原題:FROM FEAR TO VICTORY
田口俊樹/訳
※テニス名試合まとめ
・モニカ・セレシュ(ウィキ参照
錦織圭、大坂なおみの活躍により、またテニス観戦に夢中になり、ブログを書いていたら、
私の一番大好きなモニカが本を書いていることを知って図書館で借りた
今では当然のごとく、選手と観客席の間は開きがあり
その間には屈強な警備員が何人も立っているが
そうなったのも、彼女の前代未聞の事件がきっかけではないだろうか
私がテニスファンになった時に活躍していたナブラチロワ、クリス・エバートの時代からグラフ一強時代の転換期
そこに突然現れた天才少女がモニカだった
両手打ちのパワフルなラリー、試合から離れた時の少女の顔のあどけなさ
なにより、私が彼女に惹かれた理由はその精神力の強さ
テニスはコートに入ればたった一人の戦い
圧倒的な強さで勝つ時も、ビハインドの時も
自分を信じきれる姿が羨ましかった
これまで観た試合の中でもっとも素晴らしかったのは
グラフ×モニカの全仏オープン決勝戦
あれほどの死闘は、これからもないのではないかと思うほど
そんな絶頂期に起きた悲劇
当時のテレビのテニス放送は、4大大会の準決勝、決勝戦が深夜に放送されるかされないかくらいで
この大きな事件も新聞の小さな記事で知ったと思う
その後、いつ復活するか待ちに待って
全豪オープンで復活優勝した時も本当に感動した
今回、その事件のことを本人が語るという本書は
最初の章からショッキングで胸が悪くなる
あの小さな記事からは想像も出来ない恐怖との葛藤の日々が克明に語られている
その合間に、テニスを始めた頃の家族との絆の話では癒され
プロ転向後の快進撃では、実際の試合が目に浮かぶようだ
インターネットの時代になり、少女が輝くばかりの美しい女性になり
明るく、ユーモア、思いやり、賢明さを失わずにいる様子を見ると
どうあの悪夢を乗り越えたのかと驚き、安堵する
本書に書かれたプロテニス選手を巡る環境は、今も変わらない部分もあるし
どのアスリートにも当てはまるし、私たちにとっても
大切な言葉、経験がたくさん詰まっている
また内容メモが長くなること必至/謝
【内容抜粋メモ】
「謝辞」
家族の愛と支えがなかったら、テニスをすることは言うに及ばず
今回の困難を乗り越えるに際し、平衡感覚をなくしていただろう
家族は私の光だ
友人、ドクターらへの謝辞・・・
私を応援してくれたファンの皆さんにただありがとうのひと言を言うことしかできない
ありがとう
ナンシー・アン・リチャードソンの謝辞
(これは誰だろう?
■PART1 悪夢のはじまり
「あのナイフが私の背中に突き刺さり、引き抜かれた 私は刺されたのだ」

恐怖の幕開け
人生がおとぎ話のようなら 子どもの頃、よくそう思ったものだ
<1993年>
今でも思い出す あの頃は何もかもこれ以上考えられないほど上手くいっていた
全仏オープンの前哨戦 1993年のドイツのハンブルクでのシチズンカップにエントリー
家族全員がいて、兄のゾルタンがヒッティングパートナーとして初めて同行した
1つ心配だったのは風邪をひき練習が不十分で弱気になっていた
以前、ドイツに来た時、いきなり近づいてきた男に裁判所の召喚状を突きつけられたことがあり
トーナメントディレクターにボディガードを頼んだが
彼らは毎回遅刻し、その水曜日は4人のうちようやく1人が寝坊して現れた
その夜の試合に勝ち、車でホテルに戻る途中、運転手が誰かに尾けられていると言い
まこうとしたが諦めた そんなことは生まれて初めてで不安になった
サインが欲しいなら、私は決して拒まないのに
<4月29日>
ボディガードは1人だけ しかも観客席には見物者がいた
練習を見るためにこんなに早起きをするとは奇妙な気がした
そもそも彼らはどうコートに入ったのか 私は集中出来なかった
通路脇にアーサー・アッシュのロゴ入り野球帽をかぶった男が目に入り
アーサーがドイツでもまだ忘れられていないことが嬉しくて微笑むと、彼も微笑み返した
どこかで見覚えがある ゆうべホテルのロビーで見かけた男だ 偶然か
後で分かったが、兄と練習していた時も男がいたのを父が見て声をかけていた
その夜、父が急に体調を壊した
翌日はさらに悪化し、マグダレナ・マリーヴァとの準々決勝の観戦も出来ないほどだった
父の世話で母もホテルに残った
兄は途中から観に行くと言った
試合は17時から 私は6-4で第1セットを取ったが
第2セットは0-3 日没サスペンデッドは避けなければ
午前に続きを戦い、勝てば、午後に準決勝がある
4-3まで逆転し、60秒のブレイクでイスに座った
そろそろ立ち上がろうとした時、背中に信じられないほどの激痛が走った
激しく熱を発し、人間とは思えないうなり声のような悲鳴をあげたが
自分の声とも分からない
振り返ると、野球帽をかぶった男が血まみれのナイフを頭上に掲げ
さらに振り下ろそうとしていた ロビーで見た男だ
背後から警備員が男を押さえ込んだ 私は顔をそむけた
一人の男性が客席から飛び降りて、私の肩を支えてくれた
めまいがして、傷口に触れた手は血でべっとり濡れていた
兄が全速力で走って来るのが見え、もう大丈夫と思った
今思えば、要するに、その時の警備は誰でもコートに入れるくらい杜撰だったということだ
酸素吸入器が欲しいと伝えたいが、息が吸えずに言葉が出ない
私はストレッチャーに乗せられ、コートから運び出された
耳の中で「刺された」という言葉がこだましていた
ナイフまでこの目で見てしまった
救急治療課に担ぎ込まれると、両親は恐怖のあまりなりふり構わず泣いていた
血まみれのナイフ
傷の範囲を正確に調べるためMRIにかける必要があると医師が言った
(いや、痛みを早く止めてくれ!
