人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

もっとも罪なこと

2018-05-20 12:39:38 | 独語
悪いこと、間違ったこと、罪なこと...
それは神にもとること...神は許しちゃくれない...もう、神に近づくことは出来ない...
やってしまうことはおろか、思ってもいけないことなのか?
そんなに正しい人間でなければならないのか?
誰がそう言うのだろうか?
誰の前にそうあらねばならないのだろうか?
神? いや...
正しい人間...法がすべてのような世界...
神を信じるという宗教も、神を通り越して法がものを言う...
神は罪なく、正しくあることを命ずるのか
本当に神がそう告げたのだろうか?
本当に違背を許さないのか
本当に神は遠退いて行ってしまうのか...そう...
そうしてますます、神から遠退いて行ってしまう...
神に善、正義、無誤謬などで彩られたベールが掛けられる
神の居まさない、正しい人間に取って代えられた宗教
無神論、唯物論と何ら変わらない...
神について語られても、神は無いかの如く語られる
神から切り離された愛らしきことが、条文を読むように機械的に語られる
押しつけられた戒めは、得心されることなくほころび始める
かくして、制御出来ない葛藤から堰が切られたように暴力的なもの、凶悪なものが生まれる
神なき法から際限なく、統御不能な罪が生まれる
罪が罪を呼び、犯罪はいよいよ激化し、際限がない
罪とは、神を知らない正しい人間の独り歩き
神を受け入れず、遠ざけ、切り離されるところから"つつみ隠し"、ツミが生まれる
神は神を怖れ、隠れようとする以前にすべてを見透かしている
神から逃れられる場所など何処にもない
それでも、あなたが何を為そうとするかは、すべてあなた自身にゆだねられている

僕は弱い人間...性懲りもなく、いつも道を踏み外してしまう
でも...僕は神の裁きを受けたことが無い、いや、とっくに受けているのかもしれない
すべてを見透されているから...
怒り、とがめ...正しい人間が思っているものでなく、悲哀が僕を取り巻いている
この悲哀が破壊的な、絶望的な暴走を食い止めているようだ
僕はその悲哀のくびきにつながっていたい
誰が命じるでもなく、その向こうに限りない愛を感じているから
そのくびきを絶ちきってしまうことこそは...
もっとも罪なこと...







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生きていること

2018-05-18 04:39:48 | 雑感
人は誰でも一度は、"何故生まれて来たのか?、何のために生きているのか?"ということに思いを致すことがあるでしょう
そして、誰もそれに対して明言することが出来ず、特別意識することなく生き続けているのです。
誰かがご名答らしきことを示したところで、あなた自身が得心しないことにはその事は明らかにはならないでしょう。
どこまでも、自分自身で生きていくことを通してしかそのことは分からないでしょう。(人から示されたことでも、それが媒体となって得心することはあります)
しかし、それは永久に分からないことなのかも分かりません。でも生き続けなければならない...
何故ならば、自分がここに生きていることは、そう仕組まれているようにしか感じられないから...
心臓が鼓動している...息を吸ったり、吐いたりしている..."今日は何をしようか"と意味が有るのか、無いのか考えている...
私はこうした物心付く以前から、どういう訳でか、与えられ、備えられていることを"持ち前"と呼んでいます。
それはもって生まれたもののことですが、男に生まれた、日本に生まれた、いつ、どこに生まれたとか運命的なものも含めてそう呼んでいます。
持ち前のものは、それが嫌いだろうと、無くしたいと思おうと、それを認め、受け入れないと生きて行くことが出来ません。
"自分が嫌い、自分を受け入れたくない"という人を何人か知ってますが、それは果たして本当に自分自身から発しているものなのでしょうか?
"それじゃ、ダメi、お前は悪いi、間違っているi、大ッキライi"という、誰かの、世の中の声なんじゃないですか?
そういうことを意識してない時というのは、案外独りで自分が好きなことをやってるのではないですか?
"誰からも相手にされない"と思っている人は、そうでもせずにいられないかもしれません。
自分が好きなことというのは、それをやってる自分を受け入れなければ出来ません。(つまりは意識するしないに関わらず、そうなっている自分が好きなのです)
周りでなく、自分自身に意識が向かっている時、誰しも自分を認め、受け入れているのではないでしょうか?
もし、もっと興味が沸いてきて、喜びを見出だすようになれば、自分の持ち前も受け入れられるでしょう。
今の喜びは、そのものに依ってもたらされているからです。
自分を受け入れることは、神と言ってもいいですが、そうあらしめているものを受け入れることと一つなのです。
そして、そこから自分が思っている以上の幸福が開かれてくるでしょう。
今、幸福に感じられたら、それまでの自分、自分の運命、持ち前...すべてが幸福に感じられます。
それは他人事でなく、自分自身で感じなければなりません。他に代えることの出来ない自分で...

