メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

芸術はすべて心である 知られざる画家 不染鉄の世界@日曜美術館

2018-11-24 13:21:34 | アート&イベント
前回の井上安治と同様、日本画家はほとんど知らないけれども
巨樹の絵に惹かれて予録してみた

東京の原風景 夭逝の絵師 井上安治が描いた明治@日曜美術館



【内容抜粋メモ】


“芸術はすべて心である
 芸術修行とは 心を磨くことである”



不染鉄という一風変わった名前の画家
ほとんど世に知られることなく 多くの美しい絵を残しました


「いちょう」
生まれ育った寺にあった銀杏の木 真っ黒な太い幹
樹齢700年ほどと言われます


自らの体験をもとに独特の幻想の風景を描いた画家・不染鉄
その人となりは、接した人々に忘れがたい印象を残しました




晩年の不染鉄と交流のあった倉石美子さん
倉石さんは、東京の大学生だった20歳の頃、不染鉄に出会いました





(この風景 どこか懐かしいと思った


倉石:
私はやっぱり先生の言う「いい人になりたい」って思ってきましたし
先生は私の人生の恩師だと思っています

私が先生から頂いたはがき
本当にいつも胸がいっぱいになる








卒業後、ふるさとの長野で教師になった倉石さんの元には
不染鉄から数多くの絵葉書が届くようになりました
その数は合わせて100通ほど

その頃、不染鉄は70代
奈良の街の一角にあった住まい兼アトリエのあばら家で、一人気ままに絵を描いていました



不染鉄のアトリエ






倉石さんは、不染鉄のアトリエを初めて訪ねた時のことを今も忘れられません

倉石:
え?ここに住んでらっしゃるの?
入っていくのどうしようと思うぐらい ちょっと粗末な建物でした

先生のいらっしゃるお部屋をパッと開いたんですね
先生が小さく座ってらして、私から見るとすごいお年寄りに見えたんですね

私が先生に「先生お一人で寂しくありませんか?」って言ったら

「僕はね、今までの思い出を絵にしてるんだよ
 思い出はいっぱいあって楽しいよ それを全部絵にしてるんだよ
 だから寂しくなんかないんだよ」


倉石さんへの絵葉書には不染鉄の暮らしぶりが生き生きと書かれています




絵葉書:
あばら家で将棋を楽しんでいる
立派な家もいいけど つぎはぎの家もいいですね 身にしみて美しい 可愛い




テレビが毎日 歌や踊りや お話をしてくれる
こたつは とても暖かい 眠くなるとこのまま横になって寝る

景色や人情を思う
いい人になろうと思う
いい人になると いい夢ばかり出てくる


倉石:
私はこの葉書っていうのは、宛名は私だけれども
実は先生は自分の心に向かって書いてるって感じてたし
いい人になりたいっていう声も、自分に向かって言って、自分で確認している
これは先生が皆自分に宛てたものです




絵葉書:
七十七です いつ死んでも残念でないよう 美しい心の人になります
お月様は神様のようで 美しくて立派だ

本当に真心の人になれば お友達にも なれそうだと思う
なんだかうれしい

歩くとどこまでもついてくる
私の心も こんなに 澄み渡りたい


こうした絵はがきを出していた晩年
不染鉄が描いた銀杏の木です
太く黒々とした幹
そこから無数の枝が伸び、垂れ下がっています

その根元には小さなお地蔵さんがひっそり佇んでいます




枝からはおびただしい葉が降り注いでいます
その一枚一枚が細かな粒となって、
地面に敷き詰められ、キラキラときらめいています

この銀杏こそ、不染鉄の幼い頃の思い出を象徴するものでした



古刹・光円寺






不染鉄は明治24年 東京小石川にある浄土宗の古刹・光円寺の住職の息子として生まれました

ここには樹齢700年ほどと言われるイチョウの木があります
今も太い幹が残り、不染鉄がいた当時の面影をしのばせます


光円寺住職 大正大学名誉教授・佐藤さん:
大正年間に向こう側の枝が落ちまして
ここは昭和20年の空襲の時に焼けまして
中がもう空洞なんですけれども、銀杏の木は大変強いので
このように枝が出て葉っぱが出ている

