人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

スピリチュアリティの復権

2018-05-12 03:46:31 | スピリチュアル
私はスピリチュアルなものに惹かれ、導かれてきました。
このことはジッつに人には言いにくいことです。それはとりもなおさず、誤解され易く、伝わりにくいということなのですが...
だから、この場で私は臆することなく、日頃感じている、スピリチュアルなことを言い表したいと思っているのです。(そうです、これが私なりのこのブログの存在意義...の一つなのですi)
これまで、そのことを口に滑らそうものものなら、直ぐさま、超能力、予言、UFO、心霊などといったことと結びつけられ、受け取られてしまったものでした。
スピリチュアルなことには何度も触れています。しかし私は前記したものを予見に基づいて、迎合したような記事を書いたことはほとんどありません。
それらは否定こそしませんが、同じスピリチュアルという言葉でも、私がもっとも惹かれるものとは直接関係ありません。
スピリチュアルとは、本来キリスト教に由来しているらしいです。
その神秘思想、取り分け十字架の聖ヨハネなどの観想を中心とした、神との一致を目指す修道の教えにしばしば、"自然的な観想から超自然的なそれへの移行"という風に、"超自然"という表現が出てきますが、これは所謂"超自然現象"とは全く関係ありません。
"人知を超えた..."、と言えば意味が重なりそうですが、あくまで人間的な努力、知解、方法を超えたハタラキ、恩寵の消息を伝えているのです。ここに私は本当の意味での霊性、スピリチュアリティというものを見出しているのです。
この霊妙なるものを聖霊と言ってもいいかもしれませんが、何故かこの言葉はキリスト教以外ではあまり使われていません。
同じ霊でも、心霊的なこととは響きがまるっきり違うのです。"ジンジン"と"ザワザワ"の違いと言ってもいいでしょうか...
超自然的、聖霊の事態というのは、キリスト教特有のものなのでしょうか?
しかし私は、キリスト教特有の"十字架の贖罪"とか、"イエスを神の独り子"と信じる信仰などに触れると、あの例えようもない霊なる息吹きが、たちどころに蒸発してしまうような気分になってしまいます。聖霊の事態は、知解、観念的信仰を超えているものだからでしょう。
それでも、私はこの聖霊の誘いは、キリスト教的なものとの縁に負っているのも確かなことです。
あの"美味しい感じ"を身に覚えたのは、大学4年の時、手島先生の聖書講話を読んだことが最初でした。
"ここには私が今まで知らない、思っていること以上のものがあるに違いないi" そういうことを思い返しているだけで、ジンジンとその感じに包まれてしまいます。
霊なるハタラキ、聖霊はそれ自身で生き続けているもので、どこにそれが発現するとも知れないものです。
こちら側の特定の信仰、教理、行法などには依らないものです。
福音信仰とは、正統派を自認するキリスト者の拠り所ですが、逆説的に言って福音とは、何ものにも依らない喜びの訪れのことではないでしょうか?
従って特定の宗教を超えてハタラクものであるのは当然でしょう。
しかしキリスト教は、別の面で心霊、超能力などの雑然とした、スピリチュアルなものから聖霊の美味しき消息を区別して伝えてきたとも言えます。
この違いはハッキリ諸々の思念を超えたものに導かれるか、否かということにあります。それは愛、平安に導かれるか、どうかということでもあります。
私は"現臨"(この言葉自体キリスト教神秘思想から借りたものですが)という表現でいくらか前述の意味で、幅を持たせようと思っているのですが、何にしてもそれは本来のスピリチュアリティの復権に向けられているのです。
と言うか...自ずと愛、平安に赴かざるを得ないということでしょう...。
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書けない人の目覚め

