人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

超越的な神

2015-06-19 14:33:48 | 
以前、あるクリスチャンとの話の中で彼は、「神は我々人間とは全くかけ離れた超越的もので絶対他者なんです!」と決めつけたことを言ってました。
私は無益な議論に応じる気も無く「あなたの観方も一面真理があるかもわかりませんが、神は我々に内在しているという観方もあるんじゃないですか?」
と、蝙蝠人間のように対応しました。
(断わっておきますが蝙蝠という動物は鳥類でも無い、獣類でも無いのでなく、蝙蝠というレッキとしたきわめて特異な動物なのです!)
”絶対他者”とはキリスト教神学用語と言ってもいいですが、神学者バルトの影響力がどんなものかはともかく、それで全てのキリスト教は理解されてしまう訳にはいきません。”これがキリスト教の神なんだ!”と言われても私の知ったこっちゃありません!
十人十色の理解というものがある、と言うのが真実でしょう。
それでも私は上記の返答を覆すつもりはありません。一面の真理を認めています。
もし、あなたが今どうにもならない問題を抱えていて、そこにどんな解決の糸口も見いだせず、喘いでいるとしたら…絶望の中でこの事を自ずと知らされるのではありませんか?
又この救いがたい現実世界を前にして、真摯に何処に脱却口があるのか、と思いめぐらせば…いかがなものでしょうか?
スピ系で飛び交っている、気休めにもならないような虚しい言葉の数々”神は我々の中に居る””ワンネスのみが有る””最初から救われている、何の問題も無い”…全てドブに捨てたくなってきやしませんか?
それでも尚、我々は何かが出来る…人類の英知が何とかするだろう…と言い張れるのでしょうか?
我々はいよいよもって自死、自壊にまで追い込まれなければならないのでしょうか?
そして本当にもう、お手上げになってしまった時、初めて示されるでしょう…それは頭で知ったつもり、分かったつもりの美しい言葉とは縁も所縁もないものです! もし、そこで悟りという言葉を使えるなら、初めて悟らされるでしょう…自分の、我々の無力さ、無知蒙昧さを…とてつもない精神的嵐、地殻変動の中で…これをもたらしているのは全く我々の次元のものではありません。超越的彼方から来るとしか言いようがないのです。
スピ系では平然とこう言われます。”個我は無いのです!”一体どうやって知るのですか? そう信じたらいいのですか? 
どうやっても、何にもしなくともわかりようがありません。そういう言葉だけが独り歩きしています。
そうさせるもの無くして、絶対そうならないのです!
いくら”空、無、ワンネス”などと述べられても、思考の限界性が示されない限り、所詮思い描いたものでしかありません。
我々の全ての思考、能力は”頭打ち”に会って初めて別なる次元に突破の道が開かれるのです。
我々は本当に絶対者の前に降参しない限り、絶対者は内なるものとはなりません。
キリストの十字架の秘義はここに存しているのでしょう。
贖罪の信仰がどうのこうのなんて、どうでもいいことです。
それまでは神は絶対他者として…否この世に存在しないものとして、我々からは隠されたものとしてあり続けるのです。
そう、このロクでも無いこの世では、神は無力なんてものじゃない…神は無いに等しい!ではありませんか?
そして今や我々そのものが無に帰してしまうか、というのっぴきならない事態が迫っています。
もう、潔く降参するしかないでしょう。その時初めて神は我々の現前に臨むでしょう。
そして…その抗し難い促しによって、その現臨に踏み入れた瞬間、神は我々の内なる光だったことが示されるのです…。












