思われているためであろうか。バットマン、アイアンマンとかなんとかが、結構難しい内容を扱っているようでもある。
「パンズラビリンス」でファシズムを衝撃的に描いていたギレルモ・デル・トロが、「パシフィック・リム」を撮って「ロケットパンチ」(←吹き替え)とかやっているときには、ありゃと思ったが、やっぱり本気で撮っているとしか思えないのでわたくしは反省した。
そういえば、ティム・バートンが「マーズ・アタック」でアイロニーを飛ばしているうちは面白い感じがしたが、「猿の惑星」を撮ったときにはちょっとびっくりしたのを覚えている。蓮實重彦もどこかで言っていたが、それは非常に心理描写的なところに力点があって、まるで純文学じみているのであった。わたくしは、あとのリメイク三部作よりも、これの方が好きだ。なぜかというに、リメイク三部作は、せっかく素材が「猿」という非人間的なすばらしいものなのに、親子の絆みたいなテーマを扱っているからである。なぜ、猿という事柄に集中しないのだ。
そういう意味でいうと、今日観た「ゴジラキングオプモンスターズ」は、「ゴジラ対ヘドラ」のテーマを「三大怪獣 地球最大の決戦」の物語に当てはめたような物語であるということを除外すると、最初から最後まで怪獣がプロレスをやっているだけの映画だったのでよかったが、人間たちはなぜか家出した子や親父、ノイローゼになった母親を助けるみたいなドラマを展開していた。監督がやりたいのは、ひたすら日本のゴジラシリーズの模倣、いや「ごっこ遊び」なので、たぶん適当に「家族の絆だしとけ」みたいな感じなのであろう。
しかしまあ、「ごっこ遊び」というのは、やはり子どもの所業である。子どもは親の庇護下で遊ぶので、親からの絆光線を受け止めつつ遊ばなければならない。で、その影響は遊びの中にも侵入する。わたくしなんかは、いい子ちゃんであったから、ロボットや怪獣で遊びつつ、おままごとみたいな遊びに対する誘惑を感じていた。なにかそれは親じめてみる、親の期待に応えるという欲望とつながっていた気がする。2014年のゴジラ映画でもそうだったが、なんと怪獣のなかでの夫婦愛が描かれている。今回も、ゴジラとモスラがカップルである可能性を論じる変態的場面があったが、すごいことである。ごっこ遊びをしながらもう大人の営みのことを考えてしまっている。いや、監督はもう大人であった。
しかし、これは本質的に一連のハリウッド映画での家族の絆とはほとんど夫婦愛の回復を意味していて、子どもと仲良くすることでは必ずしもない、ということを意味しているのかもしれない。にもかかわらず、子どもとの紐帯を確保しようとすれば、――案外、「子ども向けみたいな素材の映画」は、はじめから作り手に心理的な安定感をもたらしているのかもしれないし、むろんそれは観客に於いてもいえることだ。
一方、日本のゴジラときたら、なんと相手もいないのに「ゴジラの息子」がいるというていたらく。あの形状からすると、ゴジラはたぶん人間の女子と結婚している。そうでなければ、かかるおじさん顔の怪獣は生まれない。その関係は、親父が息子を鍛える式のものであった。(ような気がする)ここに母親がいなかったのはなんとなく象徴的である。我々はまだ、子どもの世界を夫婦の問題として扱う勇気がないのであった。しかし、夫婦の問題と無関係な子どもの世界が純粋に存在するわけがないではないか。
だがしかし、わたくしは、最近のハリウッドの特撮が、晴れ渡った空のもとでの戦闘でなく、暗雲垂れ込めている地獄の様相における戦闘ばかりを描いているのが気になる。あまりにも家庭内と同じく地獄に過ぎるのではあるまいか。それに、怪獣ごっこの常なのだろうが、怪獣に接近する演出が多すぎる。よくわからんが、ほとんど遠近法が崩壊しているみたいな錯覚に陥る(上の「猿の惑星」もそう思った)。これでは何をやっているのかわからない。ほとんど夫婦げんかではないか。
日本の場合は、「シンゴジラ」でさえそうであったが、特撮はパノラマなのである。ゴジラの向こうには富士山があって、どこからかラドンやキングギドラが飛んでくる。これが日本の「風流」の世界である。モスラはお蚕様であり、富と美をもたらす。子どもの観客は、そんな想像的天国で遊ぶ。かくして、日本のオタクたちが非常に「風景」好きであることは自明の理となり、そこに人間の存在を入れたがらない。
怪獣遊びは誰のものか。今日は、そんなことを思った次第であった。