連日嫌なニュースが多い中で、事故で車椅子生活を余儀なくされてしまった地下アイドルの「私は生きています。この事だけは何にも代えることの出来ない神様からのプレゼントだと思っています」のコメントには本当に心が揺すぶられました。
何も難しい事は言う必要ありません。こうした言葉にすればありふれたようなものこそが基調であり、後の事はそのヴァリエーションに過ぎないようなことです。
しかし、毎回、毎回それが"思っていること"でなしに、言葉にならない"生そのもの"にハートをタッチされたなら、そこには聞き慣れた言葉なんてものは何一つありません。新たに"生きて、生かされている"ことに向き合わされるだけです。


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暗い明け渡し

2018-05-17 00:07:45 | 回想
この相対的な世界では、何が正しくて、間違っているかということは、単純に決めつけることは出来ません。
それでも、強固に「それは間違ってますi」と言わなきゃならないこともあります。
「ジャッジはよくないですよ~」何て言ってられるかってんです。
殺人とか犯罪だったら、当然のことであるのは言うまでもありませんが、その行く先に落とし穴があることが分かっていたら、ハッキリ言ってあげるのが親切というものでしょう。
ある知人が洗脳カルト宗教で有名な「T教会」に近づこうとしていた時は、問答無用に「悪いことは言わない、ヤメとけi」と言い切りました。
私自身、学生時代そこに近づいて宗教に取り巻いている恐ろしさ、愚かさを直に思い知らされたことがあるのです。
でも...事態が進んでしまった後ではどうしようもないこともあります...

