人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

油と聖霊

2015-06-02 14:52:03 | キリスト教関連
宗教は実存的な問題で、「どの宗教が優れているのか?」ということを問うことでは無く、一人一人が現在、生ける神との出会いの経験の濃淡を問うことです。      
手島郁郎 「聖書の宗教とイスラエル」(ミルトス刊)

各地の有名な神社仏閣で、油のような液体を掛けるなどして、暗躍していたものの正体が浮かんできました。
私はこれはどうも狂信的なキリスト教徒の仕業ではないかと、にらんでいたのですが…やはり…
単なるいたずらだったら何故ペンキなどで派手にやらないのだろうか? ”油注ぎ”という行為に引っかかったのです。(気になりますねえ…右京さん!)
というのも、聖書によれば油を注ぐという事は神の霊、聖霊を注ぐということの象徴を意味しており、おそらくこの事を知っているであろう人がやっているんだろうと思ったわけです。
しかしその意図というのが、呪いを解いて清める…とかなんとかっていうのは?
私はてっきりすっかり形骸化した日本の伝統的宗教に命を吹き込むような試みだったと思ったのですが…
どっちみち普通じゃないです。本当に日本の伝統を愛する人ならやりませんね…。
十数年前、私は確か”聖書と日本フォーラム”という集いだったかに参加した事が有ります。
私はそこで”学研ブックス”などで取り上げられていた、日本=ユダヤ同祖論に関する突っ込んだ話が聞かれるとばかり期待していたのです。
ところがパネラーの方の話を聞いているうち、だんだん違和感、さらには嫌悪感が込み上げてきました。
そこでの主要なテーマに「日本におけるキリスト教の土着化」という、内村鑑三の無教会の提唱以来の、というより我が国の同教受容以来のテーマが掲げられ、それ自体は私も大いに関心が有ったのです。
ところが…見えてきたのです…上から目線のキリスト教宣教の野心が…
彼らの言説から感じたものは「偶像を拝んでいる異教徒たち(彼らは知らずに聖書の神を信じているとされます)に本当の神の教え、聖書の教えに立ち返らせようではないか!」といったものです。
そしてそこからは日本古来から伝わる霊性への畏敬といったものは感じられません。
彼らは言います。「何故、この国には福音宣教が遅々として進まないのだろうか?」
分かり切った話じゃありませんか! ”宗教の植民地政策”のようなものに魂が動かされ、目覚める事なんてあるだろうか?
洗脳ならいざ知らず…
小池、手島両先生にとっても福音の土着化というのは大きなテーマで”大和島根を祭壇に!”といったフレーズを掲げてましたが、上記のような野心は見受けられませんでした。むしろ日本人の血というものを感じさせたものです。
私は特に小池先生の集会には縁が深かったのですが、そこでハッキリと宗教的ドグマが介在しないところでの、霊の息吹きというものを沸々と感じたものです。
そしてこのような色のつかない命に預かってこそ、宗教思想の枠を超えて和合が実現されるのではなかろうか、と…
キリストの生命は抽象的な教理でなく、実存的に我々日本人の接木された時、上からでなく、下から目覚めが促進されるのではないでしょうか…。
冒頭の件は見た目にはケッタイな事件でしたが、見えない何かを象徴しているようでもありました…。




































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全一道

2015-06-01 00:30:19 | 求道、探究
世にはありとあらゆる宗教、思想など精神的な道となるものが有ります。
今の人たちはあまり”一つの道”だけ…という事にはこだわりが無いように見受けられますが、私もここで書いてきた様に、ある道に関わりながら又別の道にも関わりを持ったりするのは当たり前でしたし、毎日異なる種類の道の本を代わる代わる読んだりするのも当たり前のことでした。
そんなことは、学校で一時間ごとに違う科目を学ぶことを考えたらどおってことない、と思っていたものです。
これは何度も触れているように、私が学生のころハマっていた新宗教での”偏った思い込み、精神的牢獄状態”が木端微塵になってしまったという経緯から来ているのです。
そんな私もある時”私にはたった一つの道しか開かれていないんだ!”と気づかされた事が有りました。
初めて強烈な現臨に捉えられて、自分を明け渡してしまった時です。
”この岩のように頑なな自我などどんな方法をもってしても砕かれる訳ない!”と思っていたものが、自分の意志を超えた力によって降参してしまったのです。
この世にはあらゆる宗教、精神的な道があり、マスター、教師と言われる人も居る…
人は皆その中から自分に適った道を任意に選んで歩んでいけるものだと思っていました。
私はこの点で非常に目敏いところがあり、より高い次元に、より相応しく自分が導かれると感ずるや、パッとそちらに飛びついてしまうというドライな面もありました。
ところが…その時の私はもうそんな判断など出来ない…右顧左眄という事が出来ない…私はただ眼前に導かれた道に、一歩踏み込むことしか選択の余地は無いと知らされたのです。
しかし、それは一なる道と言ってもこの世の宗教のように数多の宗派のうちの一つという意味とは全く違います。
その道を行くという事は排他独善になるという事とはまるっきり異なることなのです!
私のある意味いい加減な、ある意味開かれたこうした道程を通してハッキリと促されていたものが有りました。
”道を自分で握りしめたり、固めてはならない!オープンでいなさい!”そして何か生まれる以前から待ち望んでいたものの到来の予感が…
そして実際にその”無礙の一道”(歎異抄)に踏み込んでみたら”大道無門”(無門関)だった…この相対対立の現世では求むべくもない普遍的世界が開かれていたのです。その有り様というのは一寸言葉で言い表せませんが…全一道とでも言うべきでしょうか…
自覚的になったのは後年のことでしたが、私はそれ以来もっと精神的に開かれ、そして事実上その時私の入信したり、改宗したり、離教したりするといった特定の宗教宗派的関わりは終わっていたと思います。
その道がこの世の宗教的道と決定的に違うところは、一度関わったら二度と辞めることは出来ないという事です。
かと言ってどっかの宗教の様に”辞めたら祟りが有る”とか脅かされるわけではありません。
それは神の恩寵は止むことが無く、我々の細胞レベルに根付くものだ、という意味です。
もし、本当に辞めることが出来るとしたら、それは最初からその道とつながっていなかった…という事でしょう。
自分で入るかどうか判断出来ない…それは強制されるのか? いいえ、そう感じるところもありますが、どうしてもそちらに導かれざるを得ない理由は、そこに自分の表面的な意志でない、もっと奥の本体的なところで同意が成されているからだと思います。
普遍的という事を言いましたが、この道はどんな人にも開かれていると思います。
否、遅かれ早かれ誰もが通らされる道と言いましょうか…
何教を信じていようと、いまいと…
でも私は世の宗教の勧誘のように、”この道を信じなさい”などとは言えません。
それはあなたの見えざる導きが全てを物語ってくれるでしょう…
その道は一人一人違う…でも誰でもの道なのです…。

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