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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神人と真人

2015-10-21 18:30:51 | 哲学・思想
ある宗教を信奉している人が直接体験(この直接という意味は思い描いた領域を超えて、純粋意識に直接…ということです)で、例えばクリスチャンでしたら直接キリストに触れた…といった神秘的出会いについて語ったりします。”おっと、それはマインドの次元の話ではないのか?”という疑問も生まれてくるかもわかりませんが、何といっても、そういう話というのは曰く言い難いことを、微妙なこと、自明なことを交えて表現されるわけで、私はあまり詮索などしないで、何か言葉を超えた確信のようなものが伝わり、共感出来るところがあればいいと思っています。
とにかくこういう語り手というのはイメージを借りたりして苦心して表現するのです。
もっとも聞いている方は大概何が思念的なもので、何が純粋意識的なものか分からんでしょうけども…
それにしても、私が見聞きしているそういう報告で、登場するのはキリストが圧倒的に多いです。理由はよく分かりませんが、聖書の記述が、仏典などと比べて具体的、写実的でイエスの存在も何となくイメージを借りやすいからでしょうか…
私の場合、見えざる導師などと勝手に表現しているある現臨ですが、そのような特定の神、聖人と結び付けられることは無いのは、私の宗教的アナーキストのような生き方が多分反映しているのでしょう?…
ただ、強烈に実感させられるものは普遍的なものと個的なもの、超越的なものと内在的なものを結び付けているもの、そういうものが私自身そのもののように極めて具体的に関わっているという事です。
こうしたものを私は、出口王仁三郎師やベルジャーエフになぞらえて仮に神人と呼んでいるのです。
日本とロシアに似たような神人論が伝わっているのはとても興味深いものが有ります。
共に一端分離した神と人が弁証法のように統合されていく過程を伝えています。
王仁師が救世主神として表した神素戔嗚尊は、古事記、日本神道の枠を超えてキリスト教、仏教、道教などあらゆる宗派で奉じる救世主神の大本といった趣が有ります。
信じる信じないは別として、私はこれは本来神仏というものは、特定の宗派で括ることが出来ないものであることを言い表すための方便ではないかと捉えています。
そしてこの神は又なんと聖書の世界の秩序を乱した悪神、堕天使ルシファーと罪の贖い主キリスト・イエスと重なることでしょう!
悪神と救世主の二役です。真相は神のみぞ知るでしょうが、どうもスサノオという神は元の神を押し込めた加害者側でもあり、またその報いでか?押し込められてしまった被害者側でもあるという二面性が有るように感じられます。
大本神話に観る神代の時代元の神~国常立(クニトコタチ)尊の幽閉のあらましは、我々の内なる神性が”中途の神”によって表面意識によって閉ざされてしまったことを象徴的に表しているものと思われます。
それには前段階があり、どうも大本の神からの分離として個的顕れとしての人間を表出させた、これに関わったのがスサノオではないかという気がしています。
そして”神が表に顕れる…”の時節が到来して、我々の内なる神性が顕わになるのを促進させているのもこの神ではないか…神人スサノオは我々の始原と終末とともにあり給うのです。
王仁師とほぼ同時代に生きたベルジャーエフは、自他ともに認めるキリスト教徒です。でも彼は言う「聖書というのは、我々の限られた、閉ざされた意識状態に適応させるために書かれているのだ…本当の淵源は書かれざるものにある…」私の理解では聖書に依拠しない人間はキリスト教徒ではありません。(だから私はクリスチャンになり得無いのです)何々教徒でなければ彼の言葉は全く正論です。
彼の終末のヴィジョン、歴史と世界の十字の中心には歴史的キリスト教を飛び越えた、永遠の神人キリストが立つのです…。
王仁師とベルジャーエフはタイプも生き方も全く違っていましたが、人間を取り巻くあらゆる障壁を取り払い、真の人間性を顕わにしようとした点でトーンを同じくしていました。
非二元の的な話とは関係ないでしょうが、神人とは真人という事なのでしょう…。










