人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

涅槃ー死と悟り

2021-04-14 10:31:56 | 仏教関連
「安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の賢者はそれを真理であると知る。彼らは実に真理を悟るゆえに快をむさぼることなく平安に帰してゆくのである」
(「スッタニパータ」/岩波文庫他)

成仏、仏滅、往生、臨終、仏になる、お陀仏になる、彼岸に渡る...
これらは、仏陀が説かれた涅槃に関連した言葉なのですが、どれもが死というものと結びつけられているのですi
悟ることとされる、涅槃という言葉すらそうなのかもしれません。一体涅槃に入ることというのは、喜ばしいことなのか、不幸なことなのか? 縁起でもないことなのか、それが縁起というものなのか?
悟りと死...どうやら原始仏教の昔から涅槃にはこの両義が含まれていたようです。
それを無余涅槃、有余涅槃と分けて説かれるようですが、前者はおそらく今の大方の人たちが、"死ぬこと"をイメージしているものにほとんど近いものと言っていいかと思います。
死んだら自分も世界も無くなる...死んだらオシマイ...これは信じ、思い描かれているような死後の世界とか、霊魂の不滅ということも無いということであり、幸も不幸も、そう感じる自分も無いんだから、悟ってどうなるってことも無いってことなのでしょう。
しかし、それもホントのところは死んでみなきゃ分からないのです。要するに無余涅槃というのは、誰にとっても無記...分からないということなのでしょう。
これは、仏陀自身の死、"成仏"のことを指しているとも言われています。だからそれを悟道と捉えようにも、仏に口なしで確かめようの無いことになるでしょう。
又、最近の悟ったようなことを伝えている、"私という自分は無くなったi"、という言葉も無くなったはずの人間がちゃんと居て言っているのだからおかしいことなのです。勿論、そこで愛に、至福に、平安に包まれたというのも...
このように、そう感じている自分が居るというのが、後者の方で、多くの求道者に"涅槃に入ると安らぎがあるらしい"、と悟りと結び付けられてイメージされるのはこっちの方と言えるでしょう。
しかし、死というものにも安らぎがあるように感じられるものですが、それは、それに直面してない人間が願望を含めてそう感じているだけであって、ホントのところは前記したように分からないもので、これはやはり涅槃というものの両義性から来るものなのでしょう。
ところで、涅槃に入る契機には"断滅"というものがあるとされています。
これにも両義があるようで、存在そのものが滅してしまうこと~即ちあらゆる意味での"死滅"と、思いというもの、思われた自分が滅するということで、有余涅槃として語られるのはこっちの方であるのは言うまでもないでしょう。
というより、語られ、言い伝えられて来たものは、こっちしかあり得ないのではないでしょうか? 
思いが滅するのかどうかはともかく、それから離れると、得たり、失ったりしない幸、不幸を超えた平安というものがある...かもしれない。
思いというものは、完全に滅することが無ければ本当の悟りとは言えないのか?
だから仏陀が伝えた本当の涅槃、悟りの境地というものは...無記(i)だろう...。
仏陀はそのことについて明言しなかったようです。
あるいは悟りを巡ってケンケンガクガクの議論が起こったのかもしれません。今日、悟りを巡ってそういうものが次々現れて後を絶たないように...一体、そんな世界のどこに思いが滅する、ということがあるでしょうか?
無余涅槃といったことなど、仏陀在世当時も今も考えても、語ってもしょうがないことでしょう。
議論するだけ、空しい...空論、戯論になるだけです。
仏陀は、"究極の悟りが何かを知りたかったら死んじゃいなさいi"、と言ったかどうか...おそらくそれは、弟子たちにそのことを悟らせるために持ち出された話だったのではないでしょうか?

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