以前、あるクリスチャンとの話の中で彼は、「神は我々人間とは全くかけ離れた超越的もので絶対他者なんです!」と決めつけたことを言ってました。
私は無益な議論に応じる気も無く「あなたの観方も一面真理があるかもわかりませんが、神は我々に内在しているという観方もあるんじゃないですか?」
と、蝙蝠人間のように対応しました。
(断わっておきますが蝙蝠という動物は鳥類でも無い、獣類でも無いのでなく、蝙蝠というレッキとしたきわめて特異な動物なのです!)
”絶対他者”とはキリスト教神学用語と言ってもいいですが、神学者バルトの影響力がどんなものかはともかく、それで全てのキリスト教は理解されてしまう訳にはいきません。”これがキリスト教の神なんだ!”と言われても私の知ったこっちゃありません!
十人十色の理解というものがある、と言うのが真実でしょう。
それでも私は上記の返答を覆すつもりはありません。一面の真理を認めています。
もし、あなたが今どうにもならない問題を抱えていて、そこにどんな解決の糸口も見いだせず、喘いでいるとしたら…絶望の中でこの事を自ずと知らされるのではありませんか?
又この救いがたい現実世界を前にして、真摯に何処に脱却口があるのか、と思いめぐらせば…いかがなものでしょうか?
スピ系で飛び交っている、気休めにもならないような虚しい言葉の数々”神は我々の中に居る””ワンネスのみが有る””最初から救われている、何の問題も無い”…全てドブに捨てたくなってきやしませんか?
それでも尚、我々は何かが出来る…人類の英知が何とかするだろう…と言い張れるのでしょうか?
我々はいよいよもって自死、自壊にまで追い込まれなければならないのでしょうか?
そして本当にもう、お手上げになってしまった時、初めて示されるでしょう…それは頭で知ったつもり、分かったつもりの美しい言葉とは縁も所縁もないものです! もし、そこで悟りという言葉を使えるなら、初めて悟らされるでしょう…自分の、我々の無力さ、無知蒙昧さを…とてつもない精神的嵐、地殻変動の中で…これをもたらしているのは全く我々の次元のものではありません。超越的彼方から来るとしか言いようがないのです。
スピ系では平然とこう言われます。”個我は無いのです!”一体どうやって知るのですか? そう信じたらいいのですか?
どうやっても、何にもしなくともわかりようがありません。そういう言葉だけが独り歩きしています。
そうさせるもの無くして、絶対そうならないのです!
いくら”空、無、ワンネス”などと述べられても、思考の限界性が示されない限り、所詮思い描いたものでしかありません。
我々の全ての思考、能力は”頭打ち”に会って初めて別なる次元に突破の道が開かれるのです。
我々は本当に絶対者の前に降参しない限り、絶対者は内なるものとはなりません。
キリストの十字架の秘義はここに存しているのでしょう。
贖罪の信仰がどうのこうのなんて、どうでもいいことです。
それまでは神は絶対他者として…否この世に存在しないものとして、我々からは隠されたものとしてあり続けるのです。
そう、このロクでも無いこの世では、神は無力なんてものじゃない…神は無いに等しい!ではありませんか?
そして今や我々そのものが無に帰してしまうか、というのっぴきならない事態が迫っています。
もう、潔く降参するしかないでしょう。その時初めて神は我々の現前に臨むでしょう。
そして…その抗し難い促しによって、その現臨に踏み入れた瞬間、神は我々の内なる光だったことが示されるのです…。
私は無益な議論に応じる気も無く「あなたの観方も一面真理があるかもわかりませんが、神は我々に内在しているという観方もあるんじゃないですか?」
と、蝙蝠人間のように対応しました。
(断わっておきますが蝙蝠という動物は鳥類でも無い、獣類でも無いのでなく、蝙蝠というレッキとしたきわめて特異な動物なのです!)
”絶対他者”とはキリスト教神学用語と言ってもいいですが、神学者バルトの影響力がどんなものかはともかく、それで全てのキリスト教は理解されてしまう訳にはいきません。”これがキリスト教の神なんだ!”と言われても私の知ったこっちゃありません!
十人十色の理解というものがある、と言うのが真実でしょう。
それでも私は上記の返答を覆すつもりはありません。一面の真理を認めています。
もし、あなたが今どうにもならない問題を抱えていて、そこにどんな解決の糸口も見いだせず、喘いでいるとしたら…絶望の中でこの事を自ずと知らされるのではありませんか?
又この救いがたい現実世界を前にして、真摯に何処に脱却口があるのか、と思いめぐらせば…いかがなものでしょうか?
スピ系で飛び交っている、気休めにもならないような虚しい言葉の数々”神は我々の中に居る””ワンネスのみが有る””最初から救われている、何の問題も無い”…全てドブに捨てたくなってきやしませんか?
それでも尚、我々は何かが出来る…人類の英知が何とかするだろう…と言い張れるのでしょうか?
我々はいよいよもって自死、自壊にまで追い込まれなければならないのでしょうか?
そして本当にもう、お手上げになってしまった時、初めて示されるでしょう…それは頭で知ったつもり、分かったつもりの美しい言葉とは縁も所縁もないものです! もし、そこで悟りという言葉を使えるなら、初めて悟らされるでしょう…自分の、我々の無力さ、無知蒙昧さを…とてつもない精神的嵐、地殻変動の中で…これをもたらしているのは全く我々の次元のものではありません。超越的彼方から来るとしか言いようがないのです。
スピ系では平然とこう言われます。”個我は無いのです!”一体どうやって知るのですか? そう信じたらいいのですか?
どうやっても、何にもしなくともわかりようがありません。そういう言葉だけが独り歩きしています。
そうさせるもの無くして、絶対そうならないのです!
いくら”空、無、ワンネス”などと述べられても、思考の限界性が示されない限り、所詮思い描いたものでしかありません。
我々の全ての思考、能力は”頭打ち”に会って初めて別なる次元に突破の道が開かれるのです。
我々は本当に絶対者の前に降参しない限り、絶対者は内なるものとはなりません。
キリストの十字架の秘義はここに存しているのでしょう。
贖罪の信仰がどうのこうのなんて、どうでもいいことです。
それまでは神は絶対他者として…否この世に存在しないものとして、我々からは隠されたものとしてあり続けるのです。
そう、このロクでも無いこの世では、神は無力なんてものじゃない…神は無いに等しい!ではありませんか?
そして今や我々そのものが無に帰してしまうか、というのっぴきならない事態が迫っています。
もう、潔く降参するしかないでしょう。その時初めて神は我々の現前に臨むでしょう。
そして…その抗し難い促しによって、その現臨に踏み入れた瞬間、神は我々の内なる光だったことが示されるのです…。