追記)結局、今回の映画、映画そのものよりも最初の予告編(ドビッシーの「月の光」をつかっているやつ)が一番出来がいいのでは……。あと、核の問題ではあいかわらずハリウッドは狂ってる。まあ、ゴジラを水爆の比喩からただの怪獣王としてぬいぐるみ化したのはもともと日本であって、そうやって環境問題や戦争犯罪の問題を象徴させてきたのだが、それが問題そのものの困難からの逃避に過ぎなかったことは、アメリカ側からはよく分からないに違いない。
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五日、六日の夕月夜は疾く入りて、すこし雲隠るるけしき、 荻の音もやうやうあはれなるほどになりにけり。御琴を枕にて、もろともに添ひ臥したまへり。
萩の音がするからといって、お琴を枕にしてはなりません。そこの二人ちゃんと練習しなさい。
かかる類ひあらむやと、
よく分かりませんが、音楽を二人でするのはそもそも非常にエロチックなのです。ベートーベンの後期の曲に妙に色気がなくなったのは現実の女子と連弾しないで、ミューズを「永遠の恋人」とみなす境地に達したからではないでしょうか。光源氏……、色男の「類ひ」である。
「馬鹿、乱暴はよせ。男類、女類、猿類、まさにしかりだ。間違ってはいない。」
もう半分眠っているくらいに酔っぱらっているのでした。手向いしないと見てとり、れいの抜け目の無い紳士、柳田が、コツンと笠井氏の頭を打ち、
「眼をさませ。こら、動物博士。四つ這いのままで退却しろ。」
と言って、またコツンと笠井氏の頭を殴りましたが、笠井氏は、なんにも抵抗せず、ふらふら起き上って、
「男類、女類、猿類、いや、女類、男類、猿類の順か、いや、猿類、男類、女類かな? いや、いや、猿類、女類、男類の順か。ああ、痛え。乱暴はいかん。猿類、女類、男類、か。香典千円ここへ置いて行くぜ。」
――太宰治「女類」
太宰治も色男の類いであった。しかし、彼は類いを越えたことをしてしまった。本当は「類」など使いたくないのに、大いに使って文学にしてしまう。恐ろしい才能である。彼はしかもそこに満足していなかったようであり、更にそういう文学者を越えようとしてしまった。坂口安吾の診断によれば、芥川や太宰は不良少年の類いなのであるが、こういう類いは、類いを越えようとするのが特徴であった。
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「何か、そは、ことことしく思ひたまひて交らひはべらばこそ、所狭からめ。大御大壺取りにも、仕うまつりなむ」
近江の君というのは漫画やドラマなどでも道化みたいに描かれているが、道化というのはなにか差別的なニュアンスがあり、ちゃんと一性格者として扱うべきである――。それはともかく、彼女の親曰く、
「似つかはしからぬ役ななり。かくたまさかに会へる親の孝せむの心あらば、このもののたまふ声を、すこしのどめて聞かせたまへ。さらば、命も延びなむかし」
命が延びるわけないだろうがっ
「舌の本性にこそははべらめ。幼くはべりし時だに、故母の常に苦しがり教へはべりし。 妙法寺の別当大徳の、産屋にはべりける、 あえものとなむ嘆きはべりたうびし」
早口なのは産屋にいた坊さんの口調が移ってしまったというのである。そんな馬鹿なと思っていると、オヤジが
「その、気近く入り立ちたりけむ大徳こそは、あぢきなかりけれ。ただその罪の報いななり。 唖、言吃とぞ、大乗誹りたる罪にも、数へたるかし」
と言っているわけであるが、こちらの説の方がとんでもないではないか。考えてみると、親父が娘の育ち方を自分のせいにしていないところは安心する。最近なんか、教育テレビをみていても、親たちは自分の教育で子どもがどうにかなってしまったとそれだけで憂鬱になっており、そんな姿を見せられていては親と子の因果を必要以上に我々はすり込まれてしまう。
いまの天皇は実の親に育てられている。それまではそうではなかったようだ。帝王たることには、その親が彼の責任を負わないということもまでも含まれているのではあるまいか。それが吉と出るかはわからないけれども、王の孤独よる栄光はそうやって作られていたのではないか。我々の生に栄光がないのは、親子関係の絶対性にも拠るのである。吉本隆明がキリストを引き合いにして論じていたことは、彼の想定を超えて桎梏と化している。
昔も今も、因果をあまり意識しすぎても滑稽なだけである。上の親子の会話のように……。暴力は、《物事をいい加減に出来ない粗雑さ》から来ることが確かのようにわたくしには思われるのであった。