人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

微妙なこと

2015-06-09 14:42:40 | スピリチュアル
何かの縁でブログを読まれた方で、”これは一体何について書いているんだかよく分からない”と感じている方もおられる?かと思います。
そうですね…私にもよく分かってません(笑)…好きなこと書いてるだけなものでして…
宗教なのか?哲学なのか? スピ系なのか? こういう微妙な、曖昧な立ち位置というのはある程度認知されてきていると思います。
特定のカテゴリーでは収まり切れない、掴みどころのない領域で発信されている人もかなりおられます。
これを読まれている物好きな人というのは、この事を認識されている人だと勝手に思ってます。
でないと、とてもじゃないが付き合えきれないでしょう?
私自身、そのような層というものを意識しています。
それでも、例えばある時はノンデュアリティに批判的な事書いたり、又ある時は同調的な事書いてたり…
特定の宗教と関わらないにしても、ある信仰表明らしきことを言ったり…
何かあっちの世界につながるような瞑想法や祈り方と思しきことをボンヤリと浮かばせてみたり…
”ウーン…掴みどころがない! ハッキリしてんか!”…
そう言われても…ハッキリできないのです!
それは上からの促しに応じているためです。
私が本格的に道を求め出してからずっとそうなのです。
その促しとはこのようなものです。

”自分で決めつけてはならない、固めてはならない、通気口は常に開けておくように…
お前が本当に望むものが何時でも通れるようにしておきなさい…”

自分である決まった教えを信じ込んだり、決まった修行に執したり…という歩みはなされてきませんでした。
そうしようとすると何かの不都合が起こり、壊されてしまうのです。
ある人からは”君はさすらい人、根なし草なんだ”と言われた事が有りますが、何と言われようとこの部分では毅然とした態度をとります。ワンダラー原理主義?のように…
もし、通気口を塞ぐような事態になったら、もう致命的ですから…
だからと言って、私は本当に基礎を持たない、根なし草なのか?そう思う事も有りますが、私自身は吹けば飛ぶようなものかもわかりませんが、あの見つけられない程微妙な通気口を通じて、いわく言い難い巨大な土台につながっていることを知らされています。
これは本当にこのコンクリートで覆われたような現世から見ると非常に微妙な事です。
本当に我々を至高の世界に導く教えというものが有るのか、無いのか…微妙ですね!
又そんな世界に導く瞑想法、秘伝のようなものは有るのか、無いのか…微妙ですね!
何だかボンヤリとして掴みどころのないこと…実はそこに人の人生を決定づけるものが隠されているのです。
私は誰からもそれを教わった事がありません。
ただ微妙な通気口から流れる途方もない愛の波動に捉えられてしまっただけです。
そこには勿論、意識を固定化させてしまうものは抑えられていましたが、さりとて全くの浮遊的、無軌道的なものに流れるということもありません。
固まらず、流されず…あっちではもう自明という他無いという事が何でこっちでは微妙な事なんでしょう?
まるで今の天候のようです。雨が降るのか、降らないのか…暑いのか、涼しいのか…微妙ですね…










