![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/5c/580fd9bcaae110292333eb2014f216bd.jpg)
傘をほうほうと打てば、屎のいと多かる上にかがまり居る。また、うちはやりたる人、「強ひてこの傘をさし隠して顔を隠すは、なぞ」とて、行き過ぐるままに、大傘を引きかたぶけて、傘につきて屎の上にを居たる、火をうちふきて、見て、「指貫着たりける。身貧しき人の、思ふ女のがり行くにこそ」など、口々に言ひて、おはしぬれば、立ちて、「衛門の督のおはするなめり。われを嫌疑の者と思ひてや捕ふると思ひつるにこそ死にたりつれ。われ、足白き盗人とつけたりつるこそ、をかしかりつれ」など、ただ二人語らひて、笑ひたまふ。「あはれ、これより帰りなむ。屎つきにたり。いとくさくて、行きたらば、なかなかうとまれなむ」と宣へば、帯刀、笑ふ笑ふ、「かかる雨に、かくておはしましたらば、御志を思さむ人は、麝香の香にも嗅ぎなしたてまつりたまひてむ。殿はいと遠くなりぬ。ゆく先、いと近し。なほおはしましなむ」と言へば、かばかり志深きさまにており立ちて、いたづらにやなさむと思して、おはしぬ。門からうじてあけさせて、入りたまひぬ。
嫌疑をかけられおまけに糞の上に尻餅をついてしまった少将であるが、このあと餅を食べることになる。たぶん糞も麝香の匂いだったので大丈夫であったのであろう。喜劇は悲劇にも見え、その逆もある。そしてそれ以上にわれわれはその悲劇や喜劇をおもわずに現実の推移を遊ぶ。
『図書新聞』が存続の危機という噂であるが、悲劇的である。確かに何回かわたくしも執筆しているので、責任も感じる。だから、ゼミのたびに学生の斜め前にさりげなく置いてあるのだ、学生はなにかのアジビラだと思っているふしがあるが。。。
ひとの価値判断というのはアテにならないもので、わたくしなんかだと「~だったりする」という言い方に虫酸が走り、だいたいこの言い方をする奴には碌なやつがいないのだが、たぶんこれは間違っている判断だ。しかしその判断より前に、我々は人を非難する快感で遊ぶのである。
モンテーニュを読んでると、かれがどことなく大事なことを忘れたり失礼なことをしてしまっている人だったことが推察されるのだが――、見識を持って丁寧すぎる儀礼を避けるんだみたいな結論を附言し、いかにも宮仕えで苦労した人らしく思われる。ほんとはどんな判断を行う人物だったかはわからんが、丁寧すぎる儀礼にも寄りかからず、自分の性質にも寄りかからず、みずからの見識だけに頼るのがよいような状況があったのであろう。そこでは、様々な推移で遊ぶ連中がおり、しかしそれを理性で律するのも別の推移を生み出すだけだったからであろう。モンテーニュはまた、意地になって弱い砦でガンバル兵士を死刑にしたりする古来の習慣を紹介しているが、同時にその判断の難しさをいろいろ述べていた。我々の文化は、前者を逆説として面白がってしまう癖がある。落窪で起こっていることもそんなところである。