人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

世界に一つだけの花

2016-01-22 19:43:02 | 雑感
世の中をよくしようなぞと 閑な事を考えてゐる人がある
世の中をよくしてそれから 君はどうなるのだ

世の中を相手にしてゐる限り 君の生命はお留守になってゐる
明日をも知らぬ君の 今日の生命ではないのか

世の中の今のこの儘に 戴いておいて それよりも
今日の君の生命を 最高度に生かさうじゃないか

薔薇は世の中をよくしようと 咲いてゐるのではないだらう
今の自分の生命に生き切って 薔薇は真紅だ―

            (毎田周一「真紅の薔薇」)

私は元来がそうなのですが、21年前兵庫県の尼崎市で阪神淡路大震災に遭遇してから、より一層刹那的に生きるようになりました。
老後だとか、何年後に向けての人生計画のことなど考えない…今日一日僅かでも”生きていてよかったなあ…”という実感が持てればいいと思っています。
又世の人はどう思っているか、とか他人の目というのも気にしなくなりました。
それに社会貢献だとか高尚なこと言っても…
あの天災の前では何んにも出来ない、自分の無力さを知らされるばかりでした。
そんな自分への後ろめたさというものも、それからは感じなくなりました…。

天災や、戦争の無い平和な世界であってほしいとは、そりゃ思いますけど、それよりも何よりも私は自分自身が平安でありたいです。
つまらない毎日、バカバカしい毎日の中にあっても、ほんの一瞬のような平安のひと時でもいいのです…
平和、平安というものを自分が実感してなくて、一体何の平和なのか! 
平和でない周りの世界を向こうに置いて見ていると、”平和でなければならない、平和にしなければならない”と平和でないものに対立させるような思いに駆り立てられて来ます。
原理主義的な宗教などでは神仏につながることよりも、有るのかどうかわからない仮想サタン、闇の勢力との闘争に明け暮れています。
神仏のことなど信じられず、サタンらしきものの所業は熱心に信じているのです。
サタンとは心の中に幽閉して、敵視している罪深き自分自身のことに他ならないのではありませんか…
世の中をどうにかしよう、とする事よりも、分裂した自分自身との和解、自身の内に平安を見出すことの方が、どれだけ直接間接の自分とのつながり(つまりはそれが世界)の平和、平安に意味あることでしょうか!
つながりと言う…あなたと全体は相即しているのです。
あなたが幸福なら世界も幸福になる…”逆は真なり”では無いです!
客観的(に見える)現実とは、内なる意識の投影だから…
人それぞれの至福の種はとして自分にしか与えられて居らず、自分にしか分かりません。
何で他人と比較したり、世間の目や他人が信じている御本尊といった架空の神なぞに妄信などしていられるでしょうか!

厳寒越えて春近し…”世界に一つだけの花”が狂い咲いているようです。

















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雪降って、日が差して

2016-01-19 17:39:46 | 詩的文章
パソコンがイカレちまった…

おまけに朝から雪まみれと来ている…

クソッ!何て日だ!

ヤツがやってくるぞ!

ハンマー片手にザ・クラッシャー(ぶっ壊し屋)のお目見えだ…

この世界は無差別テロに見舞われるのか!

君はいつもムチャクチャだ、嵐のように荒れ狂っては、

哀れな残骸を前にして、邪魔者はコナゴナになったものの…

”さあ…オレはこれからどうしたらいいんだ?…” って…

可哀そうなルール・ブレーカー(無軌道者)さん…

君の言い分は分かる、僕はお見通しなのさ…

僕は空に浮かぶ目玉…観照する自己(のフリした君の同類)

本当は小春日和のように長閑な生活を求めているんだろう

誰もが皆そうなんだよ、無駄な力の行使、無益な闘争など望んじゃいないんだよ…

僕はルールを作ることが出来るんだ…遠くまで観ることが出来るんだ…

有線がダメなら無線にすればいいんだよ!

これからは見えない物が顕れてくるのさ!

