人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自分が好きなこと

2022-04-21 10:03:28 | 求道、探究
“人は皆好きなことして生きていていい!”
これは私の人生のモットーのようなものです。
好きなことしないで、何の人生か?...誰の人生なのか?!
人に迷惑を掛けない限り、何をしても自由なはずです。
ただ、このことに関して、よく混同されがちなのですが、それは鬱憤晴らしとかストレス解消などだけに向けられるものとは違います。何かを出したら、晴れたら、用済み、“ああ、スッキリしたあ!”で終わり、というものとは違うのです。恒常性があるかどうかの違いと言ってもいいでしょう。
そして、自分が自由に、好きなことに与ることで、他のものもそれに与っているのだ、他の自由も尊重するというような相互理解も生まれるものでしょう。だからそれはやりたい放題ってことにはならないはずです。
”あにい...自分の好きなことが分からない?だとお!”...それは一寸オカシイ、不自然なことだと思いますよ。それは、”そんなんは流行遅れだ“とか“つまらん、やめとけ!”とか他人の声におもねっているか、損得、利益などにとらわれている場合が多いのではないでしょうか?
好きなこと...私はそこに一番、もっともそうであるものということを付け加えたい!
これは、自分の好きなことを探す、というニュアンスで語られるものではありません。
物心付いてから死ぬまで、どうしてもこうしても、そのことを意識せずに、それに赴かずにおれない、という質のものに他なりません。
要するに、自然に意識が向く、向けられてしまうのです。
そのことをもっともっと意識していると...ホントに出会える...かもしれない!
そうしていると、何かの巡り合わせか、不思議な出会いというものが生まれやすいのです。
そもそも何で意識がおのずと向いてしまうのでしょうか?
それだけで、愛、平安というものが感じられてこないでしょうか?!...だから向いてしまう!
これは、人生には決定的な出会いというものは確かにある。しかし、それはその対象となるものだけからはもたらされない、ということを示しているのではないでしょうか?
あなたにとって最愛のものは既に自分の中に隠れているのです。
これはもっと卑近な好きなことについても言えることです。
以前、自分のことが嫌いだ、という人間と話していて、彼はコミックを読むのが好きだ、と言っていました。
私は、「じゃ、君はコミックが好きだ、という君は嫌いなのか?」、と訊いてみたら彼は「ん~、ふふっ...」と無言で笑っていました。
このように自分のことが好きか、嫌いかということも、他者の目で判断されていることが実に多いのです。
好きなことをしていたら、そういう自分自身も好きでいられるはずなのです。好きなことというのは、当たり前のことながら”自分が好きなこと“なのです。
好きなことには、自然に意識が向いてしまう。
真我というものが何かは分からないけれど、少なくとも好きなことをしている自分は、自分が思っているよりも、ホントの自分とは言えるのではないでしょうか?...
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ある朝の不思議な出会い

