人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

途方もないこと

2018-12-11 11:31:31 | 哲学・思想
これから書こうと思っていることは、言葉に表すことは実に簡単なことです。
誰しもが当たり前に感じているようなことです。自明なことです。
"私は私であること"
そこには何も問題などありません。起こりようが無い。これは絶対的境位と言ってもいいでしょう。
一体何が悪いのか? そこに良いも悪いもあるかろうはずなどないじゃありませんか? 私が私しているだけなのです。
では、悪いこと...悪。これはそもどこから来るのでしょうか?
私以外に、私の外に私と同じように私している他者存在が認められるからではないでしょうか? そこで"私とあなたとはなんか違う"感じからくる、ある言葉にならない、違和感、不快感から生まれるようです。
そして幾多もの他者が寄り合い、集合して一つの共同的集団が形成されてきます。
そして又テンデバラバラの、数多の"私"を一つの有機体として束ね、統制するには中心となる存在をたて、それを基にルール、法的なものを設える必要が起きてきます。
そこで漠然と感じていただけだった、事の善悪という観念、概念は明確にされるのです。
社会的集団の誕生です。
そうなると...私は私であるままではいられなくなります。
ここに相対感、相対観念が生まれます。
お互いにこの相違を認識しておく必要が起きてきます。ここに自我というものが芽生えてくるのです。
これは明らかに原初的な善悪未分の"私"とは区別されるべきです。自我とは私と別の他者あってのものなのです。
やがて他者を自分の鏡のように映し出すことで、自分を認識するようにもなります。
もう、こうなると...我々の意識はかつてのように"私が私であること"から切り離されるに至ります。
こういう各々相対観念を抱えた社会的集団は、細胞分裂のように、次々と別の社会的集団へと分裂して行きます。
その各々の集団は中心も法も異なります。ただその異なる集団が相接する時には、異なる個人の場合もそうであるように、緊張が生まれるのは共通しているようです。時に関係が破れて"くんずほぐれつ"という状態にもなる...それが巨大化、重層化し、複雑に絡まりあったものになると...
悪矛盾、悪連鎖は無限ループに陥り、問題は途方もないことになって、もはや途方に暮れるしかありません。
何でそーなるかは少し考えれば分かりきっているのです。だけど...こんなにどうしていいか分からないことは無いでしょ、全世界の皆さんi
個人も社会も国も世界も自然も宇宙も霊界?も...問題という問題はこういうことから来るのでしょう。
フリーメーソンがイルミナティが悪いとか何とか言う前に、こういう問題が我々の集合意識に横たわっていることに気付くべきなのです。
どうしたらいいのかって...どうしようもないけど感じたまま、考えて言葉に表すことは簡単ですよi
それはねえ...私が私であることと、他のみんながそうであることとが切り離されなければいいんじゃんi フハハハハ...カンタンじゃないすかi
こんなカンタンなことが...何て途方もないことなんだろう?...
そう感じるのも、考えるのも、言うのも簡単なんですけどねえ...
実際私はこんな声なき声を聞いたことがあります。
"それは容易いことだ。私がそこに顕れれば"
何か途方もない御方の言葉だったようです。
この御方から我々が切り離された事が問題の始まりだった...何て途方もなく簡単なことかi...

