人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

プレゼンス

2019-12-22 10:46:09 | 人生の裏側の図書室
おそらくこのブログで、随所にその辺りのことが伺われるでしょうが、私には、近年欧米を中心に広まった、所謂ノンデュアリティには、同調出来るところと、出来ないところがあるのです。
およそ5年前、ブログを始めた頃は、ノンデュアリティにハマりかけていて、その少し前英国のその分野の騎手?の一人、ルパート.スパイラの著書「プレゼンス」(ナチュラルスピリット刊)を読んだのですが、正直あまり印象に残っていなかったのです。
しかし、最近読み返してみると...「私たちの真の自己は、気づいている現存(プレゼンス)です」
「自己が自己自身を知る光は、自己自身の光である...それは他の何ものでもなく、それ自身によって知られています」
「(現存にあって)幸福は自己の自然な状態であり、いかなる状況においてもそこにあります。...平安、幸福、愛は、私たちの自己に本来備わっているものです」
何だか誰かさんが言ってそうなことが、ふんだんに出てくるではありませんか?
ここで現存と表現されているものは、(多分)私が現臨と呼んでいるものと同じニュアンスのもののように思われます。
私の場合、"臨んでくるもの"という感じを出しているのです。
私はパクった覚えはありませんよ(笑)...何しろあまり印象に残ってないので...(私は主にラマナ.マハルシ、フランスの神秘思想家モーリス.ズンデルからパクっ...いやインスパイアを受けているのです)
しかし、スパイラ氏は、当世の非二元のティーチャーらしく、神(的なもの)、といった表現は使いません。(使おうとしない?)
私は、自己と神的なものは切り離せないものと感じていますが、彼は現存は、"自己そのもの"という風に強調しているようです。
そして、体、心にとらわれた自己、思われた自己は、見せかけ、幻想に過ぎない、といった、やはり当世流の言い回しも随所に見られますが、概して私には、彼から非二元原理主義者という印象はあまり感じられませんでした。
しかし、その思われた世界に"投げ出されて"生きている大方の人間は、どのようにしてその真の自己、現存に気づくことが出来るでしょうか?
そこでも彼は"直接的な道"の教師らしく、特定の修行法を提示しません。
ただ、"思われた、分離した自己には真実性がないことに気づいていけば、真実は自ずと立ち上がってくる"...らしいのですが、私のように偽我(?)がこびりついているような人間には、ちと難しいようです。
そこで、そういう人間には..."あったi"
"すべてを現存にゆだねる"ということにも、彼は終わりの方で触れているのです。私にはそれがもっとも肝心なことのように思えるのですが、"ゆだねる"ということには、(二元性という言葉を使いたくなければ)自己を超えた"他者性"というものが示されなければならないのではないでしょうか?
神的なものというのは、そういうニュアンスのものです。
もっとも、それは各々の機根、縁にもよるもので、自己探求的な道で現存に目覚められればそれでいいのでしょう。
なお、この本には続刊があり、そちらはまだ読んでおらず、ちゃんとした書評にならなかったのは(毎度のことながら)"悪しからず"、です。廃刊にならないうちに読んでみたいです。
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意識と現臨