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霊的な事、心霊的な事

2015-06-17 14:05:54 | スピリチュアル?
今回もオカルト的な事に触れてみます。
昨日、テレビでついつい観ちゃった…”映っちゃった”特番。
ソファに腰かけていた女の子が立ち上がって、離れた瞬間…出た!霊だ!ワオッ!撮影者に向かって飛びかかってきたゾーッ!…
しかし、これは多分ヤラセでしょう? 私には立ち上がった時に見えたパンツの方が気になってしまいました。(笑)
(別にテレビ局を訴える気など毛頭ありません…面白けりゃいいのです)
私は心霊現象というものを否定しませんが、所謂幽霊があんな風にヒューマン・ライク?な動きはしないものだと思っています。特有の動き方?ってものが有ると思うのです。
だからと言って私はほとんど(起きている時には)そういうものを見たことないので詳しいこと言えませんが…
ただし、所謂レム睡眠と言われる半睡眠状態の時、ケッタイなものをイロイロ観たりします。
人の顔…ボンヤリしてて分かりづらいですが、どの霊もも少し元気で明るい表情が出来ないものかなあ、と思います。
何故そういうものが映じられてくるのかは勿論分かりません。まあ、深層意識が造り出している幻影だと思ってますけど…
(ハッキリ言えることは、そういうものを見ている時は、ロクな意識状態でない、ということです)
誰かが幽霊の正体は、残留思念である、と言っていたのが何となく腑に落ちます。
(これは人が死んでも意識体?は残る、という仮定の上での話ですが…)
幽霊なるものは、思念が意識を持った本体から独立したものなのじゃないか?という気がします。
だから誰それの霊と言う言い方は適切なのかどうか?
全く気の抜けた、生気が感じられない表情をしているのは、意識から切り離されているためでしょう。
この事はあくまで、私のロクでも無い半睡眠状態から得た、憶測にすぎないのは言うまでもありません。
その状態からはまた金縛りというおなじみの事態にも見舞われたりします。
この事と私がしばしば述べている、上よりの力に捉えられて、心身の機能を失ってしまう、という事との関連は?
多分、客観的に見たら同じように見えるのでしょうが(勿論私は見たことないです。幽体離脱?状態でも…)これは実感的に全く違います!
何が違うって、意識状態が違います。文字通り、眠りこけているか、覚めているかの違いです。
あるいはまた、思念的なものに閉ざされている、それを超えていること、主体的になっているか、そうでないかの違いとも言えるでしょう。
スピリチュアル、霊的などと言うと、これらのことがゴッチャに語られることが多いようですが、私は霊的なこと(あくまで便宜的にこう表現しているのです)と心霊的なことは区別して使うようにしています。
キリスト教ではこの辺りのことは自ずと認識されており、例えば聖霊体験のことは心霊的な事としては語られません。
ここで微妙なのは所謂守護の神霊、ガイダンスについての理解です。
私はこれに関し巷で流布されている、例えば動物霊、迷いの霊は低級霊、守護霊は高級霊などといった心霊学的理解には同調出来ません。
ガイダンスは思念的領域を超えているものであろうからです。低い、高いというものが有るとされる心霊的次元とは関わるものでは無い、と思われます。
我々自身も思念が突破されなければ、その現臨を実感することが出来ません。
このように、霊的なこと、心霊的なことの区別はとても重要な事と思われます。
考えてもラチが開かない事と、どこまでも空想していく事との違いといいましょうか…
それは我々が”ヨーシ!それについて深ーく踏み込んでみよう…”とした時にハッキリする筈です。
前者の場合、それは全く他人事でなく、自分自身の内的な問題として意識され、”私はここに在る”ことに目覚めることが出来ます。
後者の場合、段々自分でない別の何かに意識が流れていってしまい、”心ここに在らず”といった事態になりかねません。
そのうち浮遊霊だか浮遊人だか分からなくなりかねません。
そういうのはテレビで観てるに限ります。
ま、人生もこの世界もテレビを観てるように感じ出したらいいんでしょうが…。