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第三のアダム

2015-10-18 17:29:17 | キリスト教関連
釈迦やイエスが如何に偉大な聖者であったにせよ、自分自身をどっかに置いて崇め奉っていてもしょうがないですね。
この世の自称覚者にしろ、生き仏にしろ生まれつき悟った人など居ないのです。
どんな人でもある気付きというものが契機になって、悟ったようなことを言い出したのです。
如何に人間離れしたことを語っていようと、皆人間だった…
覚者や教師らの上からのお話を鵜呑みにする前に、こういう当たり前のことは認識しておく必要が有りますね。
そして最も肝心なことは、語られること、学ぶことは、他ならぬ今のあなた自身にとっての問題であるということです。
二元性の終わりとか探究の終わりだとかいう事でも、それはアカの他人がどうこういう事でなく、それを判断し、決めるのはあなた自身であるのは言うまでもありません。
この気付きということですが、これは”自分は気付いていないんだ、何も知ってなど居ないんだ”ということに気付くことなしに、そういう事は起きませんね。そしてそこには自分を超えた気付かせてくれるものがあった。
つまり二元性というものはどうしても必要なのです。これを誤魔化して分かったつもりになることの危うさについてはいつも触れていますが…
そして、その奇しき出会いの瞬間というのは、なにか遠い昔の楽園生活とも感じられるような記憶が蘇り、今生で味わえないような霊なる親との対面に預かるのです。
ある種のキリスト教に見られる聖霊体験ではこの霊なる親は多く、”あれは間違いなくイエス様です!”と平然と語られます。”あなたは本当に見たのか!確証でもあるんですか?”と突っ込みを入れたくもなるのですが、”信仰は自由”というお互いの暗黙のルールが有るので…私は無宗教でいたいし…
ただ、こういう事態には”かくありたい”とかいった人の意識状態というものも反映されるようです。
この話を別の視点から見ると、クリスチャンは羨ましいと思います。聖書という実にドラマチックな書き物に自分の体験をなぞらえることが出来て…
”聖霊を受けると、聖書の文字が立体的に飛び出してくるんだ”という言葉も何となく分かります。
キリスト・イエスというのは人となった神ですね。西田幾多郎、毎田周一流に言えば、”絶対無の自己限定”です。
私の想像ですが、彼にはプロトタイプともいうべき存在が居たと思われます。
それは堕落した天使ルシファーです。彼の試みは神のようになろうという、自意識のもと衝動のままに動かされたのかも知れません、それがサタン的な試みだったかも知れません。でもそれは壮大な神と人間の劇として捉えれば、偉大な開拓者の冒険にも映ります。
この試みが子たる人間の誕生と関わっていたとしたら…彼は来るべき新次元の到来の先触れなのです。
故に”明けの明星”と呼ばれていたのでしょう。
ところで、罪なきイエスは何故、十字架を負わねばならなかったのでしょうか?人類の罪の贖い? 先代が犯した罪の贖い?…
イエスは周りからは神の子と呼ばれていましたが、自らは人の子と呼んでいました。
また使徒パウロは彼のことを堕落した、古いアダムに対して、”第二のアダム”と呼びました。
彼の福音書に見られる事績、言行の数々は人間は何処から来て、何処へ行くのか…人間そのものについての証なのではないでしょうか?
彼は旧約説話に基づけば、知恵の樹のみならず、アダムが見出せなかった生命の樹と共にあったのでしょう。
生命の樹とは一なる神に連なるものです。
イエスの出現は、知恵の樹により分離した我々を再び結び合わせるためだったのでしょう。
それは数千年前の聖書の記事のことなのでしょうか?
それとも来るべき普遍的人類の未来についてのことなのでしょうか?
いや、彼を信じようと信じまいと、我々一人一人のドラマからしか本当のところは示されないことでしょう。
それはさしずめ第三のアダムの開示といったところでしょうか?…













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失楽園の裏側

2015-10-17 13:53:57 | キリスト教関連
「お前の前にはいっぱい面白い本が有るよ。絵本、画集、哲学論文(こんな頭痛くなるもの私しゃ読めん!)、極め付きは聖書だ(神はこう言っただと!誰が書いたんだ、そんなウソ!)…だけどな…あの雑誌の袋とじになってるヤツ、封印されてるんだ。あれだけは絶対に見ちゃいけないよ!見たら死んじゃうんだよ!…」

良い子の皆さんは親からこういう戒めを与えられたらどうしますか? ちゃんとおとなしく守っていられますか? 私だったらまずじっとしてられなくてウズウズしてきて、しまいに間違いなく親が見てないのを見計らって、”為すべきことを直ちに”実行に移します。それが好奇心いっぱいの子供ってもんじゃないですか! 世の中の全ての戒めで破られなかったものなどあったでしょうか? そうです、戒めというのは袋とじみたいに破られるためにあるんですよ! そして破戒した者は、ゾクゾクするような冒険に乗り出すのです。それには多大なリスクも失敗も付き物ですね…
見たら死ぬのかも知れないけど、”これを見ずに死ねるか!”ってもんじゃないですか!…

