人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の方が通る

2022-07-08 09:59:08 | 求道、探究
私がずっとここで書いてきたことは、自分をどうこうするんじゃなく、神が、神的なものの方が顕れ、働いて下さる、ということなのです。
そういうこと言える、ってこと自体、よほど魂を磨き、(私が普段否定的?に思っている)修行とは言えないが、ある種の修行を積んできたからではないのか?、と勘ぐる向きも居られるか?
”いーひっひっひっ...冗談ではない!、どうやって魂を磨いたらいいのかさえ、わからんわい!”(どーやるんだ?)
私はねえ、フツーの社会人なら身につけているであろう、人生修行をずっと怠ってきた人間なのですよ。言わば人生の落伍者みたいなもんで...ホントですよ!、私をよく知っている人ならみんな知っています。
そんな人が私が日頃、”神の愛、平安...”、とか書いていることを知って、”はあ...アイツそういうこと書いてんだ!”なんて怪訝に思ったりするかもしれません。
おかしい?、ダメ?、そんな資格無い?...そう、そんなだからお説教臭いことは書く資格は多分ありません。ほとんど書いてませんし...。
でも...“神の方が...”、というようなことは、誰にも気兼ねすることなく言えちゃうことなのです!
だってリアルに、私が修行したり、どうこうしてそうなった訳じゃないのですから...
私がそうなったこともどうでもよくて、要するに、今の今も神的なものが臨んで、顕わになったということなのです!...これを伝えずに何を伝えるのか!、伝えずにおれない!
自分がどれだけ成長したかだとか、悟りに近いたとか、遠のいてるかもしれないのに、不確かなことはどうでもいい!...これはリアルな現実なのです。これを受け入れざるを得ません!
そうでした。私は、初めて神的なものがアリアリと臨んだ時、立ちすくんでしまったのです。正に私はそのような人間だからです。
“私の眼前には、今生では与ることの出来ないような幸福がある!...しかし、私にはそれに与る資格など到底無い!”...というようなことは、薄紙一枚くらいで保たれている私の思いがガンバっていたことなのです。
受け入れざるを得ない現実を前に何をガンバっていたのでしょう?...もう遅い!、神の手がかかっちまったぞ!
私がどういう人間だろうと、一切のことは神に預けていることなのです。だから与ることが出来る!
与るということは、私が進化するのでも悟るのでも何でもありません!
私を通して神的なものが通るということに他なりません!...神の方が通るのである!
それは、ホントに、ホント~に私の思いを超えていることなのです!
それで他者にどれだけ愛、平安がもたらされるのか計り知れないものがある...私ではなく、神によって!
だから、今日も性懲りもなく綴り、否綴らされているのです!
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絶対忘れないこと

2022-07-06 12:01:13 | 回想
あの初めて”人生の裏側“に踏み入れた時というのは、ホント~に人生の、いや今生のこととは限らない、“すべての生”に関わるであろう、あらゆることが凝縮されていた、と常々感じています。
どれほど凝縮されていたかというと、そこから再び”人生の表側“に戻されると、それがどうゆう重要なことを示唆していたか、ということを身に覚えていないくらいなのです。(笑)
そう、ホントに信じれないくらい元の黙阿弥に帰してしまったのです!
何でそういう風に感じられ、言えるかというと、現在はある程度見に覚えているからに他なりません。ここが肝心なことで、身に覚えるというのは、頭の記憶ではないということです。
今はあの時とは違う!...感じることが出来ます。
そして、何故そのように元の黙阿弥になってしまったかがはっきり分かります。
心が神的なものと切り離されてしまったからです。厳密には深い意識のレベルでは切り離されてはいません。そうなったらこうして書いてなどおれません!
もっと具体的に言えば、それは神的な愛です。
すべては神の愛に捉えられたことから始まったのです。何が凝縮されていたかと言って、神の愛に与ることの何ものでもないですよ!
このことは全身全心全霊をもって感じさせられていたはずなのです。
「僕は何も知りませんでした!」と、その時、私は神に魂のどん底から叫びました!
私の知っている人生で神の愛は勿論ですが、人間的愛ですら、あんなにもアリアリと目の当たりにしたことは無いし、それに反応させられたことなど一度もありません!
しかし、現世に戻って...そのことがウソのように、私はいつもの感情を押し殺したような、理知的な装いをした(そういう仮面をしていたということ)、人生を斜めに見ているような人間に戻ったのです。
そしてこんなことが過りました。...“あれは、本当にぶっ飛んだものだったけど、幻想なのかもしれない?...“
私は、今書いていて我ながら、筆、いや指が震えてくるのを感じて、その時の私にこう言ってやりたい!...“それは、アカン!、ダメだって!...お前、心に無いことを思おうとしているやろ!(何故か大阪弁)、あれは無かったことにしようなぞと!...そんな忘恩なんか...どうなったって知らんぞ!“
それから半年ばかり後、私はまるで良きことはすべて坂道を転げ落ちてゆくような、恩寵から見捨てられたような精神的苦境に見舞われてしまったのでした。
これは今思えば、恩寵を、神の愛を否定するような心持ちになったこととて、当然の成り行きのようなのですが、当時の私は、実にそれが不可解に感じてならなかったのです。
それには、“俺は悟ったぞ!“と、増上慢になり、エゴが膨らんで、それに押しつぶされちゃうから、ああいう体験のことは封印することにした、という思惑も一応は分かります。
いや、それなら尚更、そのことを神の愛、恩寵に意識を向けるべきではなかったか?!
たとえ、他のことはすべて幻想だったとしても、それを無きものにしようなぞ!
すべての生を否定することになるではないか!
と、...な~んてことをこうして書いていられるのだから、当時は失われたと、又否定しようと思っていても、心の底にはずっと刻印されていたのです。
そうですよ!...何だかんだ言って、”絶対忘れられることなど出来ない!“、ってのが39年前の私の本心なんだ!...“そやろ!”
ただ、そのことを理解するには、未熟過ぎた、種が芽生えていなかった!...それに尽きます。
私の思いを超えたところで何かが成長している?
そうして、つらい思いをしたから、今があるのでしょう?...
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本当に求めているもの

