書き溜めてて、忙しくてアップ出来てなかったブログを慌てて一気にアップしています
『アラスカ 光と風』星野道夫/著で読んだ一文。
p.228
ある種の人間にとって都合のいい価値基準でほかの種が脅かされ、あるいは全体が画一化されてゆく。
ぼくたちの生活の中で、ひとつの大切な環境というのは、人間をとりまく生物の多様性ということだろう。
それはけっして生物の世界にとどまらず、人間社会の中における文化の多様性にもあてはめることができるのではないだろうか。
ぼくたちの考え方を刺激し、思考に豊かさと選択の機会をあたえ、ときにはぼくたちの中に存在するいろいろな問題を解決するための方向をあたえてくれるかもしれない。
ぼくたちが健康を維持してゆくために、いろいろな食べ物が必要なように、同じことが精神の健康にも必要なのではないだろうか。
画一性、それはぼくたちの思考を鈍らせ、次第に精神の荒廃へと導いていくものかもしれない。
生物の多様性の存在は、何よりもぼくたち自身をほっとさせる。
そうだ!「パターン」て日記に書いた中で、わたしはこのことを言いたかったんだ!と目から鱗が落ちた思いがした。
マスコミは部数を上げる(視聴率を上げる)ために、一人でも多くの一般大衆にアピールすることが求められる。
だから、最新、トレンドを追っているようでいて、意外と逆に根底は保守的なんだ。
ブランド志向、四季の行事、冠婚葬祭、なるたけ広い層に受け入れられやすい形を強調するから、
それを受け取る側は操作されていることに気づかないまま、画一化されてゆく。
または、逆にある少数の変わった趣向がいかにも流行っているように演出されたりもする。
今、仕事でやっているカタログなど、まさにその典型的な例で、それに馴染めないんだな
餅を売るための正月、豆を売るための節分、すべての行事が消費文化の言い訳程度に成り下がってしまった。
「旨味」だの「コク」だのと書いてみても、インスタントやファストフードで味覚が麻痺した現代人には本当の見分けはつかないんじゃないのか?
「チョコレートならゴディバ」とか「肉なら松坂牛」みたいなフレーズがあまりにも横行して、
個々の自由な価値観、生き方まで左右するようになってしまった。
そこで働く編集者もまた、そうゆう企画を立てて、毎日キャッチを考えているから、決まった型にハマってしまう。
今の仕事場で完全にアウェーな気がしているのは、それも大きな理由かも。
そもそもマスコミに限らず、日常生活って産まれた時から、そんな意味もない型だらけだもんな。
小さいうちからお受験だとか、学校では個性を殺して集団にまとまって「将来のため」と勉強し、
「大企業は安定だ」と言われて死ぬまで働き、「公務員と結婚しろ」などと周りからプレッシャーをかけられる/苦笑
さらにやっかいなのは、大衆側は少数派に対して優越感を持ち、時には同情的ですらあること。
「どうして、周りと同じ大きな流れに乗らないのか?可哀相にお前(異端者)は間違っている。こっちへ来なさい」と。
とはゆっても、わたし自身は協調性のないヒトは苦手で、ドロップアウトした生き方が出来るタイプでもない。
しかも、ドロップアウト的な生き方にもパターンがあって、そんな型が見えるたびにこんな複雑で憂鬱な思いになる。
思っていることと、実際の行動が真逆なために、常に個人が引き裂かれてしまって、これはストレスのほかの何ものでもない。
とゆうわけで、日記に以前書いた通り「パターンにはまっている人は、周囲との摩擦が少なくてラクそうだな」ってセリフにつながるてわけ。
「誕生日プレゼントは、やっぱりアクセサリーか、バッグが欲しいよねえ♪」などの会話にも、
「だよねえ!」て、なんの揺らぎもなく言えるなら、こんなまどろっこしいことを長々と、何千回、何万回もループしなくてもいいもんね。
『アラスカ 光と風』星野道夫/著で読んだ一文。
p.228
ある種の人間にとって都合のいい価値基準でほかの種が脅かされ、あるいは全体が画一化されてゆく。
ぼくたちの生活の中で、ひとつの大切な環境というのは、人間をとりまく生物の多様性ということだろう。
それはけっして生物の世界にとどまらず、人間社会の中における文化の多様性にもあてはめることができるのではないだろうか。
ぼくたちの考え方を刺激し、思考に豊かさと選択の機会をあたえ、ときにはぼくたちの中に存在するいろいろな問題を解決するための方向をあたえてくれるかもしれない。
ぼくたちが健康を維持してゆくために、いろいろな食べ物が必要なように、同じことが精神の健康にも必要なのではないだろうか。
画一性、それはぼくたちの思考を鈍らせ、次第に精神の荒廃へと導いていくものかもしれない。
生物の多様性の存在は、何よりもぼくたち自身をほっとさせる。
そうだ!「パターン」て日記に書いた中で、わたしはこのことを言いたかったんだ!と目から鱗が落ちた思いがした。
マスコミは部数を上げる(視聴率を上げる)ために、一人でも多くの一般大衆にアピールすることが求められる。
だから、最新、トレンドを追っているようでいて、意外と逆に根底は保守的なんだ。
ブランド志向、四季の行事、冠婚葬祭、なるたけ広い層に受け入れられやすい形を強調するから、
それを受け取る側は操作されていることに気づかないまま、画一化されてゆく。
または、逆にある少数の変わった趣向がいかにも流行っているように演出されたりもする。
今、仕事でやっているカタログなど、まさにその典型的な例で、それに馴染めないんだな
餅を売るための正月、豆を売るための節分、すべての行事が消費文化の言い訳程度に成り下がってしまった。
「旨味」だの「コク」だのと書いてみても、インスタントやファストフードで味覚が麻痺した現代人には本当の見分けはつかないんじゃないのか?
「チョコレートならゴディバ」とか「肉なら松坂牛」みたいなフレーズがあまりにも横行して、
個々の自由な価値観、生き方まで左右するようになってしまった。
そこで働く編集者もまた、そうゆう企画を立てて、毎日キャッチを考えているから、決まった型にハマってしまう。
今の仕事場で完全にアウェーな気がしているのは、それも大きな理由かも。
そもそもマスコミに限らず、日常生活って産まれた時から、そんな意味もない型だらけだもんな。
小さいうちからお受験だとか、学校では個性を殺して集団にまとまって「将来のため」と勉強し、
「大企業は安定だ」と言われて死ぬまで働き、「公務員と結婚しろ」などと周りからプレッシャーをかけられる/苦笑
さらにやっかいなのは、大衆側は少数派に対して優越感を持ち、時には同情的ですらあること。
「どうして、周りと同じ大きな流れに乗らないのか?可哀相にお前(異端者)は間違っている。こっちへ来なさい」と。
とはゆっても、わたし自身は協調性のないヒトは苦手で、ドロップアウトした生き方が出来るタイプでもない。
しかも、ドロップアウト的な生き方にもパターンがあって、そんな型が見えるたびにこんな複雑で憂鬱な思いになる。
思っていることと、実際の行動が真逆なために、常に個人が引き裂かれてしまって、これはストレスのほかの何ものでもない。
とゆうわけで、日記に以前書いた通り「パターンにはまっている人は、周囲との摩擦が少なくてラクそうだな」ってセリフにつながるてわけ。
「誕生日プレゼントは、やっぱりアクセサリーか、バッグが欲しいよねえ♪」などの会話にも、
「だよねえ!」て、なんの揺らぎもなく言えるなら、こんなまどろっこしいことを長々と、何千回、何万回もループしなくてもいいもんね。