楽園生活でのアダムとイブは神の戒めを聞き入れず、狡猾な蛇にそそのかされて、禁断の果実を食した罪により、楽園を追われることになりました。
もしかして神は全て御存知だったのではないでしょうか。好奇心いっぱいの人祖が、イケナイことを聞かされてウズウズしてきて何をやらかすかを…
一説にはこの楽園追放事件に加担した蛇は、神になろうとして悪魔に転落した天使長ルシファーであるとも言われています。(彼は”明けの明星”と言われていたそうです)
この物語の真相は神に聞かなきゃ分かりませんが、実に事の善悪が強調された話ですね。何しろこれにより我々に負わされた原罪が定まったというのですから…
でも人間として生まれてきた我々(アダムとイブの末裔です!)にとって、ごくシンプルに考えてどう感じるでしょうか?(人間卒業志願者はさて置き)もし、人間として生まれて喜びを感じているとしたら、堕天使ルシファー様様とは思えてきませんでしょうか?
彼は神のように自由になんでも創造できる意志を手に入れようとしたのでした。だが計画に失敗して、闇においてでしか生きられなくなったのか、自由意志を神の型どりをした人祖に吹き込み、託すことに成功したのでした。
そして輝ける明けの明星である地位を放棄して、地獄の魔王に成り下がったのでした。
私は昔からこのことには秘密が有ると感じていました。もし、ルシファーが神の怒りに触れて堕落したのでなく、自ら降って行ったとしたら…大天使の天空を天駆けられるであろう翼を失い、あらゆる制限と困難に満ちた世界に赴くことを選んだのだとしたら…
神はこの事も御存知だったのでしょうか?
ただ私には何となく、神は”存知せず…私しゃ知りません、奴らが勝手にした事、どうなろうと知ったこっちゃない!”と決め込んでいるように思えます。ルシファーたちの自立、分離を受け入れたのです。
それも自由意志を尊重するのでしたらごく自然なことです。
善悪を知る樹というのが二元性というものを象徴的に表しているのではないでしょうか?
そして神は我々の前から隠れ…身を引かれ給うた…我々を表に顕わすために…個的なものを表出させるためには、全的なものは退かなくてはなりません。
あたかも大海の水が退くことによって、島を浮き出させるように…
では何のため?…それは神に聞いてみなきゃあ分かりませんとも…
少なくとも、今感じていることは…ここで神とか人間とか表現出来るってことは、そういうものをイメージ出来るからこそなのです。全部が全部だったら何一つ表現することなど不可能なのです。ここで扱った大事件?すら起こりようが無い!
ドラマ、起伏、変化の無い世界って…自分が自分でないなんて…想像出来ません!
そして、秋の涼風がかくも清々しくて心地よい…。




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統合の時代

2015-10-15 18:20:47 | スピリチュアル
現代は、統合の時代を迎えている、と言われています。
ノンデュアリティなどが台頭してきたのも、このような背景があるように思います。
まるで二元対立の時代は終焉した…とのノロシを打ち上げているようですね。
確かにこれまでの我々の歴史はあまりにも分離感に基づく相克の繰り返しばかりだったという感が有ります。
ある人は、悠久の昔、神も人も一つにつながっていた、ワンネスの状態があったといわれ、それが分離のプロセスを経て、再びワンネスへと統合されていく…と言っています。
本当のところはどうなのかは、神に聞いてみないと分かりません。
あるいは神は”相克なんて元々無くて、幻想に過ぎないんだよ…分離なんていう過渡的状態というのも無くて、元々神も宇宙も人間も一つの全体しかなったんだよ…”と答えるかも知れません。というよりそういう事は生身の人間には言えることではありません。
万事神の仰せの通りだったら、そうなっているんだったら何を言ってもムダでしょうが、私は以前、どっかから”お前はどうあったらいいと思うか?得心の行くまで感じてみられよ!”と促された事が有ります。そこには決まったものなど無いのです。
そこで皆さん(これはハッタリでも全人類に向けているつもりです!)の本心に聞いてみたいです。
”分離した個など無いという、あなたはそれで満足ですか?納得出来ますか?”と…
私は自分が自分でなくなってしまう事など、考えたことが無く、考えることが出来ません。今までもそうだったし、おそらくこれからも…
何が自分なのかは分からないけど、他の誰でも無い”私はある”という感覚は否定しようが有りません。
非二元論者は言う、個は幻想に過ぎない、と。
そうですね。多分無かったんでしょう…一度たりとも…個的なものが生きていた時代など無かったと思います。
個人主義の時代が有ったかのように語られていても…
考えてもみてください。家庭、学校、職場、社交場、教会…そこであなたはあなた自身で居られたことなどあっただろうか?
それはあなたしか居ない孤独な状況においてすら、本当に個でありえたでしょうか?
もし、そこで強い孤独感に苛まれているとしたら、他の誰かへの依存を感じているという事でしょう…
自我の確立という事なら文明人なら物心付いたら刷り込まれていますが、これと個的なものの実現とは全く違います。
他への依存という事を言いましたが、本当は個というものはそれだけで切り離されたものじゃないようです。
それだけでは、それ自体で生きられない断片に過ぎないでしょう。
一つ、そこにポツンとあるようなものでなく、周りと切り離されていない統合された何かを感じさせます。
だがそれ以上に考えることが出来ないのは、全ては元々全体しかないという非二元的な言葉です。
それを考えている人間すらいないのですから…
でもこうした言葉は、どうしても打ち消すことが出来ない”私はある”を意識させてくれます。
それは一なるものと結びついているからだと思います。
私は一なるもの、というのをここで二重の意味で使っています。全体的なもの、個的なもの、どちらもの一なるものです。
それは結びつくことによって、それぞれをありやかに示されるのではないでしょうか?
この現実世界では、全体も個も統合された時、初めて生きたものとなるでしょう。
我々の無意味とも思える歴史も、その断片的に見えるものに統合性が与えられることによって、観方も変わってくるでしょう。決定されたものなどないのです。
私には現代は、すべてが統合された時代、かつてのワンネスの再現というより、全的なものと個的なものの統合の時代の到来に映っているのです。
これには”そうなっているもの”が示されるばかりでなく、おそらく”かくありたい”というものも反映されることでしょう。
真相は神に聞いてみないと分かりませんが…
私はただ、垣間見たままを語っているに過ぎないのです…。勿論決まったものでは無いです…。




