2022-04-20 10:13:18 | 雑感
私は、いつも仕事に赴く前に自分だけの時間を持つようにしているのです。
で、昨朝その時間を過ごすつもりだった店がまだ開いておらず、にわかにイライラがつのって来て、しょうがないので、駅前広場の縁石のところにやむなく座ることにしたのでした。
すると...突然どっかから若い兄ちゃんがやって来て、となりに座り、馴れ馴れしく話かけてきたではありませんか!...「いやあ、朝早くから大変ですねえ?」
(や、やばい...これは何かの勧誘か、“タカリ”に違いない!...んもう、一人になりたいのにい~)私は、不機嫌そうに返しました...「う、うん...で、何?」髪を茶髪にして見るからに“チャラ男”です。こりゃあ、早く追っ払うに限る...「何の用だ?」(ムッと)
すると、兄ちゃん、何やら身の上話を始めたではありませんか!(よくある手ではないか?...しかし、しばし聞いていると、浮いた感じでなく、きちんとした言葉で話すし、中々”本件“に話がそれる様子もありません。
何でも、三日くらい前に運送関係の仕事を辞めて、近々故郷に帰るのだと言う...ん~、中々誠実そうな若者ではないか?...まだ20代前半で、そこで人生の三倍くらい(大体当たってる!)先輩の私に、何か人生のアドバイスをして欲しい、というのです。
(そ、それはねえ...い、いいとも!)私は、すっかりその気になって話始めたのでした...。
大体は、ここで書いているようなことです。と言っても“神的現臨が...”ってことにはなりませんよ!
「エラそうなことは言えないが、とにかく、自分が好きなこと、惹かれることを持つことですよ。それが生業と結び付かなくても...でも、とかく人は、”そんなことして何になる、つまらん、くだらん!”とか周りの声に振り回されて、それが分からなくなってしまうんだ。でも、現実にそう感じてるのは自分でしょ!、自分の人生なんでしょ!、そこに生きがいを感じるんじゃないかなあ?...」
「あなたは今、何に生きがいを感じてるんですか?」
「歌うこと...そうそう、ものを書くこと...文章でも、絵でも感じたことを書いてみる...それを外に発表しても、しなくてもどちらでもいいだろうけど、あまり認められることを意識しては、本当の自分の感性からズレてしまうよ。...僕は、そうやって自分が感じたままを表すことで、大きなことを学んだよ!...書くことが学びなんだ。そうやって僕の中から出てくるものは、思いもよらないものだったりする...それは僕の知らない私みたいなものだよ。ひょっとしたら、それが本当の自分なのかもしれない...」
こう、話していた時、彼の目が一瞬何かに惹きつけられるように、前方に見据えられたのを私は見逃しませんでした!(実に真面目な目だ!)
「僕も何か書いてみようかなあ...本当の自分、見つかるかなあ...」(君ならきっと見つかる、きっと会える、最愛のものに!)
と、いよいよ話が佳境に入ろうとしていたのですが、無念にも...
「おっ、そうこうしてたら、時間が...んじゃ!」「ありがとうございました!」(こっちこそ!)
本当は、いつまでもそうして話し合っていたかったのは言うまでもありません!
そして、改めて感じさせられました。
私は、孤独が好きで人を寄せ付けないところがあります。しかし、本当はそれよりも深く人と交わることを望んでいるのです。...ただ、表層の人間関係には煩わしいことが多いので、そうしているだけなのです。
それにしても、私の人生には時々あるけど、昨朝の出会いは不思議なものでした。
短い時間でしたが、きっと忘れ難いものになるに違いないでしょう...。

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思いはそのままで...

2022-04-18 10:08:31 | 求道、探究
”人は救うも、救われるもない、元々救われているんです...元々悟っているんです...この世の不調和に映ることは、自分の不調和な思いの反映なのだから、その思いにとらわれないことです。...“

いつも、独善的な宗我意識や陰謀論などのオカルトの言説にとらわれている人間から、その元ネタに真実があるとしても、無批判にこういう悟り説法のマネなど聞かされても、全く何も心に響くものなど感じられず、白々しい思いをさせられるばかりです。
そうでなくても、こういう根源論に偏した言葉に接していつも感じることは、言う方も聞かされる方も、本当にそのことを心から感じているのか?、ということなのです。
そうでないのに、高遠そうな、悟ったような言葉だからといって、無理にそれに信従しようとしても、それは自己の本当の真実に却って覆いをかけてしまうことになるでしょう。
それはいつも言うように、自分の思いだけで処して行こうとすることだからです。心から感じていないまま思いを巡らせ、強めたりするのは、本心を誤魔化し、迷いを作ってしまうことになるのです。
だから...思えなければ、思えなくていい...信じられなければ、信じなくていいのです!
思おうと、信じようと自分の実存は、何一つ変わったりしません。
神に思いを向けていたらいいのです。諸々の思いはそのままで...
神的なもの、神に在るということが抜け落ちるから、浮いた思いばかりが堂々巡りしてしまうのです。それが抜けると、思いはそのままで、という言葉が浮いてしまいます。
春の陽光に照らし出されるように、神的な光に映し出されるまんまを受け入れるだけです。
神に思いを向ける...(ここでは思いの奥の意識の次元のことは言ってません)これは祈ることと言ってもいいですが、そのこと自体が諸々の思いから離れることなのです。
言っている私でも、ウソだと思ったりもして、それでもそうすると、そうなってしまうのだから不思議としか言いようがありません!
こっちはアレコレ思い煩っていて、そのまま神を思ったりしてたら、いつの間にか化してしまう、ってことはやはりあっちが思いを超えたもので、それがこっちに働きかけて来るということなのでしょう。
思いというものは、神にあって消えるものだ、ということです!
思いが超えられていなければ、そこにあなたや私の真実などありません!
観念に浮いたようなお話などもう沢山ではないか!

