人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真実は一つ

2016-01-11 15:22:24 | 雑感
「ヒトゲノムが解読された!…」

何年か前、フトンで寝ぼけながらラジオからこのニュースが飛び込んできた時衝撃が走りました。
科学に疎い私はその事が何を意味するのか、詳しく分かりませんでしたが、何となくこれは途方もないことに違いない…と感じたものです。
”これって遺伝子情報が解読できるって事なの?!…科学はついに神の領域に入り込んだのか!”
ある集まりで私はこの話をしました。”これからスゴイ事が始まるんですねえー”と私はテンションは上がってましたが、周りの反応はと言うと…
実に冷ややかなものでした。(笑)
実は、私が初めて人生の裏側を垣間見た時、忽然と堰を切ったようにある情報(と言っても、それは全く直感知のようなものでしか伝わらないようなものでしたが)洪水のように押し寄せるようなことに見舞われたことがあり、そのニュースから受けた衝撃というのは、その辺のことを刺激されたものに他ならなかったのです。
熱いか冷たいかのズレはここに在ったのです。
スタップ細胞は有るのか、無いのか知りませんが、…人間の意志より先に行動の方は早く反応する…個人というのはそもそも存在しない…
コレコレが科学的に証明された!…”どうです!事実の前には誰もがひれ伏さざるを得ないでしょうが…”と鬼の首を取ったように言われても…
あなたの人生は何一つ変わりません!…それを知ったからって、あなたは多分そこに居ることでしょう…
科学的事実は科学的事実、客観的事実と言ってもいいかも知れません。
それは認めてもいいものなのかも知れません。
でも、認めたからってあなたという存在そのものは、客観的世界で”そうであるとされるもの”には永久に屈服されることはないでしょう…
それはあなた自身の全存在が、魂がよく知っていることです。
そこには大いなる欺瞞が有り、そういうものでこのものがどうにもなりはしないという事を…
あなたという世界の事実で起きたこととは別の世界で、どんな天才が、ノーベル賞を貰ったエライ人が唱えるどんな権威ある玉条も、あなたの生きている世界とは何の関係も有りません!
あなたの生きる世界では、あなた自身が引き金を引かない限り、あなたの世界を根本的に揺るがす、コペルニクス的転回は開かれないのです。
その時、あなたはそこに居るかどうかは私にはわかりません。あなたにしか答えは分からないはずですから…

人それぞれにとっての事実、いやこう言ってよければ真実というものは、生きたハタラキ、恩寵に依らなければ開示されないのです。
誰もこのもの無くして神と出会う事が出来ません。
生きたものというのは、どうしても言葉で伝える事が出来ません。教外別伝なのです。
我々はある教師なりの、残された、言い表された言葉だけを概念で捉えている限り、それは生きたものの無い抜け殻に過ぎないものを取り込んでいるだけなのです。
(それでも表現者とその受けてとの奇しき関係次第によっては、言葉というものが媒体となって、その行間にある言い表せないものの伝達という事も有り得ることですが…)
こうした事実を全く蔑ろにしている教師の言説はもう生きたものたり得ません。
オウム返しばかりで、目覚めるどころか眠りこけそうになります。
だから私は安易なお追従などまっぴら御免なのです!
私の世界を他に押し付けるつもりも有りません。
でも、我々はそれぞれの生きた世界を通して、一つになれるだろう…
この意味で真実は一つなのでしょう…


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我と汝・対話

2016-01-10 19:38:33 | 人生の裏側の図書室
ここで取り上げようとする書物は、絶版という憂き目にあっているものなど、入手困難なものが多く、そればかりになると一寸気が引けるところもあります。こんなところにもある意味私色?というものが伺えるのですが、今回触れようとしているユダヤ系宗教哲学者マルティン・ブーバーの主著「我と汝・対話
」(二著のセット)は、名著として誉高いものです。
私が知る限り岩波文庫を初め、みすず書房、創文社(こちらは「孤独と愛」という邦題で、「我と汝」のみの訳)の三種が有ります。
私が初めて読んだのは昭和55年の今頃で、ブーバーのことはそれ以前手島郁郎先生が講話の中で取り上げられていて知っていました。
このような哲学の本に触れるのは、私にとってベルジャーエフについで二度目だったのですが、「孤独と愛」の解説で、両者の思想の類似について書かれているのを読んで求めた記憶が有ります。私にはブーバーの方がずっと難しかったですが…。
その理由の一つは、この本でもっとも重要と思われる言葉がブーバー独特の用語で語られる為だと思います。
いきなり、”根源語”というのが出てきて当惑してしまったのですが、それは我々の存在そのものによって”語られるもの、とのことですが、それは意識の有り様に応じたものと言えるでしょう。ブーバーに依れば次の二つの根源語によって、我々の有り様も二重のものとなるとされます。