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どうにもならない人生

2015-06-08 02:03:49 | 雑感
最近、欧米でよく知られたネイサン・ギルというノンデュアリティ系の教師が自殺してしまったそうです。
ことの経緯はよく分からないのですが、病苦を抱えていたとのことです。
私は”自殺は悪いことだ”とか”自殺者は救われない”とか決めつけたことは言いたくないですし、そういう運命をたどったからと言って、その人の生前の業績が評価されなくなるとも思いません。
そしていつも愚痴っぽいこと書いてて、皮肉の様に聞こえるかもわかりませんが、このような事態について”自殺するような個人など最初から居ないんだし、ただ起きる事が起きているだけなんだ!”などとはとても言う気にはなれません。当たり前のことながら…
今静かなブームになってる感のあるこの所謂ノンデュアリティに触れて、苦境から救われたり、目覚めに預かるといった方も多いことでしょう。
ただ、どこかその言説に、厭世的なものが感じられないでしょうか?
その言説をまともに、そのまま受け入れようとしたら、生きていく上での意欲というものが薄れていくんじゃないか、と感じてしまうのですが…
元々こうした思潮が台頭してきた背景には、今の時というものが目覚めの契機が生まれやすくなって来ているという反面、貧困、暴力といった諸々の社会不安などで苦難の材料も又多い、生きにくい土壌にある、という事も言えると思います。
そして自殺者の増加という事も私は密接な関係が有ると考えています。
だからと言って、この思潮が自殺を誘発していると言っている訳ではありません。(今後どのようになるかは分かりませんが)人類全体がこんな世界じゃなかった…と気付き出した、と言ったらいいでしょうか?
本当に深刻な苦難…それは取りも直さず心が苦しんでいる、という事を意味しています。
それは大本から分離した個人、苦難を背負った個人など幻想に過ぎない…という事に気づくことにより解放される…
これは一面真実と言わねばなりません。私も経験してますから…。
ただ次の事はどうしても強調しておきたいです。
私は前からこういう理屈は知ってますよ!私は共感してエックハルト・トール氏の本など読んでましたから…
余談ですが、あれは私のためにある本だと思ったくらいです。”手放し、降参します…いつするか…今でショ! パワー・オブ・ナウだ!”
”私がいつも言っていることは、ホレここに書いてあるぞよ!”などと知人に調子こいて触れまわってましたっけ…
”殆ど素っ裸だったラマナ・マハルシと違って、背広を着た賢者が出てきて、こりゃあ、いよいよ楽しい時代になってきたものだ”などとノーテンキだったのは束の間でした。
(ちなみにエックハルト氏は今日のノンデュアリティ原理主義者のようなところは無いですね。)
しかし、現実に苦しみを抱えているようになって、すっかり心が重い鎖に繋がれたようになり、やがて苦難に満ちた精神に周りが密閉されんばかりの状態に陥ってしまったのでした。
こんな状態の時、いくら”過ぎ去った過去とか、来ない先のことに意識を向けないで、今ここ、今ここに…なんだ”と自分に言い聞かせるように、気付こう、気付かなければ!と思おうとしたって徒労に終わり、同じところをグルグル回っているだけなのでした。
しかし…ある時一瞬で手放せました! 降参しちゃいましたよ! ペシャンコですとも…
私は、手放そうとしたんじゃない、降参しようとしたんじゃない、気付こうとしたんじゃないのです! こういう”自分から”という試みでそうなったという事など、ただの一度もあった試しなどありません。
上よりの恩寵の光に触れたのです! 何でそうなったかはよく分かりません。祈り心地だったのは確かですが…
目覚めに預かるってそういう事じゃないですか? そこで知らされるのです。そういう事は自分の一存、分際の事じゃどうしようもないことなんだ、と…
そして本当の自分の人生(に見えるもの)には、大本の命の意志というものが厳然とあるんだ、と…
だから自分でいくら深遠な人間離れした言説を理解しよう、気付こうとしたって堂々巡りなのです。
この大本から切り離されたどんな深遠な教えも、究極の真理も、それ自体分離した幻想になるでしょう。
又、与えられた人生を自分の一存だけで…通気口から命そのもの風~プノイマが吹き込むまでは…決着などつけられないはずです。
どっちみち人生は自分でどうにもなりませんね…上で舵を握られているようで…









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神と媒体

2015-06-06 21:49:37 | 
自分とは別に神という超越的存在がいるなど、原理主義的非二元論者などにしたら到底受け入れられないことでしょうね。
ましてその神とか霊的存在が人に懸って何かしゃべり出すとか、自動書記などで教示を垂れるなど、ありえない話と映るんじゃないでしょうか?
私は昔から、その手のものが大好きですけど…
ただ、所謂宗教信者のように神が言われたままのこと、書かれたままのことをそのまま信じてしまうかどうかは…微妙です。
だからと言って興味本位に、面白半分にそれらを楽しんでいる訳でも無く、それなりに敬意を持って接しているつもりです。
しかし、何であれ”信じなさい!”と強要を迫るのは、絶対神の言葉だろうとアウトです!
この点、一時期チャネリングで一世を風靡した宇宙存在バシャールのように「私の語ることを無理に信じなくてもいいです!」というスタンスは助かります。(あのエンティティは、実に気配りが行き届いてる感じです。)
私には何時の頃からか、たとえ神の言葉、至高なる聖者の言葉だろうと、意識の内にか言葉として現れたものはそのまま信じること、受け入れることは出来ない、という回路が作られているようなのです。
どうも”こりゃあ、素晴らしい! と感激して”信じちゃおう”とすると、何かブロックされてる感じでそれ以上思考機能が働かないのです。
乱暴な言い方ですが、表された言葉が真実、真理だろうと、ウソだろうとどっちでもいい…
そこで未来の預言、誰かの過去世などが語られようとどっちでもいいのです。
間違っても、ブログなどを通じて、そうした情報の未消化のままのタレ流しなどしません!
じゃ、”やっぱり軽く見てんだろ! 有難き神の言葉、聖者の言葉を何だと思っているのか!”と言われそうですが、ではどのように楽しんでいるかと言ったら、単純に”味わっている”ということになりそうです。
勿論、その”み言葉”というものには自分にとって合うもの、合わないものがあるのは、人それぞれの気線によります。
ここで何を語っているかと言うと…その現れた形としての”言葉”についての対し方なのです。
言葉というのは媒体である…それ自体が依代(よりしろ)~見えないものを見えるものを通して象徴させるもの~である、ということなのです。
発信源は絶対界からなのかどうかは分かりませんが、形として示されているものは相対化したものなのです。
そして”この言葉は実に味わい深い…神棚にあげなくちゃ”という促しは思考の臨界点を超えたところから来ます。
この”味”というのはその領域に充満しています!
私はまたちょい、ちょい神社仏閣で神仏に礼拝したりしますが、その場合神仏を対象にしている訳ですが、それも見えない神仏を依代と見立てているのです。
最初から象徴として、対象として観るのと、意識的な働きで対象されてしまう事とはまるっきり意味合いが違います。
対象化とは見えないものが、見えるものにスリ変わること、相対的なものが、まるで絶対的なものとして幅を利かせてしまう、ということで本末転倒です。
これは多くの宗教に見られる通りで、その事が救いようのない数々の相克を作り出しているのは御存知の通りです。
神的なものは我々の意識の有り様に応じて様々な顕れをする、という理解が広まれば…と感じます。
また”神なんて実体がよく分からないのに、容易に権威と結びつくような言葉使わなきゃいいんだ”とも思います。
それでも私はしばしば神という表現を使いたい…
神仏なんて存在してなくてホントは純粋意識しかないのかも知れません。
しかし、いくら純粋意識とか空とか無とか言ったって肝心なものは伝わってくる気がしません。
これは言葉から受ける印象について言っているんですけども…
その言葉には妙なる親子の関係にも似た暖かい響きが感じられます。
神仏の存在…それは愛の媒体なのです…。