その数年前だったか、大阪の街頭で確か社会問題についての何かの集会への勧誘を受けたことがあります。
その相手というのが、もう、アイドルになってもおかしくないようなキレカワちゃんなのでしたi
話の内容何てどうでもよく、そのコと話をしていたのですが、私はすぐそのナンチャラという集会の実態は「T教会」だと分かりました。
狡猾な私はそのことを確かめるべく、このような芝居をしてみました。彼女を泳がしてみようと思い立ったのです。
「僕はね、いつも聖書を読んでいるんです。その黙示録とか読んでいると、どうも今の世界は書かれているとおり、破滅に向かっている気がしてならないんですよね、ええ...」すると、あにはからんや...
彼女の表情が一変したではありませんかi 「そ、そうなんですよi もっともっとそういうこと知りたくないですか...」と彼女。"そーら、間違いないッi"
「いや、こうして話しているだけで勉強になります」とか言いながら、内心はこう言っていたのです。
"うん...もっともっと...僕は君のことが知りたい...そして出来たら...君のことを...何て言うか、その...そう、助けてあげたいi(ええ、下心もありましたともi でも、それもホントの気持ちだったともi)"
彼女がいつも居る場所は、会社からの帰り道なので、その後も数度イロイロな気持ちが交錯する中で会いました。
ある時思いきって「君はT教会の人間なんでしょ?」と切り出しましたが、「な、ナンですか、それ?」とトボける彼女...
そして又思いきって、「いつも立ち話なんで、もっとジックリ君の話を聞いてみたい...」と喫茶店に誘ってみました。
カルトに洗脳されている人というのは、大体が自分の信じている世界のことばかり話したがるもので、人の話は聞こうとしないものです。
しかし、彼女は違っていました。ちゃんとこっちの目を見ながらジックリ話を聞いてくれました。そこから彼女は、まだそんなに深く洗脳されていないように見受けられました。
「人生には、自分の思いを超えて確信に触れる瞬間ってもんがある」と、ここでいつも書いているようなことにも、「分かります、分かります...私にもあった」と言う...一瞬でしたが、その時の彼女の無邪気な表情には忘れられないものがありました。が..."それは何かのセミナー室で会えるのかって、そうは行かないi"
で、2、3時間くらいは話し合ったでしょうか、"そういうのは信者になることでそうなるんでしょ? と問い詰めましたが、中々本当のこと言ってくれません。
そこで私は又卑劣にも、散々T教会、B教祖について知っている限りの批判、中傷をしてみたら、つ、ついに...
「お父さま(教祖のことをこう呼ぶ)はそんな人じゃないi」と、表情がコワ張り、目をつり上げながら彼女は反論してきたのでした。
とても悲しくなりました。そんなマネしなけりゃよかったとも思いました。
私は余計なお節介してるのか?とも思い、私の作為の事情を言ってお詫びをし、なおも「信者になった動機は何ですか?」と、訊いてみたのですが、これがどうも訊いちゃいけないことのようにも思えて「そ、それはあ...」と口を濁らせていましたが、強い罪の意識が横たわっているのはハッキリ伝わってきました。
どっちにしろ、頑なにその教えを信じているので、脱会などの話が通じる訳もありません。
そして、彼女は純粋そうに「早く世界が平和になるといいですね」と言って別れましたが、その後彼女を見かけることもなくなり、やがてその教団の洗脳に纏わることが社会問題になり、街頭布教自体も見かけなくなりました。
私にはどうすることも出来なかったことが歯がゆくて仕方ありませんでした。"あんなに笑うととっても可愛いコなのに..."
自分から所謂洗脳にハマるということは、取り返しのつかない間違いにもなりかねません。
ある契機に"間違っていたi"と気が付いたとしても、拉致監禁されたり、薬を飲まされたりしたらどうもするんでしょうか?
それでも、当人が間違いということが自覚出来なければ、改まることは無いのでしょう。
その意味ではこの世には絶対的に正しいことも、間違っていることも無いのかもわかりません。
ただ、"自分がここに生きている"ということ、そこに幸福を見出だすことに照らせば、魂の自殺行為にも等しい"暗い明け渡し"は...間違っていると言う他ないでしょう。