2018-05-09 19:54:21 | 回想
こうしていつもブログを書いている訳ですが...正直こんなに続けられるとも、こんなに沢山の記事を書けるとも思っていませんでした。
「あなたは文章を書くことが得意なんですね」と何人かの人から言われたこともありましたが、得意なのか、巧拙はともかく好きなのは確かなことです。だから書いてる訳です。
しかし...昔のことを思い出すと、今こうして書いている自分のことが信じられなくなります。
私はホントに、ホントにものを書ける人間じゃなかったのです。
それどころか人と話すことも、フツーのコミュニケーションもままならなかったのです。
高校までの読書感想文とか、卒業文などを除き、人目につくような文章を初めて書いたのは、それは極めてマイナーな神サマ関係の雑誌に、人から執拗に促されて書いたものでしたが、大学4年の頃でした。
自分でも思いの外、スラスラと書けた記憶があります。こちらに書こう、表現しようという気があればそうなるのかなと思います。
それ以前となると...まあ、高校までですが、授業での感想文、詩などを書く時間はもう地獄のようでした。
一行すら書けない時もありました。大体私は国語での文章の読解力などもサッパリなので、書く方もままならぬのも当然です。
主語と述語とか対象語だとか言う...「風が心地よい」「日が眩しい」..."え...私は?"
「私は風に当たっている」「私は眩しいので、手で目を覆った」..."風やお日さんが無けりゃ、私がどうする、こうするもないだろi 何が主語だか述語だか分かりゃしないi"
要するに..."私は居るのかどうか分からない、風と日と私は分離してるのかどうかも分からない...そこには主体や客体というものがある訳ではなく、起こることが起きているだけではないのか?"
こういう訳の分からんような事態に陥っていたのは確かなことです。"私は"ですが...
こういうことを進んで分かろうとする人間の気が知れません。どこにも落ち着くところも、得心も、平安も無いのですよ。
思い返してみると、自分が居るのか、居ないのか分からない事態というのは、何かとても重い思念に囚われてしまう状態のような気がします。
で...高一の頃、確か学力試験か何かで、惨憺たる有り様で文章を書かされた後、担任の先生と面談がありました。
中一の時面と向かって「アンタはハッキリ言ってバカなのよi」と言われたことが過りましたが...「君はねえ...何て言うのか...頭がわる...くはないi...一概にそう言えないね。いや、むしろ...君は考えが先走り過ぎている、頭が良すぎるとこがある。もっと自分の気持ちに素直になったらいいんじゃないかなあ...」
その時はこのH先生が救世主のように感じました。僅か一年だけのお付き合いでしたが、小学校からを通じても"私のことを理解してくれそうな先生"として記憶に残っています。
「僕は案外バカではないのかも知れない」ともかく、それで劣等感から救われたようでした。
しかし、極度の考えすぎ、自意識過剰は依然として続いていました。
というか、それらは物心付いた頃からずっと私には、言うに言われない周囲とシックリ行かないという問題を抱え込んでいて、どうもそこに淵源があるようなのでした。
このガンジガラメ状態に風穴が開けられ始めたのは、先の大学4年の頃の一年くらい前から宗教、精神的なことに関心を持つようになってからです。そして堰を切ったようにその関連の本を読むようになりました。
好きなことに意識が向かう、それを表したものに目が向かう...これは実に私の人生で大きいことだったと言わざるを得ません。
それは、元々私の内にあったものが表に出されたこと、又自分を超えたものに意識が向かう緒口だったと思います。
"何かを書こうとするんじゃなくて、自ずと書きたいようなことが出てくるではないかi" こういうことは読書経験を通じて導かれたのは確かなことです。
それは全くちっぽけな自分を超えて、元からある自分に目覚めるという宗教的な道に通じたものと言ってもいいでしょう。
先のH先生も「何でも好きなことを見つけるんだ、本でも読んでみたらいいよ...」と言っていたのでした。