考える人間は、どこまでも考える人間に過ぎません。
自分は、神になったと考えたりするのは、過ぎた人間で、神にもなれないし、おそらく考える人間に戻ることも出来ないでしょう。
でも、こういう欺瞞を散々見せられて、その向こうから、“地上に降りた神”がものを言う姿が次々現れるのを見せられているようでもあります。

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みたまのふゆ

2022-04-17 10:03:02 | スピリチュアル
「我が砕けて汝が生きる。心が裂かれてみ霊が宿る。聖霊にあって聖言が生命になった。...
この聖愛のキリストの霊性を陽光の如く、大気の如く、清水の如く、受霊(うけひ)する現実においてはじめて質的に受けとられ得る」(小池辰雄「キリストの霊性」)
「北斗の星の気を受けてみたま振りをば起こすべし 直霊の神霊(みたま)の神座立てば宗教宗派の争いも夢と消え、世界人類元の道へと帰るなり」(神聖神言録第103号)
「大命は 今ぞ降れり受霊(うけひ)なせ 神子の目覚めに世は新生す」(同 101号)

昭和54年の今頃、立て続けに魂がいやが上にも高揚させられるような文章に接したのでした。
特に惹きつけられたのは、“みたま”、“うけひ”という言葉でした。
みたま...身魂、御霊...それは、神道などで言われる、人それぞれに授けられているとされる霊なる命のことですね。神直々の分け御霊であると、これを直霊(なおひ)と言います。
又、キリスト教では、聖霊のことをみたまと言ったりします。
どちらも、与えられる、賜るものということ、わが内に賜っているものであり、我を超えて賜るものだ、ということです。
つまり、そこには二重に霊なる命を賜るという意味が示唆されているのです。
霊なるものは、超越的にして、内在している...
この二つのみたまの消息は、両義があると言う他ありません。分けることが出来ない!
その言葉に触れただけで、もうじっとしてなどおれない!
魂が高揚してこざるを得ない!...このことがそれを物語っているではありませんか?!
ここで肝心なことは、人間は本来神の子、神と一つのもの、ということを信仰題目のように、信じ込んでいても何にもならないということです。
受霊...聖霊のバプテスマ...現実に神の恩寵の力に与らなければならないということです。
古来わが国では、これを“みたまのふゆ”と呼んで来ました。
みたまと言うことが賜物、霊の賜物なのです!
そこに宗教宗派の垣根などあろうはずがありません!
私のすべてに関わるものなのだから...
又、みたまの現実に目覚めれば、そういうものは夢と消えるでしょう。
小池先生の詩文も、但馬の地から発せられた”知られざる神示“も、私にとり今も色褪せること無く、“みたまのかて”として愛読しているものです。
思えば、あの時私の道の指標は定められていたことを覚えずにおれません!...
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神を知ること

2022-04-15 09:59:01 | 
グルジェフという神秘思想家がおりましたが、彼が一口にどういうことを説いていたのか、あまり熱心にその著書を読んでいなかったこともあってか、パッと思い付きません。
もうとにかく、3とか7の法則とかオクターブの法則とか4つの道とか人間第何番とか...覚え切れないほど様々な宇宙論や人間論に関する分類項目があり過ぎて、実にメンドクサそうで読む気が萎えそうになったものです。
ブッダのよく知られている教えは、四諦、八正道とか十二因縁などのものですが、原始のその単純な辻説法の中で、それらを説いていたとは考えにくいです。
“え~っと、三つ目は何だったっけ?”、な~んてやってたらブッダの生の言葉を取りそこなってしまいますよ!...あれらは多分、後に体系化しようとして残されたものでしょう。
人によって、又時によっては、項目を立てた方が分かりやすいのでしょうが、私にはかえって分かりにくく感じることの方が多いのです。
何よりも、分節的になってしまい、頭がまとまりません。頭悪いし、ただでさえ、分裂気味なのに...
もっとも肝心なことは、意識が流れるようにおのずと集まってきません、統一的になって来ないのです。
肝心なことっていくつもあるものなのでしょうか?...精神的な道の肝は一言で言い表せないでしょうか?
そこで、パッと浮かんだ言葉は...”神を知ること“
おしまい!...まあ、これで終わるなら、最初からこれしか書いてませんが...
勿論、それは知識として知ることではありません。宗教で信じられている神のことでもありません。
いや、もう意識が向かってしまう...知ろうとすることには、このより深いところで知ろうとすることを含んでいるのです。
考えているだけの自分から超え出る、出される、否、超えた方が臨んで来る...そこからしか良きことは何も始まってきません!
神を知ることは、私自身を知ること、普遍世界のことも知ること..概念でなく、直接知ること....一つのことがあらゆることなのです。
あらゆることは一つに収斂されてゆく...色々な神も居るかもしれない、神にも階層みたいなものもあるのかもしれません。
でも、あの神もこの神も一つ...神は一つ!
どんな多様性があろうと、分化があろうと、一なるものが貫いている...
私も神と一つとならざるを得ない。
神を本当に知ることは、一つになることではないでしょうか?
それは、すべての私の初めであり、終わりなのでしょう...
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