「あんなところに入れないで! とても痛いのよ」 私はすすり泣いた
それでも看護婦たちは私をシリンダーに押し込んだ
40分が4週間にも感じた
肩甲骨の脇の柔組織と筋肉損傷 傷の深さは1インチ半
脊髄からほんの数ミリで「あと数ミリで、体が麻痺していたかもしれません」
あの男が帰ってきたらどうしよう
病室の前には警備員がつけられたが、家族にいて欲しいと頼んだ
最後に気持ちを落ち着かせ、痛みを和らげるクスリが処方され
急激に眠りに落ちたが、長く続かなかった
数分おきに病室のドアをノックする音がして
マスコミは私のコメントを求めたが話すことなど何もなかった
婦人警官が来て矢継ぎ早に質問した
兄が「まだ話が出来る状態じゃありません 明日にしてもらえませんか」と押しやり
彼女は不承不承出て行った
兄「犯人は拘束されたそうだ」
私は暴漢がこの病室を見つけてしまうのではないかという不安が消えなかった
不安のためまた泣いた そんなことが、その後、2年続いた
<土曜の朝>
IMG(国際マネージメント・グループ)の私のマネージャー
ステファニー・トールスンが身重の一番大事な時期に駆けつけてくれた
私がユーゴスラビアのジュニアプレイヤーだった頃からの付き合いで家族同然だった
病院はマスコミで溢れかえり、混乱を収拾するために記者会見に応じた
しかし、病院がマスコミに発表した私の傷の程度は、ほんのかすり傷程度と伝えられた
昨日まで頭にあったのは、史上初の全豪オープン4連覇達成
勝機の可能性は充分にあった
私は世界ランキングNO.1だった それが何もかも変わってしまった
ランキング2位のシュティフィ・グラフが見舞いに来てくれてとても嬉しかった
2人のアスリートが互いに見つめあいながら泣いているのは奇妙な光景だっただろう
シュティフィ:
私の国でこんなことが起きてしまったのが残念でならない
あなたならきっと乗り越えられる
そろそろ行かなきゃ もうすぐ準決勝が始まるのよ 電話するわ
私は犯人がシュティフィをもう一度NO.1にしようとしてたことをまだ知らなかった
まだ大会は続いているのか? 私はプレー出来ないのに、どうして?
大会続行に抗議して、数百人ものスポーツファンが集まっているのが病院の窓から見えた
大会組織側は、私の母に電話して、彼らをなだめて欲しいと頼んだ
「即刻試合を中止しろ」というプラカードを掲げた群衆の前に心痛で疲れきった母が立った
優しく抱きしめられ、花など手渡されたお蔭で話す勇気が湧いたと後で話した
シチズンカップを続けるという大会組織委員会の決定は、世界中から強い非難を浴びた
私は選手たちが団結して大会を拒否すればいいと期待していたが
選手たちは、プロスポーツ選手としてどうすべきかを第一に考えた
私なら即座に拒否しただろう
またノックの音がして、ベッドから出て、ドアの陰に隠れようとした時
ビニール袋につまずき、中から野球帽が出て来た どうしてこんなところに?
昨夜の婦人警官が入ってきて
「あなたに証拠品を見てもらわなくてはなりません」
私の血まみれのテニスシャツを取り出すと
乾いた血とすえた汗の臭いがして頭が朦朧となった
「これはあなたのシャツですか?」
「これは暴漢が使ったナイフですか?」
刃渡り9インチほどの骨取り用小型包丁には乾いた血がこびりついていた
知らないうちに「はい」と答えたのか、警官は部屋を出た
私は嘔吐した 胃液が出るまで、何度も胃は痙攣をくり返した
それでも、血の臭い、ナイフは頭から消えなかった
大会も続行した まるでこんなことは大したことではなく
私などはじめから存在しなかったかのように
準決勝後、シュティフィは会見で
「私は怖くありません テニス選手はステージに立っているようなもので
観客にもっと近づく必要があるのです 恐怖を抱いてはやっていられません」
私は彼女の言葉が理解できなかった
その並外れた精神力に畏怖の念を覚えた
シュティフィは決勝で、ストレートでサンチェスに敗れた
グラフのストーカー
件名:モニカ・セレシュ謀殺未遂容疑
容疑者:ギュンター・パルヘ
「供述」
自分の罪に関して必ずしも警察に話す義務はないと説明されましたが
私は話したいと思います 弁護士は必要ない
私はシュティフィ・グラフの熱烈なファンです
彼女がプロデビューして以来ずっと活躍を見守ってきました
東西の国境がなくなってからは、誕生日に毎年必ずお金を送りました
2年前は100マルク 今年は300マルク
匿名で「チューリンゲンのファンより」と書き添えました
1990年、ベルリンのジャーマンオープンで彼女がセレシュに敗れた時は耐えられなかった
自殺を考えたほどです
全仏オープンでセレシュが優勝してまた打ちひしがれました
その頃には私の心は決まっていました
セレシュが二度と、あるいはしばらくの間はテニスが出来ないように怪我をさせようと
彼女を殺すつもりは全くありませんでした
私はアメリカとイスラエルを熱心に信奉しています
しかしシュティフィ・グラフはそれよりさらに上にいます
彼女は最高の女性なのです