2019-12-20 11:59:25 | 現臨、ハタラキ
私がしばしば、"じんじんしてくる"とか"現臨にある"、"ある照明を受けている"、"見えざる導き"とか言ったりしていることは、すべて同じことをその感じ方の違いで言い換えているものなのです。
40年くらい前に初めてそれらしきことを感じるようになったのですが、その当時はまだ今ほど意識的になってなかったのです。
何せ"意識している"ということ自体"意識してなかった"くらいで、同様に世の中的にもそれと"考えていること"とどう違うのか、といったことなど今ほど理解が進んでなかったようです。
"現臨"、"照明"、"見えざる導き"のことを、アリアリと目の当たりにしたのは、それから数年後の爆発的な体験を通してのことでしたが、そんな訳で、それまでは自分の思いなのか、思いを超えた事態なのか、判然としないところがあったのです。
例えば、あることに光が当たるというか、これがまあ、"照明"というものとつながる訳ですが、"意識がそこに向かう"ということがあると、それを"行いに表さなければならない"、なーんてことを何かの本で読んだか、どっかで思ったりするのです。
これは一種の強迫観念みたいなのが付きまとう訳で、そこで"考えているだけじゃダメなんだi"と、"考えられている"のです。
するとそうなっている自分は、ちっとも"楽じゃない、幸福じゃない"、ということは感じているはずなんですが、頭の自分は"それじゃあ、ダメだi"と、言いたいようなのです。
自ずと、幸福になっていることに、一体何の付けたしを加えようというのか?
"こら、アタマ、何が一体ダメなのかi"、と言ったって、多分"世の中という神様の仰せだ"、というくらいしか分からないでしょう。
人間の在り方というのは、"考えること"か"行動すること"しか無いのでしょうか? 考えたことは、表さなければならないこと、というのは、何かを表す生き物のサガとして一理あることと思いますが、"現臨"、"照明"など神的なものを"感じている"という事態というものは、正しくそれを感じ、受け入れることしかないのです。
これは、"感じること"というもっとも根幹的なことがなおざりにされてきたということでしょう。
そして、"現臨に捉えられる"ような事態になったなら、もはや考えたり、行うことは不可能になります。
それは"意識が現臨にある"ということであり、実に"意識的であること、感じること"が、人間の根本的な在り方ということが自明に分かることなのです。
今までの多くの宗教などの精神的な道では、何と倫理的なことに絡めた、心がけを変えるとか、行いを正すとか、出来そうにないことばかりの、新たに不自由な種をもたらすような教えが説かれてきたことでしょうか? そうしないと幸福になれないとでも?
それは考えたり、行動しなくとも、意識を向けるだけでそれ自体が臨んでくるのではありませんか?
それも、"意識を向けなければならない"んじゃなくて、そのものがあるから意識が向いちゃうだけの話です。
"自分で変えようとしなくても、変えさせられるものがある"...これを福音と言わずして何であろう...
こういう風に感じられるようになったのは、自分がどうとかなったというよりも、あの御方の方がこちらにより顕わになってきた、ということなのでしょう。

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促しがあるかぎり...

2019-12-19 11:48:09 | 雑感
先月、近年に無い長期に渡る風邪の疾患に見舞われた際、アクセス数が急激に落ちてしまったのですが、ここんとこ元の状態に戻ってきたようです。(落ちたと言っても、ブログ総数約290件のうちの順位何千番台のことで、人気ブロガーとは比較にならないでしょうが、この数字自体、私には今でも信じられないことなのですi)
無理も無いことです。スピ的なことに関して、いつも当たり前のように書いていた、根幹的なことが分からなくなってしまったのですから...
それにしても、そういうことが本当にアクセス数に反映していたとすると、読者方は余程目が肥えているのかしらん、などとも思ったりします。
しかし、その時私は、"今でなければ書けないことがあるi...だからこの備忘録代わりにもなるブログに向かわないと..."と、フラフラしながらも、そういう状態のことも書き表そうとしていたのです。
要するにごくフツーのことを、です。といっても、"じんじん"してくると何がフツーのことだか、よお分からなくなりますが...
思い返せば、ああなる直前、私は、"思われた自分からは何も始まらない" みたいなことを書いていたのでした。
図らずも自分自身がそのことを思い知らされた格好になってしまったようです。
それは、"無くなったとか、感じられないとか言ったって、ちゃんとあるじゃないかi"、というようなことでもあり、もっと根本的には、全く文字通りの.."そういうものは、けっして思われたお前自身から出てくるものじゃないi"、ということです。
そのことは、ホントに私の肝には入ってなかったという訳ですね。
"あの感じ"を言い表すものの一つに、"自分の外からも、内からも何かの光のようなもので、すべてを見通されている感じ~照明"というものがあります。(ああ、私はこういうこともいとも何気なく使っていたのかi)
これはですね...んもう、ホント~に、その内包するものは、"神の国が来たi"ことを告げているみたいな、途方もないことなのに違いないですよi...(多分)
それは、私が自分で到達したようなことでは、全くないのですi
あれはだから...そういうことを何でもないみたいに書くから..."見ろi、バチが当たったじゃないかi"、ということだったのでしょう。
...なーんて、こともそれは、きっと私がそう思っているだけなのかもしれません。
バチが当たろうと、どんなに途方もないことだろうと、私は今後も書く時にゃ、書くでしょう。
そういう"促し"があるかぎり...それは、ああなった時だってそうだったのですから...
だから...無くはないものなのですって!...
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意識と内的感覚