「根源語・我―それにおける我は個我として発現し、自己を(経験と利用との)主体として意識する。
根原語・我―汝における我は人格として発現し、自己を(従属的な属格を持たぬ)主体性として意識する。
個我は他のさまざまな個我から対比的に分離することによって発現する。
人格は他のさまざまな人格との関係の中へ歩み入ることによって発現する。」

ここから一応は概念的に前者は、分離した個我が有って、それ以外の事物が対象的に捉えられてしまう、という二元的な我々の意識状態のことを述べているのだろう…という事は理解されるでしょう。
問題なのは後者の方です。これは禅仏教など東洋的視点に馴染んでいる者からしたら、”自他一体感”といったもので片付けられてしまいそうです。
ある意味一体的と言えるかもしれませんが、ここで述べられているのは自他が一つに溶け合うような事態ではありません。
さりとて、私は以前ブーバーの教説には”自他の二元性が克服されていない…”という批判に接した事が有るのですが、そのような見当違いが生まれるような事態とも違うでしょう。そこに結び付ける何かが生きて働くことで、自己と他者とに相依、相交わるという関係が生まれる事を言っているのです。
こういう事はしかし、いくら知的概念で理解したとしても、現実に生きたものとはなり得ません。
そうです! ブーバーは読者にいつも瞑想に没頭してるようなものでない、現実的な日常と乖離しない精神の道を提起しているのです。
その参入の契機はとても具体的なものと言わざるを得ません。
私自身には、以前このブログで「心を読む」という雑感風の文章で書いたことが想起されます。それはそれまで何ともぎこちない関係にあった知人から、突然魂からの叫びにも似た訴えがもたらされ、私の魂が揺さぶられたことにより開示されたものなのでした。
その時の彼はそれまで知っていた彼では全くなかったのです。そして私は初めて彼と本当に向き合うことが出来たのです! そこには私と彼の他に別のものが生きていた感じがしました。いやそこでの本当の主体は私でも彼でも無く、そこに立ち上っていた見えない何かだったかもしれません…
だが、次の機会で彼と会った時、その関係はあっけなく失われてしまいましたが…
ブーバーが語っていることもそうですが、こういう話というのは、所謂ワンネスや覚醒といった神秘体験と結びつくこととは違います。
それを望んで意図しようとしても訪れるものでない、という点では同じですが、単独で起きるような事では無いのです。(単独であっても”言葉を超えたもの”との関係というものは有り得ます。)
そこに”関係に歩み入る”という現実的で具体的な道が示されているのです。
こうしたことは、あまり神秘めいた話を持ち出さずとも誰でも人間関係において、又自然や動物との関係などにおいて、そうとは知らずに経験していることなのではないでしょうか?
こちらの思いはかりを超えて、いつの間にか不思議なゾーンに入り込んでしまう事…それらの生きた関係を通して、息づいているものが、ブーバーに依れば永遠の汝―神とされるのです。ここに一元でも二元でも無い、もう一つの道が開かれてくるのです。
それは又常に私を夢想的なものでない、生きた現実に連れ戻してくれるのです。





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三元の道

2016-01-09 19:41:03 | 哲学・思想
「よく見て下されよ。一であり、二であり、三であろうがな。三が道と申してあろう。陰陽二元でないぞ。三元ぞ。三つであるぞ。」(日月神示白銀の巻)

「道一を生じ、一二を生ず。二三を生じ、三萬物を生ず。」(老子道徳経第42章)

この現実世界は陰と陽、男と女、火と水…相対するものにより成り立っている、と普通に考えられて来ました。
私自身、催眠術にかかったように何度かそんな事書いたりしました。
でも…よくよく考えてみると…まんまと騙されていたようです…
これを陰陽論の陰謀と言わずして何だろう…