私はずっと計画を練りました
今日、観客席の最前列を歩いてみて、セレシュの後ろに行くのは簡単だと分かりました
試合中のブレイクは約1分ですから、私はセレシュの後ろに立ち
ナイフをつかみ、刺す時は全力を込めはしませんでした
私が彼女を刺したのは、この3年間への罰です
たぶん私は15年の懲役を受けると思いますが
私が出る頃はグラフも現役を退いていることでしょう
私は目的が果たせたことに満足していました
これは彼女の両親に対する警告でもありました
また観客のためでもあったのです
なのでブタと罵られてとても混乱しています
失ったランキング
<事件のわずか4日後>
WTA(女子テニス選手会)は、私のランキングを留保させるかについて
ツアー中の25位以内の選手のうち17名を集めて投票を求め
ほぼ満場一致で留保を認めないと決まった
次の全仏オープンでグラフがNO.1に戻ることを意味していて、私は愕然とした
トールスン:
モニカにとって一番ショックなのはランキングを失うことより、その失い方です
あの男は彼女をNO.1から引きずりおろすために怪我をさせた
その狂気じみた計画は達成されました
ランキングはナイフではなく、コート上の勝利で勝ち取られるものです
私はこれまで対戦相手にずっと敬意を払ってきたが、それが一方的なものだと分かった
グラフまで同意したことにも失望を禁じえなかった
グラフ:
ランキングのことは一切考えていません
犯人が私のファンの一人だと分かっていながら、そんなことを考えるのは無理です
私がなにより驚いたのは、マスコミは投票について取り上げなかったことだ
私がいなくなれば、ほかの選手にとって、とくにトップ5の道はかなり楽になるだろう
ランキングはそれ自体何も意味しない
だが、企業との契約、スポンサーからのボーナスがかかっている
弁護士の話では、事件後の1年、私は推定1000万ドルの収入をふいにした
私と交わされるはずの契約はほかのプレイヤーにいったこともあるだろう
事件後、100万ドル単位で収入が増えた選手もいたという
私を助けて
パルヘの供述は馬鹿馬鹿しいものだ
医師の診断によれば、ナイフがそれほど深く刺さらなかった理由は
私がちょうどその時、顔を拭くため前かがみになったから
彼が私を殺せなかった理由は、警備員に取り押さえられたから
病院で迎えた3日目「家に帰りたい」と泣いた
私は医療用個人専用機まで救急車で運ばれた
フライト時間は長く、燃料補給とトイレ休憩のため2度着陸し
約20時間かけてようやくデンヴァーに着いた
また救急車に乗り、ヴェイルのクリニックのことだけ考えた
1991年、脛を傷めた時も世話になったドクターの
ステッドマン、ホーキンズも大好きな医師で
肩が専門の整形外科医として、アメリカの最高権威で信頼できる
2人はコロラドを離れていたが、予定を変えて戻ってくれた
この時はまだ、これまで信じてきたことがまた1つ
「司法制度」に対する信頼が打ち砕かれるとは思いもよらなかった
多くの有名選手の治療をした理学療法の権威ジョン・アトキンズに迎えられ
同じく権威のトッパー・ハガーマンも立ち寄ってくれて涙が止まらなかった
意味不明のことをまくしたてるのを抑えられず、その夜は一睡も出来なかった
「眠ったら彼がやってくる 私を殺しにやってくる ゾルタン、彼を止めて」
兄がいなかったらどう生き延びれたか想像もつかない
ホーキンズは、少なくとも1ヶ月のリハビリをやってからでないと
プレーにどう影響するかは分からないと言った
数週間は肩を固定し、経過をみることになった
トールスン:
記者会見を開かないと、また1991の二の舞になるかもしれない
憶測だけでデタラメ記事を書かれてしまう
1991 脛の炎症でウィンブルドンを2回戦で棄権した時
記者会見を開かず、タブロイド紙に根も葉もないことを書かれたことを繰り返したくなかった
翌朝、ドクターと、IMG責任者ボブ・ケインとともに会見に臨んだ
ヴェイルに数百人の記者が集まり、生放送のため、恐怖を覚えたが
まだショックで茫然としていて内容についてはよく覚えていない
ただ、いまだ忘れられない質問は
「シャツを脱いで傷痕を見せてくれないか」と言い
ボブは不愉快極まりない状況から救ってくれた
父はまだ本調子ではなく、ステッドマンは内科医の診察をすすめた
父は車内で「別の医師にも診てもらったほうがいいと言われただけだ」とだけ言った
デンヴァーで、父は「前立腺がん」と診断された
私の祖国、旧ユーゴスラビアではがんはそのまま死を意味する
どうしてこんな試練に遭わねばならないのか
医師:
比較的発見が早いのが幸いだが、すぐにも手術が必要です
命に関わる可能性もあるので、ゆっくり考えてはいられません
IMGの会長マーク・マコーマックに助言を求めると
「セカンド・オピニオンを求めるべきだ」と言われた
翌週、ミネソタ州のクリニックから父が電話をかけてきて
「やはり手術を受けなくてはならないよ」
私たちはロチェスターに向かった
父とはいつも強くて健康な存在だと思っていた