ここに立ってますとね 金色の雨が降ってくるぐらい
まさに黄金のシャワーを浴びているようですね


「生い立ちの記1」
不染鉄は幼い頃の思い出を絵に描き、言葉を添えています



絵葉書:
秋になるとまっ黄色な落ち葉が少し 風の日なぞは 雨の降るようです
お守りの背に子守歌を聴きながら眠りました

小さい声で その子守歌を歌いますと 胸がいっぱいになります
わがままな私は 母を始め 皆に心配をかけたと申します


不染鉄が絵に描き込んだお地蔵さんが今も大事に祀られています




住職:
こちらが不染鉄さんが描かれた銀杏の木の前に立ってるものと
全く同じものを移してお祀りしております


お寺に生まれ育った不染鉄
銀杏の思い出とともに、仏の教えは不染鉄の心の奥底に根を下ろします



少年の頃、素行が悪く、中学校を放校処分




得意だった絵を活かそうと日本美術院の研究会員となり、画家を目指します
絵葉書に当時の心境を記しています




絵葉書:
お金もなくなり、自信もなく
人の絵を見て とてもあんなには描けない

夜なぞ一人になると 心細くなる
とても一人前の画家になれる気がしない
寂しい 心細い 泣きそうになる



大正4年頃 20代半ばの不染鉄は、突然妻を連れて伊豆大島へ
身を持ち崩した末の逃避行のような旅でした




伊豆大島の北部にある岡田
不染鉄はここで3年にわたり暮らすことになります
そしてその思い出を多くの絵に残しました


「思い出の岡田村」








絵葉書:
見たこともない大島へ行くことになった
途中、夜中頃から海が荒れ 雨さえ降り出した

未明に岡田村に着いた
良いところを選んで住む金はなかった

どんなところでも安心して 二人いるところさえあれば それで 何よりだった

潮の香り 澄んだ空気 青い海 砂の道 磯の波
二人の幸せには 十分だった
貧しい家を借りて 磯に打ち上げられた木を拾って 飯を炊いた



岡田に住む時得孝良さん




母親が不染鉄を知っていたこともあって、伊豆大島での不染鉄の足跡を調べました

不染鉄が住んでいたのは神社に仕える祢宜(ねぎ)の家のあるところだったと言います
祠だけが今も残っています






時得:
これは不染鉄さんが来た当時の
まだまだ藁の屋根で、母親に聞いたら「不染さん、不染さん」とみんな親しんで呼んでた
「よく覚えてる」って言ってましたんでね
若い不染さんがこの地域に飛び込んでいたっていう証拠ですね



不染鉄は岡田にいた間 漁をしながら暮らした

「海村」




集落のすぐ前は海
小舟が浮かぶその海には魚も描かれています(カメさんも!








絵葉書:
毎日釣りや網に入ったオオザメを釣って売ったことがあった
冬の海の荒れる日は 暖かい日向にうつらうつらして 何事もなく暮らした

夕方は東京を思い 絵描きを思い 寂しくなることもあったが
気楽な 幸せな生活に すぐ消えていった


岡田の人たちと一緒に漁に出て暮らした3年間
不染鉄にとって伊豆大島は、生涯に何度も立ち返る故郷のような場所になりました



大正7年 伊豆大島を離れ、京都市立絵画専門学校に入学
26歳にして本格的な画家の修行を始めた




10歳近く年の若い学生たちに混じって、絵の勉強に励んだ不染鉄
ここで生涯の友人と出会います 後に名高い日本画家となった上村松篁です




上村松篁と共作した絵が残っています




寒々とした冬木立を不染鉄が描き、
真っ白な愛らしいシラサギを上村松篁が描きました



上村松篁の息子で日本画家の上村淳之さん




上村:
まだ子どもでしたが、家族ぐるみの付き合いだった不染鉄のことはよく覚えています
彼が家に来て一緒にご飯食べてても、決して気になる人ではない

「不染さんおいでやす」みたいなことで「ほな一緒にご飯食べよう」「はい、いただきましょう」
とかいう風な、そんな雰囲気でね 今考えてみればおかしな存在ですよ

全然関係のない人が突然やってきて、またどっか行ってしまう
フラッと出て行って、フラッと帰ってきて
「あんた渡り鳥や」と言ってゲラゲラ笑ったことがあったけれど


上村松篁は晩年、不染鉄のことをこう書き記しました




「不染さんは大層聡明で正義感が強い人でもあった
 世の中の表裏を知っているので、人を見抜く眼力があった
 唯一の欠点は怠け者であるということである
 不染さんは私の生涯に最も大きな影響を与えた手がたい親友であった」