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世の中という神

2018-12-09 11:28:01 | スピリチュアル?
所謂ノンデュアリティでは、ご存じのように「私という個人は居ない」、「すべてはストーリー、起こることが起きるだけ」というようなことが、宗教的ドグマのように語られます。
それが悪いことであるのを前提にして...そう言われていることでなしに、自分自身に照らしてみてどうなんでしょうか?
何か問題でも?...そんなに悪いことなんですか?
私は私であること、その私が何かの縁でしている、やらされている人生というストーリー...なるほどそういうことが起こっているだけかもしれませんが、悪いことばかりである訳がありません。
しかし、私はこの"ドグマ"が説かれ始めた背景に、その教師たちがあまり言及しないことで、そのように悪者のイメージを投影せずにおれないものが横溢している、ということは何となく感じています。
それは、例えば..."あなたはみんなが望んでいる役割をしっかり確立しなければいけませんi"、"他の人が見たらオカシク、ヘンな人に思われちゃいけませんよi、そうなるとね、仲間はずれにされて、この世に生きて行くことが出来なくなるんですよi"、"あなたの人生はみんなが望んでいる、オカシクないものでなければなりませんi"
というどっかから聞こえる、神サマのご託宣のような声が重ーくのしかかり、くびきになっているということではないでしょうか?
こういう他からもたらされる"自分という個人"も"あるべきストーリー"というものも本来無いものとは言えることでしょう。
しかし、少し考えてみればお分かりのように、これは私が私であること、その自分が自由に享受している人生自体に起因していることではないのです。
世の中の声が、神サマの声のように拭い去り難く、我々の精神を苛むことに起因しているのではないでしょうか?
この事はどっかの宗教団体に入ってみれば、比喩でなく、本当に神サマの"み言葉"が、"信じなければ救われない、生きていけない"もののように、刷り込まされることが感じられるでしょう。
み言葉にはあなたの個人的な考え、"感じ"を交え、付け加えることは許されません。他の教えも勿論です。そうすると異端のそしりを受けるのです。かつてはそれで火あぶりの刑です。
それは全く"私が私であること"を否定されることを意味しているのではないでしょうか?
自立すること(この場合この"私性"が生きること)が許されないのです。みんながそう言っていることに背けば生きていけない...
宗教組織というのは全くこの世の縮図みたいなところがあります。
なるほど、私の個人的な考え、感じというものは、ロクなものではありません。み言葉を歪め、汚してしまうこともあるでしょう。しかし、"私の神"からは、"そういうロクでもないことはご法度i"という申し立ては受けてません。
むしろ"お前は自由に考え、感じていい...それは私と共にあることで益々お前がお前であるようになるのだ...それはどこまでも自由でなければならない、決して私の通り道を他の道で塞いではならない"、という戒めならぬ戒めを受けているのです。
"あなたをいつも責め苛むものは、あなたの神なのかi、今こそあなたの神に尋ねてみられよi それは世の中というあだし神なのではないのか?"
あまりにも当たり前すぎて普段意識に上らないことですが、本来から人間は社会的なこと、集団に意識が向かわされているのです。人間とは個体であるばかりでなく、集団だということは先天的に刷り込まれていると言ってもいいでしょう。
今日までの人類は集団化、社会化しなければ生きてこれなかったというのも事実です。
その統合には、神(実際にそういう神的なものが関与したかもわかりませんが)の存在が大きな比重をもっていた、あるいは治世者が絶対権力をたてることに利用してきたという歴史もあったでしょう。
でも、この我々を内的でなしに、外的に統治、支配する在り方は独り歩きして、偏向してしまい、ついに我々をガンジガラメ状態にまで追い込んでしまったのが、今日の状況なのではないでしょうか?
今日重層的に、複雑に絡まりあったあらゆる問題の根底にあるのは、こうした人類的業ともいうべきものでしょう。
この神の暴君的支配は、我々の思いを超え、我々自らではもはや手に終えなくなってしまったようです。
他ならぬ、外からならぬ、内から顕われる私とあなたの"元なる神"こそが救世主となるでしょう。