ほーら…日が照ってきた、灯りが差してきたじゃないか…

君の方の接続も上手くいくだろう…おとなしくしててね…

これで、どうやら中国産の安物のパソコンの平和も保たれた…

テレビでは解散する、しないって、なんだかんだで話題沸騰(上手くやるもんだねえ…)

僕は狡猾な平和主義の自我…















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宗教哲学の意義

2016-01-17 12:08:10 | 哲学・思想
哲学なんて言うと、小難しくて敬遠してしまう人も多いかも知れません。
ま、人それぞれ気線というものが有る訳ですので、合う、合わないというものがあるのは、どうしたって仕方無いですね。
ただ、哲学というもの一般に付きまとっていると思われる先入観の一つに、ひたすら論証に明け暮れていて、現実の所謂真理なるものに結びついているのか、どうか分からないような(机上の)真理ばかり展開している…というものが挙げられるとでしょう。
これは多くは、所謂”講壇哲学”に帰せられるべき事だと思います。
こうした哲学の傾向は例えば、その学者の学説がその依拠する何らかの主義、学派に即したものに偏るなど、、いかにも”学問のための哲学”に終始してしまいがちになります。
一口に哲学と言っても、様々な形態があり、それらが全てでは無いのです。
宗教哲学と呼ばれているものでも、純粋に宗教的な事柄を扱うものばかりでなく、文学的なもの、民俗的というか、文化人類学的なものと関連付けているもの、科学的なアプローチをしているものなどが有り、実に宗教的なもののあらゆる周辺とリンクしているのです。
何であれ、現実の生きた真理に向けられ、開かれていない哲学など意味ないでしょう。
私は、このブログで度々触れているように、(それほど多く接した訳では無いですが)”宗教哲学”と便宜上分類されている学問にとても啓発を受けています。
(この分類は主として西洋哲学の流れの中で形成されました。御存知のように東洋の仏教、ヒンズー、儒教、老荘などの伝統では宗教と哲学の区別は曖昧です)
宗教哲学は宗教的な事柄について語られますが、宗教ではありません。
ということは、宗教にまつわる、教祖、教義、教団といった、我々を十重、二十重に取り巻く権威による隷属から自由だということです!
この事により如何に精神的健全性が保たれることでしょうか!
私はこれにより、他人の言説を無批判に信じ込むことから、自分自身である事柄について考え、掘り下げる、という心の姿勢が養われたように思います。
宗教哲学者は自らが、何らかの熱烈な信仰者である場合も少なくないですが、狂信者のように押しつけがましい、一方通行の信仰表明に走ることは、学の無い態度とみなされます。
信仰への安易な追従や護教論などに逃避することもあまりありません。
もっともより直接な宗教者からしたら学的であるあまり、理知的理解に逃避してしまう傾向も無い訳ではありません。
神というか根源的なものへのアプローチとしては、いささか直接性に欠ける面も有るのかもしれません。そのように思弁に偏りがちになる時は、宗教的直観にもすぐ意識を向き直ることも出来ます。
彼らは宗教がその道を歩む上で信仰や修行に則るのに対し、多く認識というものに則ります。
認識などというもので、神的なものに触れることなど無い…などと高を括っていてはなりません。
認識というものが参入~イニシエーションの役目を果たすことも有り得ることです。
その辺りが、知的認識に留まり、学的領域に閉じこもりがちな講壇哲学者との違いなのです。
宗教哲学者の中には、秘儀に通じた者も少なくないのです。
哲学的参入とは、宗教にありがちな一方通行のドグマへの自分の主体性を放棄した迎合ではありません。
自分の感性も思考も放棄されることなく、主体的に関わることです。
その過程で、それらが超えられてしまう事も有ります。
それは述者と読み手との共同作業とも言えるかも知れません。
宗教哲学は妄信にもつながる宗教とも思弁に捉われた所謂哲学とも違う、中途半端な様で、何かの”つなぎ”のようないかにも人間的な道と言えるかもしれません…。