この世界は見た目に性質の相異なるものがあり、それぞれのハタラキがなされている訳ですが、それで何故上手く回って行けるのだろう…と考えたら実に不思議なことですね。
そこにはその相対するものをつないでいるものが有る、ということを想起せざるを得ません。
有る…何て便宜的に言ってますが、実際は見えません。
実体は無いのかもしれません。ハタラキそのものという気がします。
だから、それは異なる二者の間にあるものというイメージで捉えられがちですが、例えば黒と白の中間の灰色…といったように言い表すのは適当ではないでしょう。
それは両者のバランスよい折衷、というものでは無いのです。
人為的に折衷しようなどとしたら、多分グチャグチャになるだけでしょう。
それ自体でハタラいていて、それが相対次元に介入するものらしいです。、
このものにより、相異なるものに微妙な関係性というものが生じ、相対から相依の関係がもたらされるのです。
この相依…互いに引き付け合わせるものが愛というものなのでしょうか?
相対を超えたものがハタラく、そこに調和が生まれる…
これは…見えない裏の世界から顕現されてくるものなのでしょうか?
科学者はこうした三元的な道についてどう解き明かしているのか…浅学な私には分かりません。
このような表し方は、勿論現象というものに乗っ取っているものなので、全てを一なるものに帰してしまうような究極論のような事を言っているのではありません。
又、そうした非二元的な言説も、言い表す際には二元的な表現を借り、表れたもの自体二元的になるのは言うまでもありません。
そして私は極端な非二元原理主義というものに、違和感を覚えているうちに、知らず知らず一元でも二元でも無いものに導かれたように思います。
(というより、元々私に根付いていたものが呼び戻された、と言った方がいいかも知れません)
これを三元の道といってもいいかもしれませんが、レッテルは別にどうでもいいのですが、これからは見えるものともののの見えないものに意識が捉えられてくるようです。
極端な言説が飛び交うと見えない弁証法が生まれるのです。
日月神示…(三元的に言えば”日月神示”、あるいは”一二三、ヒフミ”というのが正しい?)には「’(チョン)なくてはならんぞ。」とも示されています。
道というのはOO教とかOO主義といった相対化したものではありません。生きたハタラキとともにあってこそ開けるものなのでしょう…。










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愛とハタラキ

2016-01-07 14:58:13 | 
今の私は以前のように、書物を求めなくなってきました。
探究が終わったから?…いえ、頭もお金も回らなくなってきたからです。(笑)
それでも、何かの契機でつい昔の本の虫がもたげてくることも有ります。
年末、神田神保町の古書街をブラついていたら、”アッ!見っけ!”
老子の研究家、孤高の瞑想家ダンテス・ダイジの師、伊福部隆彦さん(ダイジによると老子の生まれ変わりだとか…)の本です!
しかし…”高ッ!”これでは年が越せそうにない…という訳で諦めていたのですが、今日は「無と人間」(近畿大学出版局)という本が案外手頃な値段で見つかりました。
これを捲っていたら驚きました!…”無為”という言葉の解釈を大抵の述者は、”為ス無シ”等と訓んで”為すこと”の否定という捉え方をしているに対し、この著者は”無ノ為(ハタラ)キ”と訓んじて、無そのものにハタラキを見ているのです。こういう捉え方というのは初めてです。
もっとも、生きてハタラくものに、ハタラかれる、ということは”為すこと”では無い訳で、二つにはつながりが有ると思われますが、”無”などと言うと、私も含めて多くの読者は、老子の無の境地に至るのは、実に常人からかけ離れた至難の道のように思い描いてきたことでしょう。
無の境地などというものが有るのかどうかはともかく、そもそも無なるものなしではどこにも導かれようが無い、ということなのです。
これまで幾多もの宗教、スピ系で散々説かれてきた”自我をお落とさなければならない、欲望から離れなければならない…”という”やってみれば!”としか言いようのない言葉というのは、悉くが(皮肉を言えば)”徒労”というものを知るためのものだった…とは言えないでしょうか?
無になるんじゃない、なろうとするんじゃない…無と共に…無に抱かれよ!…ということは伊福部先生が言うように”無の福音”でなくて何であろう…
この辺りの消息というのは、キリストの福音や弥陀の福音などで伝えられてきたものではありますが、それとて如何に”信仰、信じること”という命題の中で見えなくされてきたことでしょう…信じることというのは、我々の思いを信に転換させるもの、信じざるを得ないもの無くして起こりようが無いではありませんか?
聖霊、ダンマのハタラキ無くしてその内実は空無に至ります。
この恩寵のハタラキには、それに預かる我々の側から見て、自我的な縛りの無化(無くなるという訳でなく、雁字搦めの状態から解かれる、という事態)と、至福をもたらすエネルギー的なもののプレローマ(充満)という両面が有りますが、老子の無のハタラキ(あるいはブッダの空のハタラキについても)にはどちらかというと、前者の方がより感じられる気がします。
この無条件的なものがないがしろになる時、数多の”こうしなければならない、これでなければならない”といった条件付きの言辞が生まれてきます。
そして自称覚者というか…悟りなるものを得て、いつもそれを有している、と勘違いする者が何故はびこるのか…
悟りを自己の何ものかに依るものと錯覚し、”自己はただハタラキにハタラかれるだけである”という事実から意識が離れてしまうからではないでしょうか?