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一変人のたわごと

2015-06-05 18:27:30 | 雑感
先日、立て続けに仕事場で二人の20代の会社の同僚と雑談する機会が有りました。
身の上話に話が及んで…これがオカシイのなんのって…いや笑えません!
この二人の話から垣間見れたのは、彼らは共に今日言うADHDだったということです。
そうです!アンタらはオカシイですとも!アブナイでしょ! 刃物を投げるなんて…まるで私の鏡を見ているようです!
私が小学1年の頃はまだADHDなんて言葉は知られていませんでしたが、もう授業中教室の中を走り回るわ、机の上にある筆記類、ノートなどを自分の席、隣の席見境なく落っことすわ、スカートめくりしまくるわ…手が付けられないガキでした。
ある時、担任の先生から母が呼び出され、職員室で「お宅のお子さんは困ったもので…」とかコンコンと説教され、母はしくしく泣いていました。
確か特殊学級がどうのこうの、という話も小耳に入りました。(そっち行きは免れましたが)
私がもっと大きかったら、その先生をブン殴っていたかもわかりません。
この頃の私は何か白昼夢の中に居たみたいで、何が夢で、何が現実だか訳がわからなくて、いつも「どうしたらいいかわからないよーッ!」と叫びたい気持ちでした。
「ここは僕の住める世界なのか? いや生きるとはどういうことなのか? 僕の周りにあるのはみんなプラスチックじゃないのか?」
そんな気分も小学2年になって、どうにかナリを潜めるようになりました。
興味シンシンなこと、楽しいことに引き付けられるようになったからです。
でも私の内面にはずっと、この人生のすべてにわたる懐疑~現実感の稀薄、不確定感、といったものが根底に横たわっていたのです。
一体何を問題にしているのかさえ分からない…だが、それは全くそれが明かされなくば、全ては無意味、存立もなしえないという根本的問題です。
この暗部に電撃の様に光が与えられたのは、大学4年の時哲学者ベルジャーエフの本を通じてでした。
そして…その事が引き金になってか、私はその問題を自分で考えたり、修行して解明することなく、数年後突如開かずの扉が開いて、引き入れられてしまったのでした。
といっても、そこですべてが解明しつくされた訳でも無く、あくまで突破口が開かれたに過ぎないのですが…

私は先の二人と話しているうち、以前から薄々と感じていたことが脳裏に浮かび上がってきました。
それは、ここ最近あちこちで見聞きしている目覚めの現象、これと”この世というものがどうもシックリこない”という人たち、その中にはADHDとか発達障害のレッテルを張られているであろう、人たちの存在とつながりがあるんじゃないか?という事です。
そもそもこういう人たちは病気なのか? 変なのか? ちなみに私はひょっとしてまだADHDから卒業できてないんじゃないかと思い、大人のADHDの特徴について調べてみました。
すると…こんな説明が目に留まりました。
「こういう人は子供のように見える」
「将来を見据えて人生設計をしたり、大きな目標のために今我慢するといった、大人に求められるスキルが足りない」
”こりゃあ、いい!” 私にはこれはまるでADHDに対する賛歌のように思えましたよ!
私が誇りにしてる唯一のことといったら、例えば美しい夕焼けなどを見て、今でも子供のように感動してしまうという事です。
人生経験にたけたロートルには分からんでしょうけど…
将来を見据えて…ですって! 今の世の中そんなにお気楽に生きていけるんですか? 底辺に生きてるもんでちっともわかりません。
また今我慢ばかりしてる人はお気の毒ながら、今ある幸福に預かることが出来ません! ”よかったなあ、現役のADHDで…”
昔の私はご多聞に漏れず、人から変に思われるんじゃないかと、周囲の目を気にしてばかりいました。
それが今じゃ、忍術”掌返し”というか、”居直り”と言うか…
これは危険思想かもわかりませんが、私はこの世の中、他者に迷惑掛けなけりゃ何してもいい、どう生きてもいいと思っています。
”アンタはオカシイ、変だ”と言われようと言わせておけばいいのです!
変なのでは無い! ユニークなのです!オンリーワンなのです!
私と同じ人間など、どこ探してもいまい…多分、私が狂っているか、世界が狂っているか…どっちかなんでしょう…
”この世がシックリこない”という人は覚醒者予備軍か、さもなきゃ宇宙人です。
今日もどこかで爆発が…それともお友達がお迎えに来ているのか…
