2019-12-16 11:56:03 | 意識、照明
私に初めて現臨と呼んでいるものが感覚されたのは、40年ほど前のことでしたが、その感じ方には、その時々に応じて微妙な変化もありました。
まず、最初の頃は決まって手の辺りに、これはかなり具体的な感覚なのですが、ある種の暖かみを感じていたものです。
それも単なる肉体的なものとも違うもので、それが全身に広がってゆくにつれて、私が内的感覚と言っている心身一如的なもの、ということが分かってくるのでした。
しばらくすると、何か耳下線の辺りが膨らんでくる感じを覚え初めました。これがあると大抵、意識の高揚感を伴うのです。
出口王仁三郎師によれば、それは神憑りの兆候なのだそうですが、そのことについて、"どんな神が懸かっているのだろう?"とか考えようとすると、孫悟空の頭にはめている輪っかが締め付けられるように、偏頭痛が起こり、困難になります。まあ、"考えるなi"という、見えない合図なのでしょう。
この頃から、私は精神世界には付き物の、前世や異次元とか、考えても分からないことを夢想することから、自然に離れるようになりました。
頭がズキンズキンするから?...いや、それもありますが、そんな夢想よりもっと素晴らしい、リアルな世界があることを示されていたからです。
こうして私は"見えざる導き"というものを知らされるようになったのです。が...
その感覚は一年半ぐらい経った昭和55年夏頃、自然消滅してしまいました。
これは先月のあの僅かな"消失感"何てどころじゃなくて、本当に"すっからかん"になってしまったのです。(もっとも、こうしたことは"そう思っているだけ"だったかもしれませんが)
この冬眠期間は長く、約7年間続きました。その間にあの著しい"目覚め"の体験があったにも関わらず、です。
再び、その内的感覚を取り戻すことになったのは、スブドのラティハンとの出会いに由るものです。
ホントは感謝しなければならないと思うのですが、なんだ、かんだあって、そこから離れることがあっても、実質それが完全消滅することはありません。今のところ。
しかし、スブドとの関わりで、どうも私は長いこと、ある種の"バイブレーションを受けること"に意識が偏ってしまった面も無いではありません。
バイブレーション、神的なハタラキのことで、これを欠いては何も開かれない、と言ってもいいほどのものには違いないのですが、又そこに何かを欠いたら、尚十全とは言えないものがあるように思われます。
端的に言えば、波動であるとか、ハタラキ的なものは神的なものと切り離してもハタラくものです。それは神的ならざるものにもなり得るものでしょう。
ということは、ハタラキ自体が神的なものとは限らないのです。
"神はハタラキである"とか、神を特定の属性で言い表すことは不可能でしょう。愛、平安...要するに"神はすべてのもの"と言ってもいいくらいでしょう。
私のごく浅い経験に過ぎないですが、ラティハンのような自動運動で、ただ"バイブレーションに心身をゆだねる"ことだけからは、中々自ずと意識がある中心に集められる感じにならず、意識の内奥に浸透するようにはならなかったのです。
この内的感覚がもっと恒常的に、日常に定着するようになったのはもっと後のことで、バイブレーションを受けることや自動運動が起こることよりも、神と共にあることに意識が向けられるようになってからです。
これには、この備忘録のようなブログを書いていることの意義も大きいものがあるのです。
何にしても、人の人生は"意識の在り方"次第と言えるでしょうが、年を重ねてゆくうちに自然と変わるようにも感じます。
そして、そのように変わる面もあれば、変わらない面もあることも実感されてきます。
神的なものと共にあることは、常にどっかで意識付けられているのでしょう。
こう思えるのは、多分私は確実に年をとってしまった、ということなのでしょうか?
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内なる意識、外なる意識