だから19歳にして父の病気が奇妙に思われ、病室に入るなり泣き出してしまった
父:私は死にはしない がんは私の友だちなのだから
手術は成功したが、転移の有無は1年間経過をみて
その間、化学療法を受けなくてはならないと言われた
私は母とヴェイルに戻り、自らの治療を続けた
次第に自分の殻にこもるようになった
可能性も未来もどこにも見えなかった
■PART2 貧しさの中で
「私たちはもともと裕福な家庭ではなかったが、お金を目標にしたことは一度もない
人生でほんとうに大切なものは、お金では買えない」

ビヨン・ボルグの試合をテレビで見て、父にテニスがしたいと最初に言ったのは兄だった
私の生まれた町、ノヴィサドには、ラケットを売っている店はなく
父は10時間もかけてイタリアまで買いに行った
父は大学で体育を専攻し、生体力学などの知識は持っていたが
テニスに関してまったくの素人だったため
町中の本屋をまわり、やっと1冊の古いペーパーバックを買い
兄にテニスのやり方を一から教え始めた
兄は14歳で、私より8歳上だが、その頃の私はいつも兄のようになりたいと思っていた
私が重いウエイトを上げるのを見て、父は諭したが、私は少しも重いと感じなかった
父も次第に私にかなりの握力があると気づき始めた
「私もテニスがしたい」
「いいとも」
父はまたイタリアに出かけ、小さな木のラケットを買ってくれた
私はそれを両手で握って振ると、兄が直そうとするのを父が止めた
「このほうがこの子には自然だ」
その時から文字通りほとんどいつもラケットと一緒に過ごした
毎朝学校に行く前、帰るとすぐ、アパートの外のレンガ塀で壁打ちをした
町にはコートが数えるほどしかなく、私たちは駐車場にネットを渡して練習した
テニスで強くなるにはお金がないと無理だという意見を耳にするが大きな間違いだ
私は社会主義国家に住み、お金持ちではなかった
町中の人々が
「あんな小さな女の子にテニスをさせて、セレシュの親父さんは頭がおかしいんじゃないか」
「テニスなんて女の子のするものじゃない うまくいきっこない」と言った
父が私に練習を強制したことは一度もない
私は父が仕事で疲れていようがお構いなし
それほど子どもに協力的だった理由の1つは、父自身が両親に理解されなかったからだと思う
父は農家の一人っ子で、家業を継いでもらいたかったが、
父は大学に進み、最終的に漫画家を選んだことも、親には理解を超えていた
祖母は当然のように私がテニスをすることに猛反対した一人だった
「女の子はお人形や友だちと遊ぶべきよ」
母も最初は同意見だったが最後には諦めたようだった
兄は試合で勝ち続け、1年も経たないうちにヨーロッパでもトップのジュニアプレーヤーになった
父は毎週末に放送される子ども向けのテレビ番組の制作に関わったり
世界中の新聞社にマンガを売ったりしていた
6歳の私には生体力学は分からないため、よく絵を描いて示してくれた
その1つに「リトル・モー」というウサギがいる
パラパラマンガで悪いフォーム、良いフォームを見せてくれ
それは技術の向上だけでなく、苛立ちの解消にもなった
私は最初の頃、ジョン・マッケンローのサーヴの真似をしていた
彼はベースラインに横に体を向けて立つとても珍しい打ち方で
そんなことは彼が最初だったが、私はそれを真似てヒザに大きな負担がかかった
父は私に最も自然なフォームを見つけてくれた
私を飽きさせないための練習メニューも考案してくれた
初めてトーナメントに出たのは6歳半 3位に入賞した
当時はスコアも分からず、試合が終わったのも審判に言われて分かったほど
私はトムとジェリーが大好きで、父はボールにネズミ、Tシャツには猫の絵を描いた
10本サーヴが決まったら、父がビールが飲め、私はアイスクリームが食べられる
もっとも私は決められなくても食べさせてもらえたが
8歳でユーゴスラビアのジュニアNO.1になり
数年後、世界のジュニアNO.1になった
そして、世界中をまわる生活が始まった
自分のスタイル
父は、毎日コートに立ち、違うサーフェスでも練習できる環境が必要だと思い始めた
町のコート数は4面 すべてクレーで、サプリーム、ハードコートは私には不利だった
室内コートは1つもなく、冬は地面が凍ってしまう 雪、雨の日は練習が出来ない
フロリダのディズニーワールドで行われるスポーツ・グーフィーのようなトーナメントに出場するため
アメリカに行き、オレンジ・ボウル・マッチで初めてニック・ボロテリーに会った
ニック:2、3週間、私のテニスアカデミーで練習してみないか? 一度来てみるといい
父:行かない手はないよ、モニカ
ボロテリー・アカデミーで驚いたのは、すべてのタイプのコートが設備されていること
父と私は2週間存分に練習に励んだ 祖母が亡くなり母国に戻った
マイアミのトーナメント後、ジュニアの全米オープンと言われる
オレンジ・ボウルでも順調に勝ち進んだ
ニック:彼女に奨学金を出したい
父:
お前はフロリダで学校に通いながら練習をしたいか?