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偶像と見立てること

2018-12-08 11:43:18 | 宗教
京都の無教会的キリスト者、私市元宏先生は所謂偶像崇拝について私と同じような観方をされています。
先生のホームページの聖書講話の中で述べられているのですが、偶像崇拝とは、形あるものを拝むということ自体が問題なのではなくて、有限なるものを無限なるものと、相対的なものを絶対視するという、転倒、錯覚した観方が問題だということです。
本質的なことを言えば、心の中に直接的な神的なものを受け入れてゆくという、開かれた意識の在り方でなしに、固着した思念を根付かせてしまうーそれが心の中に偶像を造ることに他ならないー閉ざされた意識の在り方こそが問われるべきなのです。
お分かりかと思いますが、例えば強固な特定の宗教集団に纏わるドグマ、形としての教典への囚われなど、他宗に対して偶像崇拝として糾弾し続ける、キリスト教を始めとした、原理主義的な一神教徒ほどこの実態に無自覚というのが現状なのではないでしょうか?
私市先生のようにこういう事をハッキリ言明しているキリスト者を私は知りません。
ところで偶像崇拝は、一神教によって強調されてきたように、何故悪いこととされるのでしょうか?
悪いことというのは、何らかの不都合があるからそう言われるのでしょう。
"聖書にそう書いてあるから"、"エライ人がそう言っているから"で片付けてしまうからいつまでも無自覚、蒙昧、思考停止のままなのです。
私市先生は、"他の人を生け贄にしてしまうような心的傾向を生み出す"という意味のことを述べておられますが、私はごくシンプルに"心に偶像を刻んで閉ざされた意識状態では神的な生命に与ることが出来ない"からだと思います。精神的に気が枯れてしまう、ケガレてしまうのですi
これは自分自身の意識に中心がもたらされず、分裂してしまうばかりでなく、正しい教えを信じている自分たちは救われる、選ばれた者たちで、異教徒、未信者などは悪魔、悪霊にたぶらかされ、救われない人間と見なすーこれが生け贄ということなのでしょうかーなどして、人間関係に分裂をもたらてしまうことにもなってしまうのです。
こういう人は"自分は自分であること"に自足出来ないのが普通で、意識は集団に従属してしまい、他に向けて正しいとされる信仰を宣布せずにおれないようです
原理主義的な一神教徒の目から観ると、日本神道などは偶像崇拝の最たるものに映るのかもしれません。
神域から祭壇、儀礼に至るまで偶像で溢れているように見えます。
だが、これらは形あるものを通して形なきもの、限りあるものを通して無限なるものを思念するという、古来よりの"手振り"を伝えていることを理解しなければなりません。
私市先生はそれを"見立てること"と言い、これも私と同じ観方をされています。
見立てることは、先の転倒した偶像理解とは、むしろ真逆でこの手振りをしっかり身に付けることによって、そうした迷いから離れることが出来るでしょう。
見立てることに借りられる(これは"仮のもの"という思念が込められている)ものとは、偶像というより雛形、依り代です。それは見えないものの媒体であり、ものそれ自体でなく、ものを通してハタラクものに与るための知恵なのです。(これには偶像崇拝という蔑称はあっても、一般的な名称が無いというのはどういうことかi 主要な世界的な宗教が生まれる以前から存在した、古代宗教の象徴的儀礼の貴重な遺産がこの国にはまだ生きているのですi)
その形ある媒体は、一定の時期に廃棄、燃やされるー焚き上げーのが普通です。何十年も後生大事に盲信される心の偶像とは訳が違います。
神的なものは我々の思いを超えているのです。
この事が意識から離れた時、悪しき偶像崇拝がはびこります。
どこまでも形なきもの、無限なるものに精神は開いてゆかなければなりません。
その望みなき者に神的なものが臨みようがないではありませんか?...



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知恵の御霊

2018-12-07 12:51:11 | キリスト教関連
小池辰雄先生には、その自由な福音理解、展開によるものか、直接その集会から離れた人であっても各々の在り方で、やはり自由な歩み方をされる人も少なくありません。
この人たちは、諸々の事情から小池先生と袂を分かつことになっても、ずっとその形に表れない学統?を受け継いでいるように見受けられることが特徴です。
そのお一人に京都の私市(きさいち)元宏という先生が居られます。
私は昔からお名前は存じておりましたが、具体的にどういう方かは最近その方の著書に接するまで分からなかったのです。
「知恵の御霊」(マルコーシュ.パブリケーション刊)という著書なのですが、その出版社のイメージから聖霊カリスマ運動とかの内容かと思いましたが、実に学識と霊性のバランスの良さが伺え、やはり小池先生の門下の方かなあ、と感じたことでした。
内容は私が最近感じていることと通うものがあるのですが、簡単に触れますと...
我々はともすると、一般通念を基にして旧約聖書を背景にしたユダヤ教は律法を重んじ、偏狭な国教という性格の強い宗教で、キリストの出現から愛と知恵に基づく普遍性に開かれた福音というものがもたらされたという、先入観を持ってしまいがちになりますが、実は外典を含めた旧約聖書に"知恵の御霊"とも言うべき霊統?(それは古代メソポタミアの宗教に遡るという)が息づいており、キリスト.イエスとして結実した、というものです。
これは古来よりの聖書的世界のことに留まらない、多くの事柄に通底している問題と思いますが、どの宗教にも外的な関わりとして律法とか、戒律など守らなければならないもの、イデオロギー、信条といった信じなければならないものがあります。これは宗教が集団として機能する場合には多少なりとも関わらざるを得ない問題でしょう。
だが、本当に一人一人が神的な生命に与り、交わり、目覚めてゆくことは内的に関わることであるのは言うまでもありません。
これは例えばユダヤ教は律法、キリスト教は福音の宗教などという短絡的な図式など全く無意味でしょう。
どの宗教にもこうした二つの側面があり、大体においてごっちゃに理解されているのが普通でしょう。
私市先生が福音に導かれるきっかけは、1950年代フィンランドのペンテコステ派の宣教師との出会ったことで、そこで聖霊体験に与ったそうです。
同派は原理主義的な性格が強いことで知られますが、その後小池先生と出会われ、その自由な福音理解に共感し、ご自身も独自に無教会的、幕屋的集会を持たれて今日に至っているとのことです。
私は一時、あの異言を伴う熱狂的な聖霊の事態というものに憧れを持ちつつも、警戒もしていました。
「ぺらぺら、ぽろぽろ」とやっているうちに魂がアーメン霊団?に乗っ取られて、原理主義に支配されてしまうのではないか、と。
私自身はその集団熱狂の中で、どうにかなったということは一度も無かったですが、ある集会で現臨に捉えられしまってからそういう疑念は薄らいだのです。
そして私市先生のことに触れて改めて感じました。聖霊の事態というものは、集団熱狂を伴うものがすべてでなく、多様な在り方があるものであり、信条、イデオロギーとは直接関わらないものであると。
霊のハタラキというのは、風が好むところに吹くように中立なものと言えます。
意識の有り様に応じたものが現れるのです。何にせよ意識の在り方が如何に大切なことでしょう。
そして一人一人内的にその生命を深く体受してゆくことが基幹であり、人と人とのつながりというものも、先の外的な関わりに偏したものでなく、内的関わりに根差した在り方もあるということです。
それはどこまでも先生が説いてやまない、知恵の御霊の導きによるものなのでしょう。
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おせっかいな注解