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ブッダとキリスト

2015-10-12 12:34:11 | 宗教
人類の教師を代表するゴータマ・ブッダとキリスト・イエス。この二人の聖者には類似もよく指摘されていますが、対照も浮き彫りにされています。
多くはとても語れないので、ここでは主に”出たり、引いたり”の話です。
仏教では、広く人間には本来仏性というものが有る、とか如来蔵~如来を内に宿している、ということが言われ、理解されています。
しかし当のゴータマ・ブッダは、これに関してこのアートマン、真我にあたるものは有るのか、という問いに”無記~記さず”と微妙な答え方をしています。
おそらく、そのことに対し決まった見解に固執してしまう事の危うさから、そのように答えたのだと思われます。
少なくとも、ブッダは残された記録からすると、今日の非二元原理主義のような極端な言説はしなかったようです…全く似つかわしくないです。
この事に限らず、ブッダの言葉というものは”有るが如く、無いが如く”といった感じで実に微妙な言い回しが感じられます。
大体仏教というもの自体が一つのイメージとして捉えにくく、微妙でアヤフヤなものです。ブッダに直結した原始仏教だけを問題にすればよさそうなものを、禅も仏教、念仏も仏教、法華も仏教…とブッダを差し置き、数多の仏法が一人歩きして割拠しているかの如くです。
これはそもそもがブッダの仏道というものの性質が、このように微妙な色合いを持っていたからではないかと思います。
そこへいくとキリスト教というものは、仏教のような多様性は見られず、歴史的変遷から微妙な差異はあるものの、聖書という絶対的依拠があり、なによりもキリスト・イエスの存在は形は違えど、多くその聖書を通じて常に表に出てきています。キリスト教には聖書とイエスの言葉はどこまでも付きものなのです。
すなわちロゴス~言葉がともいうべきでしょうか?
そしてその言葉たるや何と自信にあふれ、自明なものとして断定的に感じられることでしょう。
「私を見たものは父を見たのである」「私の教えは私自身の教えでなく、私を遣わされた方の教えである」
そして、私は何度か目の当たりにしていますが、このキリストの福音を聖霊によって身に体していると思しき牧会者の言葉も又、まるでイエスが乗り移ったかのように、力強く、デモーニッシュに全面に出して語るのです。
このような形はおそらく旧約の預言者に遡ると思われます。
預言、すなわち神から言葉を預かるのです。人間から出るのでない…”我ならぬ我”が語るということです。
日常の自己が無化されたところから別の、真の主体が顕わになるのです。
人智学者ルドルフ・シュタイナーはブッダの道はキリストの道を準備したと述べていますが、聖書の世界でその役割を担ったのは、おそらくバプテスマのヨハネでしょう。
もっと普遍的な、人類史的に捉えれば、そういう観方もあるのでしょう。
勿論、このことはあくまで大まかな対照的に映る傾向を記したまでで、両者は似通った運命を辿らされていくといういうことも忘れてはなりません。
例えばブッダの解脱には自己の無化から形なき命~ダンマが顕わになり、やがてそれがブッダの内面から現実世界に出て行く~転法輪~ことが示され、キリストの十字架の刑に着かれたことは、それ自体が自己の無化の象徴であり、そのことが来るべき聖霊降臨の道~聖霊の現実世界への転出~を開示したのです。
私はこのダンマと聖霊には同質のものでありながら、前者の微妙な感じ、後者のより自明的、力動的という違いが有るように感じています。
これがブッダとキリストの言動の違いに顕れているのではないでしょうか…
いずれにせよ、ブッダ、キリストは我々に微妙な事、自明な事…出ては引っ込み、引っ込んでは、出てくる、という事を通じて”無いこと””有ること””無即有”の消息を表裏一体のように伝えていると思われます。



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