ゾルタンと2人で行くことになるだろう
私と兄はアカデミーの寮に移り、厳しいスケジュールに身を投じた
兄はアガシ、ジム・クーリエらと練習し、私は兄、ニック、コーチらと練習した
はじめはとても愉しかったが、スケジュールに慣れるにつれホームシックになった
さらに私のテニスの調子が狂いはじめた
コーチは両手打ちをシングルに変えたことで次第に試合に負けるようになった
毎週土曜に両親に電話したが、すべては上手くいっていると話した
私は、小さい頃から、まわりの気持ちを先に考え、ほんとうの気持ちを隠してしまうのだ
父が仕事を辞められないのは分かっていた
母のコンピューターの仕事から得る収入とで、私も兄も養われていて
仕事を辞めれば、子どもに大きなプレッシャーをかけることは父には出来なかった
学校のほうはさらにひどかった
私は故郷で会話も読み書きも厳格なイギリス英語を習ったが
アメリカはスラングが多く、アクセントも全く違う
兄はいつも私の勉強を助けてくれた
兄:新しい単語を5つ覚えるんだ 次の日にまた5つ教えるからね
アカデミーに来て5ヶ月、私はついに音を上げ、
「こっちに来て! 来てくれなきゃ、家に帰る!」と電話口で泣き出した
その時は、自分が両親になんの収入の保証もないまま仕事を辞め
故郷、祖父母、親戚、友だちも捨てろと言っているとは気づかなかった
両親は1週間考えて、
父:とりあえず半年仕事を休み、アメリカでフリーランスの仕事があるか探そうと思う
両親はアカデミーが手配してくれたアパートに住みはじめた
私のスタイルが何もかも変わっているのを見て父は激怒した
父:
お前が生まれついて持ってるもの それがお前のテニスだ
今日から私がまた娘をコーチします
私たちは独自の練習パターンを作った
ほかの生徒は日曜以外は毎日練習したが、私は週2日は休んだ
そのほうがより熱心に練習に臨めた
朝起きた時疲れを感じたら練習をしないこともあった
私の家庭はバランスがよくとれていると思う
父はコートではコーチだが、コートを離れれば父親だ
母は昔からスポーツは大の苦手で、テニスにも必要以上に首を突っ込まない
その代わり、一緒に買い物したり、散歩したり、お喋りしたりする
試合に勝っても負けてもいつも変わらない
兄はアカデミーに1986年までいた
その才能ゆえに練習の必要性を感じず、結果、少しずつテニスから離れていった
両親は私たちをありのまま愛してくれた
私たちがどういう人間になるか期待して愛するのではなく
アカデミーの子どもの親の中には、子どもを怒鳴る親も多かった
「どうしてそんなプレーしか出来ないの?」
私にはそういう親が理解できない
アカデミーには2種類のタイプの親がいたと思う
1つは子どもより自分が勝ちたがる親
もう1つは勝敗に関わらず、常に子どもを支える親だ
幸運にも私の親は後者で、私の調子は完全に取り戻していた
プロへの道
<1988年 ヴァージニア・スリム・トーナメント>
14歳のアマチュアで初めてプロの大会に出た時
1回戦に勝てば、次は当時第3位のクリス・エヴァート
子どもの頃、私がテレビで観たことがあるのは2人しかいない
クリスとマルチナ・ナブラチロワ
チャンネルが少なく、女子テニスの放映は決勝戦に限られていた
私は世界でテニスをしている女性はこの2人だけだと思いこんでいた(w
1回戦ヘレン・ケレシの第1セットを取り、第2セットの途中で
クリスが私を見るためにスタンドに座った
グラフも目に入った
私たちは子どもの頃、ヨーロッパ選手権で何度も見かけたが
彼女は私より年上で、対戦は一度もなかった
さらにガブリエラ・サバティーニ(ガビー)も来た
その試合ほど集中出来なかった経験はない
初めてのウィンブルドンでダイアナ妃から目が離せなかった時くらいだ
私はストレートで2回戦進出
あのクリスと並んで歩いている
結果は2-6 1-6のストレート負けでも満足していた
次はキー・ビスケイン
初戦は楽に勝てた 試合後アガシがコートサイドまできて祝福してくれた(!
アンドレはアカデミー時代からの友だちで、以来、とても親切にしてくれていた
(その後、グラフと結婚て、相当の縁だな、みんな
プロツアーでは、試合後必ず記者会見することが義務付けられている
私が更衣室にいると大会の広報係がやって来た
アマチュアのため罰金は免れたが、WTAのルールについて懇々と聞かされた
翌日は第4位のガビーとの対戦
みんながガビーの大ファンだった
無心で戦い、4-1でリードし、もしかしたら第1セット取れるかもしれないと思った瞬間
集中力が薄れ、神経が張り詰め、やっと平常心になったら第1セットを取られていた
私は第1セットを落とすといつも腹立たしくなる
勝つためには次の2セットを取らなくてはならず、容易なことではない
練習と同じようにプレーできればと思うが、そうできたことは一度もない
私はストレートで2回戦敗退したが、1人のアマチュア選手に誰も期待していなかった
当時、トップ10に入るなど頭の隅にもなかった
ただいい試合をすることで満足だったのだ
「プロ転向はいつです?」と最初に聞かれた時、私は焦るつもりは毛頭なかった
一度プロになると奨学金は受けられない
だが、アマチュアでは勝っても賞金は得られない
優勝しても、ホテル代、航空費などですべて消える
自分にとって一番大切なものは何か
私にとってテニスはもはやただのスポーツではなくなったのだ
トーナメント初優勝
<1989年2月 ヴァージニア・スリム・トーナメント 捻挫で棄権>
試合をしたいのは本心だ プロ転向後初の大会 私は88位
準々決勝で第9位マニュエラ・マリーヴァを破った際
足首を初めて捻挫した 以来、捻挫エキスパートになった
その試合は大変な番狂わせだった
たった3つのトーナメントに出ただけでそれほど高いランキングになったプレイヤーは私が初めてだった
次の準決勝は第16位のジーナ・ガリソン
結局、棄権したがトーナメント・ディレクターは慌てた
テニスはビッグビジネスだ
その夜の試合がなくなり、急遽エキシビションを組まなければならず
大会収入が減り、スポンサーを失うことも意味していた
トーナメントの途中で棄権するのは、とても辛いことだ 調子のいい時はなおさら
でも15歳の私は怪我を押してまでプレーする気になれなかった
<1989年4月>
捻挫も癒え、ヒューストンの準決勝でキャリー・カニンガムと対戦
昔、グーフィー・トーナメントでは彼女を楽に負かしたが、
ボロテリー・アカデミーの後はストレート負けした
それから2年後また顔を合わせたのだ
私はいつも試合当日まで対戦相手のことはあまり考えないようにしている
相手の弱点より、ただひたすら自分の長所・短所に集中する
試合のビデオは決して観ない
3度目の対戦は6-0 6-1で勝ち、決勝はクリス!