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非二元と帰依

2018-05-08 18:14:26 | スピリチュアル
所謂非二元の道の教師にラメッシ.バルセカールという人が居りました。
数年前にその「誰がかまうもんか?」(ナチュラル.スピリット刊)という本を読みましたが、そのサブタイトルに「ラメッシ.バルセカールのユニークな教え」とありますが、今じゃちっともユニークじゃ無いですね(笑)
"存在するものは意識だけ
起こることはみんな神の意志
何かをやってる個人というものは居なくて、自由意志というものは無い"
もう、お馴染みになったフレーズはここに満載されてます。
この本はさして評判になったということは聞きませんが、割りとその周辺に影響力があったことが伺えます。
毎度言っていることですが、そういうリクツが分かったところで、"だからどうした!"としか言い様がありません。
分かったような気でいる人でも、誰もが"オイ、何でアイスコーヒーにフレッシュを入れてかき混ぜないんだ?"、"コーヒーとフレッシュの分離を楽しもうと、僕の自由だ..."てなやり取りをしているし、自由意志にものを言わせて、さして意識する訳でもなく、注文に応じたものがテーブルに出てくるようなことをしている訳です。
個人の自由意志というものは、見せかけということになるらしい...そうかもしれません。
でも、、本当に見せかけることというのは、実際に理解している訳でも、腑に落ちている訳でもなく、無理に教えに合わせようとしたり、分かったフリをしようというところにあるのではないでしょうか?
ただラメッシの教えには、「バクティ(帰依)から教えが始まる」ということも強調されていて、これは実に頷けることであり、決して蔑ろにされてはならないものです。
ラマナ.マハルシは勿論、ラメッシの師、ニサルガダッタ.マハラジでも非二元の道と関連づけられるジュニアーナ(知識、探求の道)とバクティとは切り離されないものだったのです。
そっからしか何も始められないでしょう。如何なる道を歩もうとも...
それは始まりであり、帰着でもあり、常にそれと共にあるものでしょう。
そのある契機には自分という個人が無くなるように感じることもあるでしょうし、だんだん自分が何かをしているという感覚も希薄になってくる...かもしれません。
バクティとは、祈りであり、ラメッシも述べているように、その基調にあるものは「御心のままに」ということです。全託ということもこの中にあります。
私は実際にそういうものに導かれたと言ってもいいのです。いつも"意識が向いたら、パッと..."などと言ってますが、それは、"御心のままに"という響きに心身共に包まれるようなことなのです。
そう、それは意識的な状態です。意識は現臨と一つになっている...神的なものの意志のまにまに、というものが感じられる...御心のままに...です。
起こることは、自分自身が決めたようなことは、みんな神の意志なのか、どうかは知りません。そんなこた、知らなくてもいいことでしょ。
神の意志だったとしてどうなる? 自分が大切にしていたものを失ったら...人から理不尽な扱いを受けたら...悲しみや怒りを押し殺して、悟ったように済ました顔していられますか? 見せかけで...
しかし、あの"現臨"に捉えられてしまったら...もう、何が有ろうと選択の余地などありませんi
そこで置かれた現実を受け入れるしかありませんi 起こる事象そのものは同じだし、その現実そのものは変えることは出来ないでしょう。
しかし、意識が神的な現臨にあることで、事象とは別にそこに表層の思い、感情を超えた愛、平安がもたらされてくるのです。
それは、"すべては神の意志..."と信じようとしたり、思い込もうとしたってそうなりません。
現実にそうならざるを得ないものが生きてハタラクことでそうなるのです。それは確かにあなたという個人の自由意志ではどうにもなりません。
ただ、そのものに同調することは出来る...そこに祈り、帰依というものがあるのです。
それを望むのはあなたの自由...か?
本当にリアルなものには、個人が居るとか無いとか、二元とか非二元とかは無いでしょう。