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ラテン系ボクサーの台頭

2018-05-14 18:47:05 | 雑記
リナレスが散った...
ロマチェンコは、いつもの忙しいボクシングでポイント稼ぎに来るのかと思いきや...あんな結末を迎えようとはi
それにしても、リナレスは日本のジムに所属しているのに、何で地上波であの大一番を放映しないのでしょう。
私がボクシングの魅力に取り付かれた70年代だったら世界戦といえばテレビ放映があり、間違いなくやっていたでしょう。その時分世界戦に登場する外国人ボクサーはほとんどラテン系ボクサーばかりでした。
ホルヘ.リナレスは南米ベネズエラのボクサーです。ラテンアメリカではおそらくメキシコに次ぐくらいボクシングが盛んな同国ですが、史上に残るボクサーといったら...これが意外にもすぐには思い付きません。リナレスと同じ日本のジムの所属で、全勝全KOの戦績のまま物故したエドウイン.バレロ? それともやはりリナレス? じゃ、これは..."アントニオ.ゴメスi"
このラテン人にはありふれた名前のボクサーが私には忘れられません。
何しろ、1971年、西城正三という5度フェザー級タイトルを防衛した実績ある人気王者を苦もなく破ってしまった(5回KO)のですから、とても衝撃を受けたものです。"こりゃあ、異次元の強さだi"と。
ちなみに私がこれまで見てきた外国人で、"こりゃ、とてつもなくつええ"と唸らしめたボクサーは、来日した例に限って言えば、75年のアレクシス.アルゲリョ(ニカラグア=フェザー級)、78年のウィルフレード.ゴメス(プエルトリコ=スーパーバンタム)とこのA.ゴメスがベストスリーです。(悲運なボクサーというのは、沢山居るけど、ある意味もっとも悲運だったのは、"KO仕掛人"ロイヤル小林でしょう。アルゲリョ、W.ゴメスという歴史に残るKOパンチャーの引き立て役をさせられてしまったのですから。小林は確かに期待を抱かせるに十分なボクサーでした。それだけに、歯が立たなかったことが"つええ"ってことになるのです)こっちのゴメスは短命王者に終わり、界隈で忘れられてしまいましたが、いずれも70年代、そして中南米のボクサーです。
そう、その70年代、世界のボクシング界はラテン系ボクサーが席巻していたのですi
上記、アルゲリョ、W.ゴメスの他、カルロス.サラテ(メキシコ=バンタム)、ロベルト.デュラン(パナマ=ライト)、アントニオ.セルバンテス(コロンビア=スーパーライト)、ホセ.ナポレス(キューバ~メキシコ=ウェルター)、カルロス.モンソン(アルゼンチン=ミドル)と各級に居たスーパーチャンピオン(いずれも各級史上最強にノミネートされるほど)はほとんどがラテン系であり、ランキングでは特に軽、中量級にはそのボクサーたちがひしめいていたのです。
上記のボクサーたちの特徴は...KOの山を築く破格のパンチの持ち主であり、同時にテクニシャンであることに尽きるでしょう。
今じゃ、こうした類型はピンと来なくなった感が強いですが、昔はボクサーにはアップライト.スタイルで、防御を固くし、軽快なフットワークを駆使してアウトボクシングを主体とした欧州型のボクサータイプと、クラウチング.スタイルで、パワーを活かし、インファイトの打ち合いを得意にした米国型のファイタータイプに大別されていたものです。
KOパンチャーと言えば、ファイタータイプで、ボクサータイプは非力というのが常識でした。
これを覆して、攻防兼備、技巧とパワー兼備のスタイルを持ち込んだ(単純にボクサーファイターなどと呼ばれる)のが、60年代にボツボツ台頭してきたラテン系ボクサーたちだったと言えるでしょう。
その代表的な例として、エデル.ジョフレ(ブラジル=バンタム)、ビセンテ.サルディバル(メキシコ=フェザー)、ホセ.ナポレスを挙げたいと思います。(あれ?最後のはさっき出てきたぞお、と言うなかれ...彼が戴冠したのは実にデビュー11年目のことで、全盛時代はライト、スーパーライトの60年代だったのです)
ジョフレのボクシングを始めて見た人なら、あの堅固な防御主体の試合運びから突如、必殺ブローが繰り出されるのに驚いたに違いありません。(一度は番狂わせはあるものだけど、二度も勝ってしまったファイティング原田さんもスゴいi ジョフレは生涯その二敗しかしてないi)
1964年のシュガー.ラモス(キューバ~メキシコ)とサルディバルの屈指の好カードの王座交代劇こそは、パワーまかせのKOパンチャーに、新型KOパンチャーがスピードと技術で圧倒した好例と言えるでしょう。
サルディバルとナポレスとは、フットワーク、ディフェンスの動きが小さく、無駄が無く、防御から直ぐさま反撃態勢に移るところがよく似てます。
当然カウンターが上手...一流のボクサーファイターはカウンターの名手なのですi
そして...虎視眈々と勝機を伺い、ツーツーと音もなく忍び寄り、おとなしかったと思ったら豹変して、獰猛なファイターになる...
サルディバル、ナポレスそして、私にとっての忘れじのA.ゴメスが三大ラテン系ネコ型?ボクサーなのです。こういう二重人格みたいなのは、観ててホレボレとしてきます。
かつては幻だったが、そのいくつかの勇姿は今では動画で観れる...

