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鶏の鳴く声すれば、男君、
「君がかくなきあかすだに悲しきにいとうらめしき鶏の声かな
いらへ、時々はしたまへ。御声聞かずは、いとど世づかぬ心ちすべし」と宣へば、からうじて、あるにもあらずいらふ。
人ごころ憂きには鶏にたぐへつつなくよりほかの声は聞かせじ
と言ふ声、いとらうたければ、少将の君、なほざりに思ひしを、まめやかに思ひたまふ。
なほざりに思っていたのに急に恋しちゃう少将殿もあれであるが、急に「あんたのこころが薄情だから私は鳥よ、鳥になぞらえて泣くしかないわけよ」とかいうてしまう姫も、窪んだところで雛みたいに泣いていた割には、突然大人の鳥になったものである。急にくるのが、この物語の特徴かとも思えてくるほどである。
不幸も幸福も急に来るからびっくりするのであるが、それでは歴史にならぬと言うので、みんないろいろと反省する。しかし結局はよく分からなくなってしまう。芥川龍之介は、誠実だったので、それなら徹底的に時間を止めてみてみようとしたわけである。そうしてみると、止まった時間のなかでは未来は「ぼんやりとした不安」にみえた。芥川はすでに死ぬつもりであった。しかし時間を止めてみると未来は「ぼんやりとした不安」だった。
芥川龍之介に限らず、ほんとは時間を止めるにはおよばず、だいたい未来は急にゴタゴタしたり何かが来たりすると我々の祖先たちは知っていた。落窪物語も源氏物語も平家物語もおそらくは、もう既に起こってしまったことをマンガ化して表現しているのかもしれない。現代でもそういうのはよくある。宮崎あおいがでていた「初恋」という映画は、三億事件事件を題材にしていて、わりとすきであった。事件の主犯は宮崎さん演ずる恋する女子高校生だったという話になっている。「恋と革命」である。――そういえば、米国では、ケネディ暗殺を、純情な少女が初恋のからみでやってしまったとかいう、良い意味でのまんが的お花畑的なフィクションてあるんだろうか?
芥川龍之介が「不安」と言ったのは、むろん危機への恐怖でもあった。芥川龍之介が死んだ頃、アメリカの大恐慌は目の前に迫っていた。わたくしになりにぼんやりした不安を感じてみたいとおもうが、やはり過去のおおざっぱなことしか目に入ってこない。米国を起点に?世の中が荒れてくると、また日本は独逸とかイタリアと組みかねない予感がある。わが極東の島国は案外過去との関係に於いてしぶとい。過去を想起するのはどこに飛んでいくのか分からない言霊を扱うことであって、あぶない、――というか、我々には過去は扱いかねるほど重くなりすぎている。「我が闘争」やナチスにふれるな的なやり方が西洋中心にあったが、そういえば、日本の社会の先生の無意識なのか、縄文土器とピラミッドに時間を割き、近代史にふれるな、というやり方を。。。している。我々は、原理的にはありえない「リフレクション(反省)」をしようみたいなやり方の欠点を我々は知っているとも言えるのではないだろうか。