当時、私にはスポンサーはおらず、精一杯キレイに見られたくて
試合会場の店に行った どこの企業のロゴもない真新しいシャツでコートに立った
第1セットは3-6 第2セットは6-3
クリスから1セット取ったと頭の中で何度もこだました
第3セットも6-4で取った
勝利の瞬間は世界が急にスローになると多くのプレイヤーが言うが
私は逆で、何もかもが速すぎて、それまで想像もしなかった数字の書かれた
大きな小切手をもらい、更衣室で大会関係者にトロフィーはどこかと尋ねた
「小切手がトロフィーの代わりなんだ」
「じゃあ、この大きな小切手をもらってもいいですか?」
巨大なボール紙を機内に持ち込み、乗客に何度も尋ねられた(w
1週間後、トーナメント・ディレクターが親切に私のために特別に作ってくれたトロフィーが送られてきた
私は初優勝に興奮したが、大会は終わったのだ
家では必要以上に大騒ぎもせず、軽んじることもない お金に執着するこもない
お金を目標にしたことは一度もない
人生でほんとうに大切なものはお金では買えないとずっと思っている
わたしの大切なもの
7歳の時、ノヴィサドのデパートで見た分厚くて柔らかいコットンの掛け布団と枕のセット
あれほど欲しいと思ったものはなく、それまでに見た一番美しいものだった
母:あなたの誕生日とクリスマスを一緒にして買ってあげてもいいわ
私は「毛布だけでいいわ」と言った
私は7歳ですでにお金を理解していた
テニスを続けるには多額の遠征費用がかかる
また、ユーゴスラビア国外に行くには交換レートの関係で旅費がかさむ
英語は私のほうが話せたので、航空券の予約、一番安いホテルをとるのは私の役割だった
いくらか稼げるようになってからも変わらなかった
やりくりに苦心していた人が突然大金を手にすると2通りある
1つは浪費家 スポーツカー
や宝石
を買ったりする
プロテニスプレイヤーには、交通費、ヒッティングパートナー代、
理学療法士代、コーチ代、ホテル代など支出にはきりがない
お金は役立つが、所詮、目的のための手段にすぎない
私のゴールはお金ではない いいテニスをすることだ
「お金には人生を変える力がある」と両親は昔からよく言っていた
私が20万ドルもらうようになっても、私たちはフェラーリを買ったりはしなかった
1991、1992年、私は賞金王に輝いた時も両親は警告した
「お金は入っては出ていくものだと忘れないように」
1993年の事件から2年間 私にはまったく収入がなかった
スポンサーの中には、私を告訴すると決めたところもあった
私は7歳に買ってもらったコットンの掛け布団を今でも持っている
大切なものは何ひとつ変わっていない それが可笑しくてならない
女王たちとの対決
私の自我と母が娘に望むものが徐々に対立した
1989年の全仏オープンのために髪をブロンドに染めたかったが
母:あなたはまだ15歳よ 18歳になったらなんでもしていいんだから
私は母が帰国している間にブロンドに染め、変わったウェアで全仏オープンに臨んだ
子どもの頃、バービー人形などの服を作るのが大好きで
自分のウェアを自らデザインしたいと思った
家の近くのテニスショップを何軒かまわり、風変わりなウェアを何着か買った
全仏オープンとウィンブルドンは、祖国のテレビで見たただ2つのグランドスラムで夢だった
パリに着き、まず誰もいないスタジアムの観客席の一番上に座り
「いつかこのトーナメントで優勝するわ」とつぶやいた
3回戦はジーナ・ガリソン 失うものは何もない
センターコートに向かう途中、両親の知人の子どもが赤いバラの花束をくれた
コートに置くわけにはいかないので、ファンに向かって高く放り上げた
クレーは私の好きなコートで、6-3 6-2で勝利した
試合後の会見で称賛を浴びると思っていたが
「バラを投げたのはどうしてですか?」といきなり質問攻めにあった
私はひどく混乱した
名前が知られるほど、一挙一動が詮索の的になることを初めて思い知った
準決勝 グラフ どんな試合も40分以内で片付け、2年間NO.1
第1セットは3-6、第2セットは6-3
グラフが私を1時間以内で破れないことに誰もが驚いた
試合中、何度もガットを切り、ラケットをかえなくてはならず
新しいガットとグリップに違和感を覚え、3-6で落とした
それでも失望はなく、学んだことのほうが多かった
1つは、無意識の行動がマスコミの的になること
2つ目は、ガットをテクニファイバーに替える時期
最後に一番大切なこと どんな強敵が相手でも充分戦える
いつか必ず勝てるだろうと確信を持った
全仏オープンからウィンブルドンまではたったの2週間で
クレーから芝に調整しなければならない
ウィンブルドンは唯一芝のトーナメントで万全に供えることは不可能に近い
一般的に球足が速いと言われるが、天候、日によって、1試合のうちでさえ変化することがある
私と父が練習を始めると、ピート・サンプラスとコートが隣りになった
「未来の世界NO.1だ」と父は予言した
1回戦は無敵の強力サーヴァー、ブレンダ・シュルツ
長身で、サーヴが決まれば全く打ち返せない
2時間半が過ぎ、第3セットを取った時、疲労の極致だった
プロとしてテニスをしていると、重要な段階が何度かあるものだ
私にとっては全仏オープンの準決勝、ウィンブルドンでベスト16に残れたこと
次の相手はグラフ 0-6 1-6 ストレートで負けて
唯一つのいい思い出は、ダイアナ妃が観戦していて私を見てくれたことだ
その年の全米オープンは、私には最初、クリスにとっては最後だった
彼女はその年いっぱいで引退を決めていた 勝ち進めば4回戦であたる
もし私が勝てば、クリスが全米オープンで有終の美を飾るのを
阻んだ少女として記憶に残るのは耐えられない
クリスの後日談:
あの日、私も本当に緊張していた 前回あなたに負けただけに
また15歳の少女に負けてキャリアを終わらせたくないと思った
私も極限まで緊張していた
クリスはとくにバックハンドはほぼミスがない
私は0-6 2-6で敗れた
いつか私もすべての雑念を振り払い、集中する術を身につけようと思った