ああ、今日もワクワク腰を左右に揺らさずにおれない、ネコ人間...

コメント (59)
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それ、間違ってますi

2018-05-13 11:40:48 | 求道、探究
世の中間違っている...
ほとんどの人は、そう感じながら生きているんじゃないでしょうか?
何が正しくて、何が間違っているのかは分からなくとも...
私が今朝感じたことと言えば...
"な、なぬっi このブログのIP数がもうじき10万に達しようとしているではないかi これはゼッタイ何かの間違いに違いないi こんな何の役にも立たない自己満足満載ブログなのに...世の中こんなに物好きな人が多いとは...こりゃあ、世界の終わりも近いか?..."

私は心がねじ曲がっているのか、イロイロと批判的なこともつい言いたくなったりするのですが、よく考えてみるとそのすべてが短絡的に"間違ってますi"とは決めつけられないことのように思えます。
例えば、いつも呟いている"抽象的なヴァーチャルな教えを無批判に信じ込んだって、リアルな神的なものとはつながらない"ということでも、それはそのことについて言えば間違っているのかも知れませんが、その信仰に勤しむことで何らかの心の慰み、いくらかの平安というものを受けているのなら、ずっとそのような端からは習慣的、惰性的とも思える信仰生活を続けてようと、当人には正しいことかも分からないのです。
大体において、私がそうした批判的なことを書く場合は、個人的に縁のある特定の人間を念頭に入れていることが多く、そのすべての人に当てはまらないのは当然のことなのです。
先の例でも特定の教えに執心しているような人でも、人によっては「それはいいi どんどん信仰に励んで下さいi」と言うかもしれません。
とにかく、理屈なしに惹かれるもの、平安で居られる何かが感じられるのであれば、他人が何をほざこうが、いいに決まってます。
ま、"私は悟りたい、神と一つになる"とか御大層なこと言うんなら、"エエ加減に目を覚ました方がいい..."ということです。(イロイロな意味で)
元波動瞑想を指導しているK先生は、やたらと「それは、間違ってますi」と言うのが口癖でした。
例えば、確か「精神的な道を社会生活に適応させるのは間違いです」という意味のことを言われていたと思いましたが、私はそれを聞いて"ケース.バイ.ケースじゃないかなあ?"と感じたものです。ま、私のようにヘンテコな人間と周囲に思われたくなければ、そういうことはしない方がいいと思いますが(笑)
私はその瞑想会で、そのシンプルで無為的な元波動瞑想の他に、フツーにヨガなどで伝播されている、意識を人為的な意念を用いて、あるイメージとか音とか何かに集中させる瞑想を伝授されたことがあるのですが、それは無為的な自然な意識の有り様を妨げるもので、この点で私にとっては間違いだと気付いたことがあります。
他の人に当てはまるかどうかは分からないですが...考えようによってはそのことに気付き、学ぶ機会が与えられたことは間違いでは無かったのかも分かりません。
間違いというのは、このように当人に何らかの不都合、ズレたことといったものが認識されるものであり、そのことに気付いてこそ、そうなのではないでしょうか? そうでなければ"間違いでは無い..."と言っていいでしょう。
宗教、スピ界隈では得てして、"先生がそう言っていたから...聖書に書いていないから...その教えと違うから..."と、その問題が自分自身のこととして、意識が向けられることなく短絡的に権威に映るものに迎合してしまう傾向が見られます。
これでは何が間違いかも本当には認識されず、それを通して学ぶことも出来ないでしょう。
このイロイロな人が居て、イロイロ観方が交錯している世の中では簡単に"それ、間違ってますi"と決めつけられません。
強いて言えば...自分も他も傷つけ、自分も他も生きようとしていることにフタを閉め、覆いをかけようとすることがそうなのでしょうか...
これは"自分を信頼し、受け入れること"という在り方をひっくり返したところにあることです。
良くも悪くも、正しくても間違っていても、ありのままの自分を受け入れなければ、いいことは何も始まってこないでしょう。
このことは実に私がK先生と同調していることなのです。

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