2019-12-15 10:36:24 | 意識、照明
先日、ある人との雑談の中で、「野口整体」のことが話題になりました。
これは、「活現」と呼ばれるスブドのラティハンにも似た、無為的に発現する自動運動を主体にした一種の健康法なのですが、その人は「あれは、ほとんど洗脳だi」と、決めつけたことを言っていたのです。
私は野口晴哉先生創始の本家の門を叩いたことこそ無いのですが、お弟子さんが開いているその実習会には何度か参加したことがあり、その限りでの感想では、少なくとも私には"洗脳"の要素は感じられず、「いや、そんなこたあないi」と、反論したのでした。
第一、私にその自動運動が発現したのは、そのずっと前から前記スブドにおいてあったことだし、元波動瞑想でも、自己流(?)"祈り、瞑想モドキ運動"でもしょっちゅうあることなのです。
洗脳ということなら、そのラティハンを始めるにあたっての短い祈りごととか、元波動瞑想での簡単な誘導の言葉などの方が要素としてはあり得ることです。
洗脳には、言葉というものが絶対的な効力を持つものですから。
しかし、そのグループから離れても発現しちゃう訳だから、それは自己に固有に備えられたものと解していいでしょう。
何よりもその根本的な部分では、その自動運動そのものから"内観され"、受ける感じは一つのものなのです。これは同じ私が受けているのだから当たり前のことなのでしょうけど...。
ただ、その"外観される"ものについては、各々に差異が見られるのもこれ又当然とも言えるでしょう。
そのグループには特有の集合意識というものも形成されるものだから...これに従えば、上記したグループの中で、私が感取した、洗脳的要素がもっとも高かったのは、"スブド"だったと言えます(もっとも宗教的だったとも言える)。
もっともこれは、その"内的な"自動運動そのものについてのことではなく、それ以外の例えばその教祖的人物の言葉に、グループのメンバーが支配され安くなっている事象について感じられるもののことですが...。
私はそういう要素と、内的なものとは、混同されるキケンは感じていたものの、あくまで別のもの、という風に感じていたのです。
これは、おそらく自動運動が発現したのは、スブドにおいてが初めてだったけれど、それ以前から内的な感覚というものに与っていたことが大きかったと思われます。
それは、自己の外部から持ち込まれるものとは区別されるもの、という認識が与えられていたのです。
(ただ、スブドは、そんな洞察をする機会も与えられないような、組織的な洗脳団体ではなかったことが救いだったとは思います)

人の人生のどんな状況においても、"意識の在り方"というものが、如何に絶大な意味を持っているかということは、いくら強調してもし足りないものがあります。
訳の分からんこと言うようですが、宗教の狂信者に典型的に見られるような、その集団の集合意識に迎合され、支配されてしまうような事態というものは、ちっとも"意識的なこと"ではありません。
そういう人間からは、内的な深みというものが感じられてきません。それはまさしく自己の内奥からくるものです。
それに与り、外的な表層的集合意識に呑み込まれないためには、自己信頼を養うことが肝要です。
こうした内からの意識、外に向かう意識などについて、自動運動を伴うエクササイズをいくつか経験したことは、実に貴重な学びを与えられたと思っています。
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