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真夜中のオカルト考察ー前世、生まれ変わりー

2015-06-14 19:48:01 | スピリチュアル?
今日は普段はほとんど触れないオカルト的な事、前世とか生まれ変わりについて書いてみます。
まず、最初に断わっておきますが、私はこういう事に関しては一切決めつけたことは書けません!
理由は簡単! 本当のところは分からないからです。いや、私自身分かろうとしてない、と言ったほうがいいかも知れません。
先日もテレビで観ましたが、そっち系の特番なんかでよく”アレは間違いなくUFOだ!”などとよく叫んでいますが、冗談じゃありません!
未確認飛行物体なのに…間違いなく未確認じゃありませんか…
しかし”何かが空を飛んでいる”んです…だから面白いんです!自由に妄想出来るからいいのです。自由にね…(これが肝心)
でも本当の妄想というのは、ホントだかどっちだか分からないことを、信じ込んでしまう事でしょ?
私の前世はOO…こういう事に捉われて生きるのは絶対にイヤですね!前世からの宿命で雁字搦めだなんて…
私は所謂霊能者でなくて本当に良かったです…。

しかしながら、これから述べる事はただの空想という訳ではありません。
だからと言って、実際にこの目で、あるいはまた所謂霊眼で観たという訳でもありません。
こりゃあ、語るに微妙です!普通この世では無い有り様で感じたことです。あるいは意識に直接そう映った?ことです。
そう、人生の裏側で垣間観た一コマです。(いや観てないか…感じたんです、とりあえず…)
私の意識に開示されたもの…それは葡萄の樹を思わせる普遍的な有機体とでもいうべきものでした。
私の意識体?(とりあえずそう名付けます)はそこに帰属しています。つながっているのです。
その全体と一体になるという事も出来ますが、溶けたように一つになってしまう事とは違いました。私の感じた限りでは…
(しかし、異なる側面から感じられるのはその有機体全てが私の意識体だったりします)
で、そこに葡萄の一粒一粒を思わせる無数のやはり意識体が有って、それが皆私と近しい縁で結ばれているのです。
そこには、仮にですけど、イスカリオテのユダやアマノワカヒコやドストエフスキー、ベルジャーエフなどの意識体も連なっているかもわかりません。
(これらの人物は私が何となく霊縁のようなものを感じた人です)
この有機体の中では各々の意識体相互にある種の交流が有ります。
そして、私がこの世に生を享けるにあ
たって、その霊縁にある魂からなにがしかの業的なもの、性質を受け継いでいるかもわからないのです。
この部分がしばしば前世の記憶などとして語られているものではないか、と拝察されるのです。
従って、ある個人がそのまま所謂死後の世界の生活を経て、再び同じ個人として生まれ変わることは無い…と言うのがあくまで私の推論です。
転生というものを単純に信じている方とは観方が違うでしょうが、仮に転生というものが有るにしても、この人生に生を享けたというのは一回限りである、という点では同じはずです。
この意味で”人生二度無し”ですね。とかくスピ系にハマる人はこの事を軽く考える人が多いようです…
あの普遍的有機体にあった時、実はとても重要な気付きを受けていたと感じたのですが、そ、それが…ウーン、何だったっけ?意識が朦朧としていたもので…
ただ、この世に生を享けた意義といったことに関するものだったようです。…ワザと忘れたのかもわかりません。
”お前の小賢しい頭は知らなくてもいいことだ”と声なき声が告げたと思いました。
どっちみち、本当のところは分かりません…皆さんも機会が有ればご自分の目で、意識で確かめてみて下さい…。