2022-07-05 10:05:53 | スピリチュアル
私が39年前、初めて神に捉えられて”人生の裏側“に踏み入れた時、ホント~にホントの自分自身に会えた、という実感を持ちました。
それは、ある意味で実にエポックメイキングな驚くべきことであり、又別の面では、それは何ら特殊なことではなく、全く自然な、ごく当たり前のことのように感じられたのでした。
この相反する感じ方というのは、おそらく“思われた自分だけが自分だ!”、と固く思い込んでいるものなら等しく感ずるものでしょう。
その思い込みが強ければ強いほど、ヴェールが剝がされた時の衝撃は大きいものと思われます。
だけど、自分がホントの自分を知らないということは、実にオカシイことでしょう?
私が物心ついてからこれまで、何に惹かれ、何を望んで生きてきたか...そういうことが一度に想起されたのですが、そのことごとくが私自身でありすぎることなのです!...そこに如何なる不自然さも不可思議さもあろうはずなどありません!
私は何もそれは、神の如き超人のような、特別な存在だ、と言っている訳でも何でもないですよ!
とにかく、自分が自分らしく感じて生きる、生かされていることが幸せなことなんです!
何で今までそうして生きてこなかったのか?...本心から思って、感じて生きるだけなのに...
心にも無いようなことを思い、感じようとし、意識しようとする(実際にはそのようには、意識は動かないのであるが...)。...これは多くの場合、他者との、対人、対社会との関わりの中での精神の在り方について言っているのです。対象に合わせようとし、自らを規格化し、まるで別の人格のように変えてしまう...
結果...ストレス、疲労、不十全感...苦しみが積み重ねれ、その苦しみすらマヒして感じられなくなってしまう...
一体何がそうさせるのでしょうか?...精神寄生体?、憑依霊?、サタン?、陰始?...やたらと”ザワザワ”させる、得体の知れない見えない存在のことなど持ち出す必要は無いでしょう。
あなたは、あなた以外の何ものかのセイにしている限り、本当のあなたに目覚めることは無いでしょう。これは極めて自分自身の問題に他ならないのだから...
あなたは本当は何に惹かれ、愛していて、何を求め、望んでいるのか?
それに答えてくれるものは、あなた以外の誰も居ません。
とはいえ現実には、思われた自分からは、その目覚めの道は開かれない、というのも事実でしょう。
だからこそ...自分が最も愛してやまないものにより頼むのです!...そうすると、いつの間にか、思いは超えられ、それまで私に成り済ましていたものは消え去ってゆく...
そも、それがあなたがずっと愛し、求めていたものではないでしょうか?!
あなたにとっての神的なもの、あなたの神...
それは、あなた自身と一つのものではないでしょうか?!
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霊の分かれ道