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時空を超えたヒットチャート

2016-01-15 00:01:41 | 映画・音楽など
洋楽のヒットチャートに接しなくなってどれくらい経つだろう…
今どんな曲が流行ってるのかなど全く分かりません。
これはラジオ、特にFEN(米軍向け放送)を聞かなくなったことが大きいと思います。
昭和45年くらいから「オールナイト・ニッポン」などの深夜放送で洋楽のトリコになり、47年から54年頃にかけては殆ど毎晩FENを聞いていました。
そして55年くらいから約20年間、私の音楽生活における表(A)面(ロック・ポップスのこと)からは全く遠ざかってしまい、ひたすら中南米音楽を中心としたマイナー裏(B)面路線(日の当たらないゲットー)に引っ込んでしまったのでした。
このブランクは実に大きい…80年代以降のヒットチャート曲など数えるほどしか知りません。
メロディは聞き覚え有るものも多いけど、曲とアーティスト名がなかなか一致しません。
私はしかし初期の頃のドーナツ(シングル盤)時代は別にして、自分で気に入って買うレコードというのは、巷での流行りものとは無関係なのでして、当時代的ヒットチャートと超時代的?音盤との二重の音楽ライフというのが当たり前なのでした。従って流行に後れてようと、どうだろうと私の世界では無意味なのです。私にとってのベストヒットNOWとは、単純に目下お気に入りの曲というものに他なりません。…てな訳で最新ベスト5がコレだ!!
(何時に無く限りなくA面よりのものです…。ただ…こんな理由があってコメントがとてもズレてます。)

<第5位 ザ・ヤードバーズ、”Heartful Of Soul”>
これは典型的なブリティッシュ・ビートです。中学時代”クリーム”のライブ盤などを聴いていた時など、アホらしくて聴いてなかったでしょう…でも今は延々と続く即興演奏など退屈で聴いてられません。動画では”ギター三羽烏”のようには話題に上らない、ヴォーカルのキース・レルフがグラサンをキメてますが、外すと”1D”とか”B.C.R”(ベイ・シティ・ローラーズ!私の軽蔑の対象でした!)とかアイドル路線の顔になってしまいます。
<第4位 シカゴ、”Hard To Say I,m Sorry”>
これはもう、このチャートでは異例?の超特大ヒットですね。CMの力というのも絶大なものが有ります。エモーショナルな歌唱というのも私には異例なのですが、この歌手が?”クエスチョン67”(…いや80年代リリース)です。この声は間違いなく太っちょピーター・セテラだろう…しかし動画を観てたら、誰だ!このイケメンは?…エッ!ピーターなの…ウソでしょ!…きっと”長い夜”を経て、ここまで絞り込んだのでしょう。彼はその後ソロ歌手に転向したそうですが、昔の姿からは想像出来ません。テリー・カスとともにプロレスラーに転向してもおかしくないくらいでしたから…
<第3位 エンゲルベルト・フンパーディンク、”Winter World Of Love”>
忘年会に備えて冬にふさわしい曲をカラオケでマスターしようと一生懸命覚えたものの、すっかり忘れてしまい歌う機会を逸してしまいました。
そこで、仕事仲間が尾崎紀世彦の”また逢う日まで”を歌っていたので、”和製フンパーディンクだなあ”と言ったら、”フンバルドリンク?、何それ?”と、通じません。精力増強飲料みたいでこの歌手にふさわしいかも知れません。
<第2位 ミルバ、”Tango Italiano”>
ここへきてB面ぽくなってきました。60年代初めの日本でのカンツォーネ・ブームの立役者の一人です。しかし、ちっともタンゴ的でないです。ブズーキ(ギリシアの弦楽器)みたいな音色が聞こえるなど、いかにも地中海の歌謡曲という感じです。アッ!…これがイタリアン・タンゴってことなの?
ミルバは後年、ピアソラと共演するなど本格的なタンゴも歌ってますね。
<第1位 アラン・パーソンズ・プロジェクト、”Eye In The Sky”>
この曲は先月水木しげる先生へのオマージュのつもりで書いた”ビビビの覚者”で、空に浮かぶ目玉の親父なんてのを書いてた頃、たまたま検索してるうち巡り合い、初めて曲名とアーティスト名が一致しました。私はずっとこの曲はザ・フーのジョン・エントウイッスル(ロック史上最高のベーシストの声もある)が歌っているものと思い込んでいました。作風はしかし共通するところが有りますね。
という訳で、私の年末年始はこの曲が”目玉”です!(覚えましたよ!)