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ポピュラー音楽の目覚め

2015-06-13 12:34:42 | 映画・音楽など
ミスター・レトロこと”すぎた”とはよく音楽談義をします。
私はロックとかポップスなど、若者向きの音楽も聞きますが、彼は言わばレトロ音楽原理主義者です。
何でも大学時代にふとラジオで流れてきた昔のジャズを聴いて目覚めたんだそうです。
”じゃ、その前はどんなのを聴いていたんだ”と訊いたら”フランク・ザッパ(アメリカの前衛的ロックの鬼才)だとか…”と言うんだから私には全く理解出来ません。まあ、例えば古代のアステカ人が書いたという絵も見ようによってはピカソの絵に見える…という事を考えたらいいんでしょうか? いや、アバンギャルトに走るとどうしても原点に回帰せざるを得ないという事か…いや彼の原点は戦前? そんなバカな!
なんにしても、彼が嬉々として古臭い音楽について語っているのを聞いてるうち、何か骨董屋さんでお宝を見つけるような楽しさに駆られてきます。
今日もシューシューとすり切れた音楽を聴きながら話は弾みました。
―ところで君は古典的な音楽オタクなのはわかるけど、古けりゃいいってものでもないんだろ?
「そりゃ、そうだよ。1920年代以前のレコードなど、ハッキリ言って単調極まりなくて何十分も聞いてたら飽きてしまうよ!」
―…そういや、君は事あるごとに言っていたよなあ…”ポピュラー音楽の歴史を変えたのは、アメリカン・ジャズだ!”って。
「そうとも、1920年代中頃、ジャズで革新的な演奏スタイルが生まれたんだ。それにはいくつかあるけど、顕著なのはソロ・パートの大幅な導入、それとアンサンブルとのバランス、対比、さらにシンコペーションもより強調されるなどして起伏に富んだ、多様な表現力が生み出されたのだ…このソロと合奏との合間にブレイクと呼ばれる間を入れる。これが又動の中に一瞬の静が生まれるような変化の妙をもたらすんだ…」(まるで大学の授業を受けてるようで、面白いのか、どうか私には微妙です)
―ブレイクか…一瞬思考が止まったようになるよねえ…クリーム(エリック・クラプトンが在籍していた英国のロック・トリオ」のライブ録音でもふんだんにやってたねえ…一瞬時間が止まったようになって、さあ、来るぞーと思ったら、延々とドラム・ソロやってたりして、これが実に退屈極まりない…”一体、いつまでタイコ叩いてんだジンジャー!”って言いたくなるよ…ソロというのは長けりゃいいってもんじゃないよ。ヤッパリ君も言うように個と全体のバランスってのが重要なんだな…
「クリーム? ああ、アート・ロックか…」
―アート・ロックだと! とっくに死語になってるじゃないか!その言葉何十年ぶりで聞いた事だろう…それはLPレコード文化時代ならではのネーミングだね。アートなジャケと切り離せないだろうからなア…
「おい、おい、私にコンテンポラリー(彼はロック・ポップスを総じてこう言う)音楽の話をしないでくれ給えよ!」
―ああ、スマン、スマン…梅雨時だし、カビ臭い話ばかりになると思ってね(クリームでさえも十分古典的なのだが)…で、その…そのジャズが世界中に広まり、その周辺の音楽に影響を与えたんだったね…
「そう、ハワイアン、ブラジル音楽、とりわけアルゼンチン・タンゴだ。タンゴを演ってた連中はこぞって、ジャズに追いつけ、追い越せと発奮してたものだ」
―やはり、ジャズと同じ20年代中頃ソロとアンサンブルとの対比とかが生まれたんだね? コール・アンド・レスポンスとかいう…
「ウン…それはジャズ用語だが…呼べば答える、答えれば呼ぶ…こういう個と全体との相関関係、それとメリハリといったものによって音楽も俄然面白くなるんだ…その時代のタンゴもジャズに負けないくらい高度な音楽性を持っていたと思うよ。ただ如何せんジャズの様に国際的な流行にはならなかった…ポピュラー音楽の裏側に回らざるを得なかったようだ…アルゼンチンはやっぱり裏側だし…」
―こうしてジェリー・ロール・モートンとレッド・ホット・ペパーズ、オルケスタ・ティピカ・ビクトル…続けて聴いてみると君の言わんとする事が良く分かる。
「それは私が最初に買ったジャズ、タンゴのそれぞれのアーティストなんで感慨深いね、ともに26年の録音だ。電気録音というのもこのころ生まれたんだ。ポピュラー音楽が目覚めたってとこかな」