2022-07-04 09:52:25 | スピリチュアル?
スピリチュアルというと、背後霊とか憑依霊などのことが語られたりするようですが、私はこのブログで、そういうことにはほとんど触れてきませんでした。
理由は、そうした存在が実在するかどうかも分からないことですし、まずその気も起こらないからです。
だってそんな話聞いているだけで、何だか”ざわざわ“と心持ちが落ち着かず、分裂するようになり、重た~い空気に取り巻かれるような感じがしてくるでしょう?
要するに普段よりも思念に囚われたりするのです。
本来のスピリチュアルというのは、同じ霊的であっても、思いを超えた世界の消息を伝えるものなのです!...そおして意識は、”じんじん“とある本源へと自ずから集められてゆく...これをその本源よりの光~真の光に照らされ、導かれると言ってもいいでしょう。
私は、かつて入信していた新宗教で、イヤと言うほど先のような思念霊に関わることに接してきたのです。
そこに伝わる秘儀?を通じて、“霊(何の霊か?)は実在する!”、という証明を立てているように教団側は主張するのですが、確かに“生きてる”人間を通じて、それとは別の人格と思しきものが浮かび上がるような現象は頻繁に起こりはしましたが、何かの暗示(この要素は多分にある)によるものか、真相は分かりゃしないのです!
実在云々に拘るのは、霊ならぬ物質次元のことじゃありませんか?
霊が実在する、それも守護霊とかならいいけど、邪な霊なら尚のこと、思念が囚われるようなことはどうでもいいことではありませんか?!
率直にお聞きします。あなたは憑依霊と聖霊とどちらと関わりたいと思いますか?
色々な意味で、見えないスピリチュアルな道において、どういう世界に導かれるのか?...こういうところに分岐点があると言っても過言ではありません。それはそのごく初期の段階に据えられていたりするのです。
”あなたも霊の世界を体験することが出来る!“、というのが、その教団の謳い文句でしたが、私は先の秘儀について、何度も”施術“側の役はやらされていましたが、二年ばかしの入信期間中、幸い?にも、ただの一度も自ら“霊が浮く”、という現象に見舞われたことがありませんでした。
その数年後、“聖霊体験に与りたい(言い回しが違う!)!”と熱望していた時とは大違いです。
それについて、そこの指導役の人からは、”あなたにはよほど強い、業の深い霊が憑いているようだ“、と言われましたが...
私の奥では、“私はそのような業などには、ひっかかりはしないぞ”、という思いが過っていたのでした。
これは、私の本心なのか、私の中の強固な邪悪な霊の思いなのか、はたまた両方なのか...判然としていないのですが...
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真の神が表れる

2022-07-03 09:43:28 | 
私が日頃書いていることは、学生時代に入っていた新宗教で教えられていたことの裏返しのようなことが多いのです。
そこでは、“今まで世に出ていた神は中途の神で、この教えを通じて、真の、世の元からの神が現れることになったのだから、この教えによらなければ救われないのです”、などと説かれておりました。
ご存じの方も多いでしょうが、この教えは、その教団の母胎となった大本教のそれを踏襲したものであり、それを更に我田引水的、教条的要素を強めたものと言うことが出来るでしょう。
真の神は、その教団を通じてしか知ることが出来ないと言うのです。“んなばかな!”、って私もホントにそんなこと信じてたのか?...でも全的にじゃなかったですよ、だから離れることが出来たのですから...
神はそんな偏狭なものでなく、もっと普遍に根差したものであるはず...それに接したら愛、平安に導かれるはず...そして、それは誰にとって真の神なのだろうか?、私が真の神を知りたければ、私に直に知らされねばならないのではないのか?、という思いが内心には去来していたのです。
誰に教わるということもなく、こういうことは自然に理解されていたのです。
教団の教えなどとっくに過去のものになってしまいましたが、そこに隠れていた内なる神は、世に表に現れたのでしょうか?
いや、神は今までも、これからもけっして世に出ることは無いでしょう。神は、世におもねることはけっして無い!
私が信じていたのは、中途の神、神ならぬ人が、世の中がそう信じ、従っている思念神に過ぎなかったのです。
私の実存は、どうしてもそれでは充たされることがありませんでした。
そこから離れることで本格的に、”神よ、どうか私に表れて下さい!、他の何ものか、夾雑物なんかを通してでなく、私に直に表れて下さい!“、という求め、祈りが始まったのです。
ただ、“真の神が表れる”、というある種のマントラにも似た“根源語”は、昔も今も私の内になり響いています。
私やあなたにとっての真の神は、実存を通してしか表れようがありません。
あなたの救いもそのことから離れては無いでしょう。あなたの神によらなければ!...
信じている神を世に出したい、という思念によって生まれた神の時代はとっくに終わった!
真の神は、あなたがどうこうするということで無しに、神の方から表れようとしている!...
あなたにも感じられる?
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