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誰も止められない

2015-06-04 20:08:45 | スピリチュアル
”世界的規模の大地の鳴動、火柱の噴出…一体誰が止められようか!”もう、こんなノリで書くのは一寸控えようと思います。
だって毎日どっかでドッカーン!グラグラ…地球全体が目覚めたかのように…あれはあくまで精神的変容があちこちで起きていることのたとえで言ってただけなのに…こうなると心ある人たちで大難を小難にと、弭化の祈り、神呪を捧げねばなりません…。
神様の都合と人間様の都合は上手くバランスが取れないものでしょうか…

この神秘体験、覚醒体験というものですが、まだ言葉ばかり一人歩きしていて、そもそもそれは体験と呼んでいいものなのか…といったことなど、まだきちんと認識されていないためか、一寸ズレたような受け取り方も見受けられます。
まず”体験の無いヤツはデメなんだ”と決めつけ、さもその体験を特別視したりしている所謂体験ボコリという人がいます。
私自身その体験らしきことに預かった時、もう、どうしようもなく有頂天にさせる上昇気流的気分に舞い上がってしまいました。
ただ、それは優越感というより、爆発的歓喜の噴出が強く支配していたのですが…
(思い返してみると、どうしようもない歓喜がもたげて止まなかったら、素直にその喜びを味わえばいいと思います。)
それにしても体験ボコリって人はまるで独裁者気取りで、まるで周りに誰が居ようと、”自分の世界が全てなんだ!”というようなもの言いようです。
実に鼻持ちならなくて、そのテング鼻をくじいてやろうと闘志を燃やしたのですが、強そうなのでやめました。(笑)
そうかと思えば中々自分がその体験に預かれないところから、誰かが言っているのを引き合いにして”悟るも、目覚めるもなにもみんな最初から悟っているんだから、そんなものどうでもいいんだ”と自分で勝手に決め込んでしまう人も居ます。
その言い方というものは全くもって他人事、観念事で解釈し、その世界だけで決着してしまっているかのようです。そうです!全くどうでもいいことなのでしょう。当人にとっては…
しかし、そういう事を公的に、他人の前で発信しているとしたら、それを聞いている個々によってはどうでもいいことで済まない人だって居るはずです。
もし、その人を通して普遍世界よりの叡智が顕れ出よう、目覚めようとしているとしたら…観念事で決着されて済まされるでしょうか?
ある集会で、このような事を人に一生懸命説き伏せている人が居るのを見て、何ともやりきれない気持ちでいっぱいになってしまいました。
これから素晴らしいことが始まるかもしれないのにそれを塞いでしまうような試み…私にはどうにも我慢がなりません。
一方は自分中心、もう一方は他人事…私はどちらにも違和感を覚えるのは、その体験らしきことに預かるのは、その個人に帰せられてしまう、というところから来るのだと思います。
また別の観点で、”目覚めに預かると超人か聖人君子のようになって迷ったり、感情を乱したりせず、奇跡的な事をやってのけるものなのだ”などと勝手なイメージを持ってしまう事も、やはりそうした特別な個人が居るという思い込みからでしょう。
そしてその個人を対象化し、自分とはかけ離れた存在として見てしまうのでしょう。(体験ボコリの場合は多く自分を対象化してしまうようです)
誰がどうなる、こうなるじゃない…起きる事が起きてんだ!…いや、隠れていた巨人がその人を通して顕れたんだ!
もし、自分の足元に大地の鳴動を感じたら、とても他人事や、チッポケな自分限定の思いなどに留まってはいられなくなるでしょう。
お手上げ状態にならざるを得ないです。
誰にもその人の一存でどうなるってもんじゃない…どうにかなるんだったら、誰かこの世界的規模の地殻変動を止めてみてくださいな!
                






















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