という具合に彼のマニアックな話に付き合ってるうち、すっかり日が暮れてしまいました。何だか帰路の街並みもセピア色に見えてきました…


Jelly Roll Morton & Red Hot Peppers "Original Jelly Roll Blues"
Orquesta Tipica Victor "Negro"


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自明なこと

2015-06-11 17:11:06 | スピリチュアル
さて何を書いたらいいんだろ?
色々思考をめぐらして考えてるところです。今の私は…
考えている私が居るんです。自明なことですね…物心ついて一応日本と呼ばれる国に生まれ、ケッタイな性格をした自分というものが認識され…
喜び、苦しみ交々の人生模様が展開される…
それについていいとか悪いとか、判断など出来ません…そのように生きるべく仕組まれているのです。
家庭や社会からそのように仕向けられてると言っても、そうです。自明ですね…
しかし中には変わった事考える人も出て来ます。
”果たしてこのままでいいんだろうか?本当は人生の裏には重要な真実が隠されているんじゃないだろうか?”
このように感じた人にはひょっとして、その扉が開かれるかもわかりません。
そう感じたことの無い人に、そういう契機が有るのかどうかは私にはわかりません。
人類的規模で朝目が覚めたら、自分が、世界が変わってた…なんてことも無いとは言い切れないですから…
そうでない場合、全くそうしたことに意識が向かない人には、そうした契機は生まれにくいですね。
人間は皆意識が向いたとおりに生きているとも言えます。
”腹が減った、食べ物が欲しい”と意識しない人は多分餓死しちゃうであろうように…
(別の例で恐ろしいことを言いますと、例えば核兵器は使う事を意識して作られている筈です!)
逆に言うと、この意識がそっちに行くという事は絶大な意味を持っていると言えます。
修行や信仰といったものの意味もこの事と結びついているのでしょう。
でも私はそれ以前の発心とか菩提心というものと関連した、そもそもの意識づけほど重要なものは無いと思っています。
それ無しに修行や信仰や探究などに何の意味が有るでしょうか? 自明なことです!
ところがこの意識というものは、普通我々は考えてばかりで”意識されていません”
普通、心とか精神という概念で一括されてしまっていて、思考と純粋意識との境界というのは微妙なものに感じられるかもわかりません。
でもいったんそこが超えられてしまったら、思考機能は及ばなくなる…こんな自明なことは無いと感じられます。
そしてその領域で大本の命とつながっていることが示されます。
(本当は既につながっているので、悟るも悟らないも無いとも言えるのですが、”だから何もしなくていいんだ”と言えるかどうかは私には微妙なことです)
しかし、普通に考えて思考ばかりが覆われている限界内で、そこを超えようとするには無理があります。
そこで正にその限界点というものを知らないとなりません。そして、そこからその壁を突破できるのです。
それにはどうしても、そこを超えた働きに委ねないとなりません。その働きを仮に恩寵と呼んでいます。
恩寵は何も私が”上よりの力”と呼んでいる超自然的な働きばかりではありません。(狭義にはそうかもわかりませんが)
何か人を発心に駆り立てるもの…修行に駆り立てるもの…など、人生のあらゆる契機に忍び込んでいるものです。
どうしようもなく、こういうものに駆り立てられている人こそは寵児と呼ばれる人です。
ああ、もしこの恩寵というものが無かったとしたら…人生も、世界も、宇宙も、悟りも、覚醒も、ニアヴァーナも…全ては夢! 絵空事! 誰が死のうが、世界が吹っ飛んじまおうが、どうでもいい…
自明なことじゃありませんか!
でも夢だろうと、幻想だろうと、何でこんなことを書いているんだ私は…
何という恩寵なんでしょう!
自明なことじゃありませんか…











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