2018-12-04 17:49:50 | 雑記
私も時折拝借させてもらっているのですが、グーブログの編集部からいつもブログのお題が出されるのです。
直近のものはこんなんでした。

「コスパの良い神コスメを教えてi」

私には何のこっちゃサッパリ分かりません。コスパ、デパコス、コスメ? それは何かの呪文ですか?
文節がどうなっているのかさえ分からない。
良い神コスメがお告げで何かを教えているのでしょうか?
それで昨日首をかしげたり、頭を抱えているうち、ある異端の文書がノコス(ノーコスト)で手に入りました。(またあi?)
何でも"シタデル"という謎の古代宮殿から発見されたとか...
ソフィアという汚れなき女神の箴言だそうな...
律法、戒律、掟...宗教には付き物のそんな風のことが書かれています。
こういうのはしかし、ほとんどおっかない支配者、権力者、厳しい家父長制の父親とか男性をイメージさせる神が告げたりするもので、愛らしき女神というのは全くそぐわないですね。
これは、おそらく(なんつって...)あらゆる、そうした外から我々を律しようとするものに対する逆説という意味合いが込められているのでしょうね。
書いた人はよほどそういうものに苦しめられ、恨みを抱えていたに違いない?
神サマは恐ろしい...神に背き、神の目にとまると恐ろしい裁き、滅び、地獄落ちが待っている...
こういう神のあるイメージを逆手に取っているのでしょう。
我が最大の戒めは、愛し、愛されること...そんな戒律ある訳無いi "ねばならぬ"愛など死滅するっきゃない。
"私だけを見てi" 神は命がけの愛を迫るように告げる...
しかし、強いられた愛は女神は一切受け付けてくれないでしょう。
それは全く自由な内奥からの発露でなければならないのです。
神というのは私という個人だけを愛していて、極めて人間的な愛業みたいなものを感じさせますが、そういう偏愛があるのかどうか知りませんが、神との関わり、交わりが如何なるものかは、私やあなたしか分かりようがありません。
他人が成り代わって語っているようなものは、きっと"あだし神"のカタリにすぎないのでしょう。
あだし神...異なる神、他の宗教...そういうものを信じちゃ、惹かれたらイケナイことなのか?
いや、そこに理屈抜きに惹かれてやまないものがあれば、それは"純愛"なのであって、神との間にセクト主義、宗我意識を差し挟むことこそが異教を拝すること、偶像崇拝につながるという。
全く個人的なつながりというものに普遍性が開かれるという、これ又逆説...

おおっと...こういう風に余計な注解をしてちゃいけないんでした。
おせっかいながら、くれぐれも従っちゃいけませんi....イケナイ?
何だか分からんうちに、ついイっちゃっただけです。





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