クリスは次のジーナ・ガリソンに敗れたが、今も彼女の栄光を奪うことは出来ない
1989年は、その頃の私のヒロイン全員と試合した
グラフ、クリス、そしてついに初めてダラスの決勝戦でマルチナ・ナブラチロワと対戦した
3セットで敗れたがいい試合で、私は誇らしかった
決勝に進んだお蔭で11月のヴァージニア・スリム・チャンピオンシップの出場権を得た
フィリップ・モリス社は、シーズンの終わりにNYマディスン・スクエェア・ガーデンで
世界ランキング16位までのトーナメントを開く
私はプロ転向1年目で仲間入りした
序盤戦でまたマルチナに負けたが「粘り強い」という定評がついたのはそこからではないだろうか
「プロ入りして1年目で6位までのし上がった 来年はきっとトップ3に入るだろう」と各紙が書いた
新聞を見るのが怖くなり、極力見ないようになった
しかし期待され始めてから、次第に勝つことが気になりはじめた
躍進の年
<1990 シカゴ>
1回戦で負け、肩関節と回旋筋腱板に炎症を起こした
ボカ・ラトンではマスコミの関心は、13歳の天才少女ジェニファー・カプリアティの
プロとしての初トーナメントに集まった
新聞は決勝戦で私たちが対決することを期待したが、私は3回戦敗退
更衣室で失意していると、元プレイヤーで、今はWTAスタッフのレスリー・アレンが
「少しアドバイスしていい? 調子の悪い日は誰にもあることを忘れないほうがいいわ」
ツアーで誰かに親切な言葉をかけられたのは、それが初めてだ
ジェニファーは決勝戦でガビーに敗れた 私は少しマスコミの関心から解放された
リプトンでは対戦表を見るのをやめ、1試合1試合こなすことだけ言い聞かせた
4回戦は、シカゴで負けたロス・フェアバンクス
私は緊張すると独り言を言う癖がある「落ち着くのよモニカ」
彼女を負かすには効果的なパッシングショットが必要
その日、私は失敗を恐れず、ストレート勝ち
4回戦でジェニファーは敗れ、対戦は実現しなかった
私は優勝し、自信を取り戻すには大きな勝利が必要だった
次のテキサスでも優勝 調子が戻ったことに父と興奮した
フロリダに戻ると
「アカデミーのスタッフは、今後もうあなたたちにはコートを使わせないように言われている」
誰も説明が出来ないまま、公営のコートを探した
ニックの決定はいつも手紙で伝えられる
「申し訳ないと思うが、このまま今まで通りの関係を続ける理由が見い出せないのです」
私は今でも理由が分からないが、ニックの行動は珍しくなかった
アガシですら一通の手紙でアカデミーを追われている
とにかく彼は、テニスを愛する多くの子どもたちに奨学金を与え続けた
それは私にとっても有り難いものだった
それより1ヵ月後のイタリアン・オープンまでに
プライベートのコートがある新しい家を見つけなければならない
サラソタの公営コートはいつも混み、長時間待たされた挙句1時間単位の練習
しかもハードコートで、エッカード・オープンはクレーだったがなんとか優勝できた
近くにプライベートのコートがあるサラソタに小さな家を見つけて喜んだが
周辺の住人が皆テニス好きで午後までコートがあかない状態だった
イタリアン・オープンは1つのターニングポイントだった
決勝戦の相手はマルチナ いつもハードな試合になる 私と同じ左利きだから
これまでの中で最も短い試合になった 6-1 6-1で優勝したのだ
マルチナ「まるでトラックに轢かれたような気分だ」(彼女はほんとユーモアがあるな
私にとって、テニスは数のゲームでしかなかった
サーヴ、ボレー、スマッシュ、エースを何本決められるか
田口俊樹/訳
※テニス名試合まとめ
・モニカ・セレシュ(ウィキ参照
錦織圭、大坂なおみの活躍により、またテニス観戦に夢中になり、ブログを書いていたら、
私の一番大好きなモニカが本を書いていることを知って図書館で借りた
今では当然のごとく、選手と観客席の間は開きがあり
その間には屈強な警備員が何人も立っているが
そうなったのも、彼女の前代未聞の事件がきっかけではないだろうか
私がテニスファンになった時に活躍していたナブラチロワ、クリス・エバートの時代からグラフ一強時代の転換期
そこに突然現れた天才少女がモニカだった
両手打ちのパワフルなラリー、試合から離れた時の少女の顔のあどけなさ
なにより、私が彼女に惹かれた理由はその精神力の強さ
テニスはコートに入ればたった一人の戦い
圧倒的な強さで勝つ時も、ビハインドの時も
自分を信じきれる姿が羨ましかった
これまで観た試合の中でもっとも素晴らしかったのは
グラフ×モニカの全仏オープン決勝戦
あれほどの死闘は、これからもないのではないかと思うほど
そんな絶頂期に起きた悲劇
当時のテレビのテニス放送は、4大大会の準決勝、決勝戦が深夜に放送されるかされないかくらいで
この大きな事件も新聞の小さな記事で知ったと思う
その後、いつ復活するか待ちに待って
全豪オープンで復活優勝した時も本当に感動した
今回、その事件のことを本人が語るという本書は
最初の章からショッキングで胸が悪くなる
あの小さな記事からは想像も出来ない恐怖との葛藤の日々が克明に語られている
その合間に、テニスを始めた頃の家族との絆の話では癒され
プロ転向後の快進撃では、実際の試合が目に浮かぶようだ
インターネットの時代になり、少女が輝くばかりの美しい女性になり
明るく、ユーモア、思いやり、賢明さを失わずにいる様子を見ると
どうあの悪夢を乗り越えたのかと驚き、安堵する
本書に書かれたプロテニス選手を巡る環境は、今も変わらない部分もあるし
どのアスリートにも当てはまるし、私たちにとっても
大切な言葉、経験がたくさん詰まっている
また内容メモが長くなること必至/謝
【内容抜粋メモ】
「謝辞」
家族の愛と支えがなかったら、テニスをすることは言うに及ばず
今回の困難を乗り越えるに際し、平衡感覚をなくしていただろう
家族は私の光だ
友人、ドクターらへの謝辞・・・
私を応援してくれたファンの皆さんにただありがとうのひと言を言うことしかできない
ありがとう
ナンシー・アン・リチャードソンの謝辞
(これは誰だろう?