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建物と土台

2016-01-12 14:35:10 | 雑感
今をときめくカリスマブロガーA氏の過去記事に「巨大なタペストリー」という題で、このような意味の事が書かれていました。
”100人いたら100通りの違う世界が有り、それぞれに穴が有る。そこから光が差し込んでいるが、その出所は一つの巨大な光源である…”と…たはッ!んもう、こんなこと書いちゃって…
私は心から共感しました! これは個的な顕れとしての世界と大いなる、一なる世界との関係というものを実によく伝えていると感じます。
さすがは大御所! おそらく、これは彼が一瞥した時に感じたことをそのまま表現しているものなのでしょう…今の彼は…別人のように感じるのは私だけでしょうか? 今はもう、ストーンズのミック・ジャガーが歌っていたように、”どんなカラー(個的多様性)も要らない!みんな黒く塗りつぶしちゃえ!”(ペイント・イット・ブラック!)とひたすら叫び続けているようです…。

誰にも当てはまることなのかどうかわかりませんが、意識のシフトとか人生での重要な転換に巡り合った時、ある試練が待ち受けているものだと思います。それはそれまでずっと熱心に探究、求道の道を歩んできた者にとっては避けて通れないものかもしれません。
又、私のような自意識過剰な人間にとっても…”自分はついに悟った…悟った人間である”こういう思いというのがなかなか拭えないものなのです。
理性的な自分は、そういう思いに捉われるのは、エゴだと知ってますから、拭えない思いとは裏腹に”悟ったって大したことないんですよ~”などと呟いたりします。その発露は、肥大する自我を打ち消して、もっともらしいことを言う自分でなければならないという、もう一方の自我の思いかも知れません。(私はこういう事を否定的に言ってる訳ではありません)
探究心旺盛な人は、”悟りにはいくつかの段階が有って、究極のレベルなんてのが有るらしい…”なんて聞いたら、ジッとしていられなくなります。
アストラル・レベルなんかで留まってちゃダメなんですからねえ…
”常に悟っている人で居たい…究極の悟り…”こうした思いにまつわる誘惑こそが、試練と言えます。
そしてどこまでも現世にあって限界ある自己が、ニアヴァーナに達したと思しき自己に成りすました時、抜き差しならぬ事態になります。
これは眩いばかりの一瞥から日常に舞い戻って、再び思考があれやこれやの色の着いた情報に巻き込まれたり、色の着いた解釈をしたり、訳が分からなくなってどうしよう、こうしようとこれ又思考をめぐらした時に陥りやすいものです。
でも…真実は一つ…色の着いた話は置いて、原体験に忠実に、渦中で何を感じたか…それが全てを物語ると思います。

マルティン・ブーバーは「対話」の中で、自身の所謂ワンネス、神人合一と思しき体験について触れています。
ただ、彼自身は、「現存在や神性との合一が起こった…」などと僭越な事は言ってません。
又、「こんなことを確言するのは、責任ある認識には許されぬ誇張である」とまで述べています。
そして彼が預かった超個的な認識というものを「私が到達したのは私の魂の基底なのである…私の精神はそれを根源基底として理解せざるを得ないのである」としています。
私の理解では、これは喩えれば建物とその土台、あるいは本来無制限であるはずの土地との関係を言い表している、と思われます。
ま、表れている見たままの自分と見えない基底的自分…という事になりそうです。
この関係では平屋だろうと、超高層だろうと、同じ基底とつながっているものを想起出来ると思います。
区画され、制限された分際で無制限的な基底と同じである、と主張することが如何に身の程知らずなことか!
でも、それは根底において一つのものであることに変わりはない、のです。
ベルジャーエフは言う、「上下の関係を型どる位階的なものは、地上においてしか適応出来ない…」
霊的進化に対応した段階の如きもの…見えない世界でもピラミッド的位階構造に支配されては、永久に魂の平安などには預かれなくなりそうです。
仮にそういうものが有るとしたら、理解の度合といったもの以上のものでは無いでしょう。
”何をどう理解していようと、根柢には大いなる光源があり、それぞれの世界を映し出している”
私の限界内では、このような理解にしか行き着けません。
それに甘んじるより他ないのです。
もっと深い理解に預かるものかどうかは分かりません。
それは私の限界以上のものの思し召し次第とも、私の知らない私の意向次第と言えるでしょう。
確かな事は、私は私単独の世界に留まろうとしてない、という事です。
だから…今日もブログを書いています…








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