不染鉄の卒業制作

「冬」




人気のない静かな農村風景
セピア調の色彩が昔懐かしい雰囲気を醸し出しています

不染鉄はこの学校を首席で卒業します


絵葉書:
中学以来 不良の私 卒業の時は一番で 答辞を読む
父よ母よ 心配をかけた皆様よ
本当に一番だ 胸がいっぱいになる



大正12年 32歳の時 再び伊豆大島を訪れる
その時、伊豆半島や富士山が一望できる野田浜でスケッチをしました

時得:
そこの伊豆半島の辺りとか、伊東の街並みが見えるくらいのところに富士が高くそびえている
この空間を非常に気に入ったということで、
何度かここに足を運んだということを聞いてますけれども


「伊豆風景」




上村がこの浜で描いた水彩画に、こんな文章が添えられています

「温かい冬の日向のもと はるかに富士山に雪が降っているのに寒い国 冬を思い出す
 静かな田舎の 小さな停車場 2、3日前に乗った汽車は
 今頃もあの道を走っているかもしれない」





「山海図絵(伊豆の追憶)」



水彩画の2年後に書かれた大作です(急に超大作!
雪をかぶった富士山を中心にして周りの景色を俯瞰して眺めています

富士山の向こう側には、雪が積もった小高い山々が並び、いくつもの集落が見えます
船が係留された港はひっそりと静まり返っています

富士山のこちら側の集落
冬枯れの木々で覆われた丘の向こうに汽車が走っています




近寄ってみると停車場があり、車の運転手や乗客まで見えます
鳥のように上から眺めた景色でありながら、
虫の目のように細部まで描き込まれているのです

海には様々な船が浮かび、漁師の姿も見えます
さらに海の中に目を凝らすと、たくさんの魚が泳いでいます

一見現実の風景かとみまがいますが、
この絵は不染鉄の心の中にある思い出の風景なのです



昭和2年 36歳 奈良 西ノ京に暮らす
既に学生の頃から入選を繰り返してきた不染鉄
古い都で画家としての暮らしが始まりました

その頃書かれた絵巻物 「思出之記(田園)」




日本の伝統にならい、不染鉄は絵と文章が一体化した独特な作品を作ります

文章:
この辺り、昔 千何百年か前に都のあったところだそうです
今は何事もなく 稲が実り ススキがそよいでいます






薬師寺の塔の近くに見えます 小さい家です
私どもと鶏10羽ほど

夏は朝顔や鳳仙花が 数知れず 美しく咲きました
今はみんな枯れて わずかのケイトウとコスモスだけになりました

やがて霜柱のたつ 冬が来ることでしょう
裏の柿が赤く 夕方から虫の声が家を取り巻きます

薬師寺 1000年ほど前のお寺だそうです
不思議な世にも美しい仏様が御堂の薄暗い中に細目を開けて立っています



薬師寺東塔
西ノ京の風景の中でも、不染鉄がとりわけ気に入っていたのは薬師寺東塔でした
創建の時から1300年 悠久の時を重ねてきました
※現在、東塔は解体修理中 この映像は平成10年撮影

これは不染鉄が晩年になってから描いた絵です


「薬師寺東塔ノ図」




中央に薬師寺 東塔がすっくと建っています
三重塔ですが「裳階(もこし)」と呼ばれる小さい屋根があるため6重の塔のように見えます
周りには所々に集落があり、農作業に勤しむ人々の姿が小さくシルエットで描きこまれています





昭和19年 戦争末期 52歳の不染鉄は東京に住んでいた
空襲に備えた疎開が始まっていました






不染鉄が戦争の時代をどう過ごしたのかほとんど分かっていませんが
疎開に直面したと思われる資料が残されています



「手控帖」




疎開にあたって書き留めたと思われる「手控帖」です
その最初に、住んでいた家のスケッチを書き、傍らにこう記しています




「手控帖」より

昭和19年3月
国家非常 帝都疎開となりました
住み慣れた家を後にして 思い思いに田舎へ参ります


手控帖には山水画の模写を始め、墨や硯などが描かれています
戦争中、画材が乏しくなる中、不染鉄が水墨画に打ち込んでいたことが伺えます


不染鉄が戦争末期に見た光景と思われる絵葉書が残っています








巨大な船に出征兵士と思しき人々がデッキに立っています
見送る人々の日の丸の小旗とともに文章が記されています

「終戦少し前のことである
 日本は軍艦、大きな船は もうない
 南の島々には飢え死に寸前の兵隊がたくさんいる

 未教育の鉄砲を持つことも知らない
 農業の人、商人、サラリーマン にわかに徴用

 芝浦から出帆 手を振る
 勇ましいような、泣くような楽隊

 船も海も初めての人もあるだろう
 誰も 帰ってこなかったと申します



「廃船」






その後、不染鉄は絵葉書の風景に似た巨大な船の絵を描きました
小さな家家が建ち並ぶその背後に、圧倒的に横たわる船
しかし、絵葉書とは違い、兵士たちの姿は見当たりません