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道は定められていない

2018-05-06 12:39:44 | 求道、探究
私はこれまでいくつか宗教、スピと関わりを持ってきましたが、その多くのグループに教祖なり、創始者、指導者、つまりその師に当たる人に対して程度の差はありますが、樽奉の念というものが浸透していたように感じられました。
直接そういう声は聞こえてこないものでも、例えば"自分たちは正統なキリストの福音に則っている"、"ブッダに連なる正伝の仏法を伝えている"、と謳っているものでも、その師がその道に連なっているから、そう言い表しているのでしょう。
そして異口同音にその道に従い、後継するという者からは、"師の残した、伝えた道を誤りなく、正しく伝える"という、心意気みたいなものが聞かれたものです。そこには従うべき定められた道というものがあるかのように語られるのです。
それも理解出来なくもないですが、そうした生き方が強固になると、狂信と言われる傾向ももたげてくる訳ですね。
そうなると、その教えに違うもの、歪曲するものは、異端者、反逆者と見なされます。
集うものたちにも、その教えに自分の考え、感じたものを差し挟むことは間違い、悪いことのように刷り込まれているようです。
"あー、めんどくせーi"
そう、私もそういう空気の中にあって、そういう刷り込みも受けたこともあります。しかし、一度も心がスッキリ、何のわだかまりもない、という風になったことは一度もありません。
ずっとこのブログを読まれている方ならお分かりのように、私はほとんどOO教徒、OO学派、OOの弟子として、その事を意識して歩んでこなかったし、それらと関わっていた時でもそうした自覚など無かったのです。
こういう人間がそういうものに足を突っ込むこと自体が間違いだったのかもわかりませんが、とにかくそこには自分を超えた何ものかに取り込まれている、という感じがしたものです。
そこに取り巻いているものは、集合的、集団的無意識というべきか? ともかくそこには、自己というものが押し殺され、自己信頼が欠如しており、主体としての自己は集団的なものに隷属されているのです。
自己というのは、忌まわしきエゴだし、サタンの回し者だし、神である師にもとるものなんですからね。そこには根強い罪の意識が横溢しています。
自分の考え、感じたことは出してはイケナイ...成る程異端者、反逆者、別の面での自由主義者は"我々の正統なる教えの上に、ケッタイな即席の新(珍)教義を作り出して歪曲、脱線して憚らないかもしれない...それはおそらく"思考錯誤"の産物でしょう。
でも、それは狂信的原理主義と形も方向も違えど、根底にあるものは変わりが無いでしょう。
(自由の全く無い、通気孔が塞がった状態でなければマシだと思います)
そこにはずっと集合的、あるいは自我的思考が取り巻いており、私自身の真の神の通路が閉ざされているのです。
もし、ある契機に自分を超えた、思いを超えた神的なものが開かれ、真我的なものの気付きが起きたらどうするんでしょうか?...それでも自分以外の何かの教えを奉っていないとならないでしょうか? それでも自分の魂を、自分の神を"異なれる神"にゆだねたままにするのですか?
脱線というのはこうした逸脱に他ならないのです。
自己信頼という...自己は思考だらけの自我でしかないのかもしれません。それは超えられないとならないでしょう。しかし、そのろくでもない自己を通して、自己を超えたものが現れるのです。...それは"大本の自己"、"我ならぬ我"...先の集合的、集団的無意識はこのものと切り離されているのです。
誰それの正しい道、教えというものがその前に一体何だって言うのでしょうi
すべてはそのものとの邂逅のためだったのでは...この通路が塞がってしまっては何にもならないではありませんかi
そして、本当に古来から普遍的に伝えられた道とは、自己という門を通して心から心へ伝えられていくものでしょう。
道は数多あって何が正しくて何が間違っているのか分かりません。
その前に既存の正しい、定められたOOの道というものを設えてしまうことは、脱線につながるでしょう。
そういう道が有ろうと無かろうと、どっかで常に"道なき道"に開かれていなくてはならないのです。
自分自身がそこで生きられないのなら、その道こそ根本的に間違っているのですi
あなたと私の神を押し殺したならば、もうこの世界は終わりですから...


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愛というものは...

2018-05-04 10:52:25 | 
ある人のことが好きになった
もう、その人のことが頭から離れない
これまで好きになった人の中で一番スキi
世界で一番スキi
どうあっても、こうあっても...
なんて...
もう、妄想のオンパレードじゃないかi
勝手に熱を上げてるだけのクセに、相手の方はどう思っているのやら...
あの出会いは偶然にしては出来すぎてる...
あの人は会うべくして現れた運命の人とか、勝手にフォーチュンテラーしてる
妄想はシッカリ相手のことを見極め、知ることで覚めてしまうことだろう...
相手は、自分が思い描いていたとおりにゃ生きてないi
そこで幻滅が待ち受けているか、それを知って愛情が憎悪に切り替わるか...
愛と思い込んでいたものはただの妄想なのか
それとも...

あの胸のときめき...疼き...
全身全霊が胸に集まり、しめつけられる...
じっとしていられない燃えるような高揚
みんな妄想? そうかもしれない...
でも、何だっていいi
それは私の世界...違いないi
あの人のことが全部ウソでも、周りの世界が全部ウソでも...
そのことは、ここに刻印されている
愛と思われたものは妄想の初産かもわからない...
愛は苦しみ、憎しみに変わるものなのかもわからない...
それでも...愛というものは...
胸の奥にずっと変わらず刻印されている
愛はいつしか冷えきり、その関係も腐れ縁になってしまうかもわからない
人は愛に背き、裏切るかもわからない
残酷な運命というものがそうさせるかもわからない
"とわ"の愛というものほどの幻想は無いのかもわからない
だけど...
移り行くもの、苦しむもの、悩ましいもの...それが愛というものなのか?
相手、対象がどうであれ、息づいているもの
人は愛を裏切る...愛を愛でないものに変えてしまう...
でも...ここに刻まれているものは...
思っている以上のものだ...



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