又、神の世界というものをこれまで何と我々は、凡俗から遠く、彼方に求めてきたことでしょう?
しかし、我々がこちらに有り、神仏があちらにお在すのではない…ハタラキがあって一つなのです。
それは又合い依り、合い成していくハタラキです。
この合い…というハタラキは愛としか言いようが有りません。
至福なるものの源泉です。
私はそれを力学的にハタラキと言い表すだけでは、どうしても足りないものを感じます。
呼べば、答える、という命の呼応…
神と言っても、私には到底それが何か、などといったことには答えられません。
でも…古来より人々は神なるものを敬ってきた理由は分かる気がします。
神なるものに、愛そのものの具現を見ようとしたのでしょう。
しかし、愛そのものに依らず、不十全に陥ってしまうと、たちどころに愛も憎しみや恐れに変じてしまうのは、我々の神の観念にも見て取れることです。
そこに転換させる力というものが無ければなりません。
愛は全てを生かす、永遠なる力学的ハタラキと切り離されるものでは無いのです。
ハタラキは愛によって宇宙法則といった冷たい抽象的なものから免れます。
全ては愛とハタラキ…。





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好きこそものの上手なれ

2016-01-06 14:53:32 | 雑感
”私はね、特別な修行も、勉強もしたことないんですけど…いつの間にか、ジンジンしてくる感じを身に覚え初めて、それが見えざる現臨の訪れとなッて、もう得も言われぬ感じになってしまうんです…”

私は以前、このように凡人のくせに、まるで超人みたいなことを平然と語ってしまう事が有りました。
そしてある人から「何もしないで、そんなことになる訳ないでしょう!…あなたは、修行とは言わなくても、それなりに努力とか研鑽を積んできたのでしょう、読書量だって半端ないみたいだし…」
とかなり強い口調で突っ込まれた事が有ります。
言われてみれば…そうかも分かりません…
ただ…私には、修行したとか、研鑽したとか、努力を積み重ねた…という実感が無いのです。
これはどういう事かと言うと…”好きだからやっていた!”としか言いようが有りません。
「好きこそものの上手なれ」と言いますが、好きでそうする、という事は何のため、何の意味が有るから…といったことと関わりなく出来る、という事です。
これが無条件的な事という訳でしょう。
それでも、私にはやはり特別な修行というのはやはり無縁だったと思います。
”教外別伝”形無き、方法無き瞑想、祈りというものは身に覚えが有りますよ…
でもそれはまさに形の無いものなので、ルーティンのようなものは有りません。
本質的な事は見えざる命がもたげてきて、心身が包まれた時に起きるという事なのです。
又、何かの研鑽らしき事で言えば、私にとっては読書、書物との縁というのは特別な意味が有ったのは確かな事です。
と言っても、そこから知識を得よう、修行法を得よう、何々を掴もう、というのは二の次で、その読書体験の主要な意味は、書かれたものを通して、見えない息吹に触れる、という事に尽きると思います。
これは何度か経験してて味をシメているからそうなるまでです。
何をどう読んだか分からないけど、忽然と喜ばしい息吹が立ち上ってくる…30数年前の今頃の時分など毎日のようにそんな気分に浸っていたものです。
そうなる事…好きだからそうなる…これはある意味酔っ払いみたいなものでしょう。
何かそのニオイが漂って来たら、ジッとしていられなくなるように…
要するに、喜ばしいものに触れる事が無条件に好きなのだという事なのですね。
こういう事はあらゆる事柄にも言える事ですね。
何かをしようとして、”出来る、出来ない”ということに何と多くの人は捉われていることでしょう!
それ以前に自分自身に問うてみる事は、”それをする事が本当に自分が好きな事なのか、やって楽しいことなのか…”ということではないでしょうか?
好きな事だったら、出来ようと、出来まいと…やろうと意図しようと、しまいと、”既にやっている”ことだったりすることに気が付くことでしょう…
人に認めてもらう必要も無いので、何が上達したとか、進歩したとかという事も関係ありません。
しかし、又この事が如何に職業、役に立つこと(実益)、人の評価…といったものに結び付けられてしまう事か!
もう、そこで無条件的なものでなくなります。
好きな事は無条件…無条件の愛と共に居られるという事です…。
どうしたら、幸福になれるか? 好きなことしていたら分かります…。
















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