廃船となってすでに長い年月が経つのでしょう
船は赤錆に覆われています

枯れ草が生い茂ったような空き地の手前 粗末な家なみから 火が燃え上がっています
暗く淀んだような重苦しいこの廃船は、帰ってこなかった戦争の犠牲者たちの象徴なのでしょうか




戦後になっても不染鉄の伊豆大島への郷愁は止むことがありませんでした
戦争中、水墨画を多く手掛けるようになった不染鉄
かつて過ごした岡田村にまつわる水墨画をいくつも残しています


「南海図」




南海のうねる海 島近くに一隻の帆掛け船が浮かんでいます
人を寄せ付けないような切り立った断崖が連なっています

岡田の集落の記憶に、古来、山水画で描かれてきた理想の別天地
「桃源郷」のイメージを重ね合わせています




不染鉄ならではの水墨山水画 とりわけ目を引くのが海です

伊豆大島で慣れ親しんだ海
絶えず揺れ動く波のうねりが墨の濃淡を駆使した独特の技法で描き込まれています

岡田での3年間、不染鉄は海に出て漁をして暮らしました
魚が大好きだった不染鉄 自ら魚になってしまった絵葉書もあります






「私はお魚か
 深海に住む魚のように 静かに自分の心を見つめて

 真実とは何だ 幸せとは何だ
 人生とは何だ いろいろよく考えかみしめよう


 そしてさ 時々この世へ浮かび上がり
 人情の風にあたり ごちそうを食べ

 そしてまた深い深い海底に沈んで
 また清寂の世界が いいなあ」



「海」
魚への思いが募った不染鉄が、ついにこんな幻想的な絵を描きます






青い海の中に茅葺き屋根の家があります
周りには大小様々な魚たちが悠然と泳いでいます




家の中には囲炉裏があり、夫婦らしき人の姿も見えます
海の中で魚と一緒に暮らす、まるで竜宮城のようです




大きな魚のレリーフが飾られていた晩年の家
魚をはじめとする生きとし生けるものへの愛

寺に生まれ、僧侶の資格も持っていたという不染鉄
仏教的な思想が、その根のところにあったようです


「落葉浄土」




最晩年の絵
生まれた寺にあったような立派な銀杏がそびえ立ち、黄金色の葉を散らしています
静かに佇むのはお堂 門のところには、仁王像が立ちはだかっています




堂内には仏像が賑やかに立ち並んでいます
そしてよく見ると、母屋では父と子でしょうか 語り合う姿が見られます








この絵は不染鉄の極楽浄土のイメージなのかもしれません



「春風秋雨」






不染鉄は、墓地の片隅にある無縁仏にも心を寄せました

お墓は寂しいと言うけど そうではないよ
 色々な人がたくさんいて とても賑やかだよ
 男も女も 若い人 年寄り 赤ちゃん どんな人もいるね

 やがて夏が来る 夕立が降って みんな 濡れるだろう いいねえ
 秋は落ち葉が散ってくるだろう
 冬は 粉雪が降ってくるだろう 楽しいね

 この世にいるときは 優しい美しい人もいたろうが 見たかったなあ
 がめつい奴もいたろう 実に色々だったろう

 今はみんな仲良く 喧嘩もしない このほうがいいね
 幸せとは こういうのか
 あーなるほどそうか それだから極楽というのか


絵の傍にはこんな言葉も記されています




「有名になれず こんな画を描くようになっちゃった
 だけど いいよねえ」



80歳を超えてからも、奈良のあばら家で絵を描き続けた不染鉄
昭和51年 84歳で亡くなりました



【資料提供】
木下美術館
奈良県立美術館
京都国立近代美術館
愛知県美術館
東京ステーションギャラリー
京都市立芸術大学芸術資料館
星野画廊
松伯美術館
ほか



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2 コメント

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Unknown (ありがとうございます)
2024-03-06 10:33:57
先日奈良の展示会で感動したばかりです。
不染鉄氏の歩みをこのようにまとめてくださり
ありがとうございます。
大変わかりやすかったです。 _/l\_
返信する
コメントありがとうございます (monty)
2024-03-06 15:16:30
間近で観る機会があったこと、羨ましいです
こうした番組が気楽にアーカイヴとして観られるようになればいいですよね
また遊びに来てくださいませ♪
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