■PART1 悪夢のはじまり
「あのナイフが私の背中に突き刺さり、引き抜かれた 私は刺されたのだ」


人生がおとぎ話のようなら 子どもの頃、よくそう思ったものだ
<1993年>
今でも思い出す あの頃は何もかもこれ以上考えられないほど上手くいっていた
全仏オープンの前哨戦 1993年のドイツのハンブルクでのシチズンカップにエントリー
家族全員がいて、兄のゾルタンがヒッティングパートナーとして初めて同行した
1つ心配だったのは風邪をひき練習が不十分で弱気になっていた
以前、ドイツに来た時、いきなり近づいてきた男に裁判所の召喚状を突きつけられたことがあり
トーナメントディレクターにボディガードを頼んだが
彼らは毎回遅刻し、その水曜日は4人のうちようやく1人が寝坊して現れた
その夜の試合に勝ち、車でホテルに戻る途中、運転手が誰かに尾けられていると言い
まこうとしたが諦めた そんなことは生まれて初めてで不安になった
サインが欲しいなら、私は決して拒まないのに
<4月29日>
ボディガードは1人だけ しかも観客席には見物者がいた
練習を見るためにこんなに早起きをするとは奇妙な気がした
そもそも彼らはどうコートに入ったのか 私は集中出来なかった
通路脇にアーサー・アッシュのロゴ入り野球帽をかぶった男が目に入り
アーサーがドイツでもまだ忘れられていないことが嬉しくて微笑むと、彼も微笑み返した
どこかで見覚えがある ゆうべホテルのロビーで見かけた男だ 偶然か
後で分かったが、兄と練習していた時も男がいたのを父が見て声をかけていた
その夜、父が急に体調を壊した
翌日はさらに悪化し、マグダレナ・マリーヴァとの準々決勝の観戦も出来ないほどだった
父の世話で母もホテルに残った
兄は途中から観に行くと言った
試合は17時から 私は6-4で第1セットを取ったが
第2セットは0-3 日没サスペンデッドは避けなければ
午前に続きを戦い、勝てば、午後に準決勝がある
4-3まで逆転し、60秒のブレイクでイスに座った
そろそろ立ち上がろうとした時、背中に信じられないほどの激痛が走った
激しく熱を発し、人間とは思えないうなり声のような悲鳴をあげたが
自分の声とも分からない
振り返ると、野球帽をかぶった男が血まみれのナイフを頭上に掲げ
さらに振り下ろそうとしていた ロビーで見た男だ
背後から警備員が男を押さえ込んだ 私は顔をそむけた
一人の男性が客席から飛び降りて、私の肩を支えてくれた
めまいがして、傷口に触れた手は血でべっとり濡れていた
兄が全速力で走って来るのが見え、もう大丈夫と思った
今思えば、要するに、その時の警備は誰でもコートに入れるくらい杜撰だったということだ
酸素吸入器が欲しいと伝えたいが、息が吸えずに言葉が出ない
私はストレッチャーに乗せられ、コートから運び出された
耳の中で「刺された」という言葉がこだましていた
ナイフまでこの目で見てしまった
救急治療課に担ぎ込まれると、両親は恐怖のあまりなりふり構わず泣いていた

傷の範囲を正確に調べるためMRIにかける必要があると医師が言った
(いや、痛みを早く止めてくれ!
「あんなところに入れないで! とても痛いのよ」 私はすすり泣いた
それでも看護婦たちは私をシリンダーに押し込んだ
40分が4週間にも感じた
肩甲骨の脇の柔組織と筋肉損傷 傷の深さは1インチ半
脊髄からほんの数ミリで「あと数ミリで、体が麻痺していたかもしれません」
あの男が帰ってきたらどうしよう
病室の前には警備員がつけられたが、家族にいて欲しいと頼んだ
最後に気持ちを落ち着かせ、痛みを和らげるクスリが処方され
急激に眠りに落ちたが、長く続かなかった
数分おきに病室のドアをノックする音がして
マスコミは私のコメントを求めたが話すことなど何もなかった
婦人警官が来て矢継ぎ早に質問した
兄が「まだ話が出来る状態じゃありません 明日にしてもらえませんか」と押しやり
彼女は不承不承出て行った
兄「犯人は拘束されたそうだ」
私は暴漢がこの病室を見つけてしまうのではないかという不安が消えなかった
不安のためまた泣いた そんなことが、その後、2年続いた
<土曜の朝>
IMG(国際マネージメント・グループ)の私のマネージャー
ステファニー・トールスンが身重の一番大事な時期に駆けつけてくれた
私がユーゴスラビアのジュニアプレイヤーだった頃からの付き合いで家族同然だった
病院はマスコミで溢れかえり、混乱を収拾するために記者会見に応じた
しかし、病院がマスコミに発表した私の傷の程度は、ほんのかすり傷程度と伝えられた
昨日まで頭にあったのは、史上初の全豪オープン4連覇達成
勝機の可能性は充分にあった
私は世界ランキングNO.1だった それが何もかも変わってしまった
ランキング2位のシュティフィ・グラフが見舞いに来てくれてとても嬉しかった
2人のアスリートが互いに見つめあいながら泣いているのは奇妙な光景だっただろう
シュティフィ:
私の国でこんなことが起きてしまったのが残念でならない
あなたならきっと乗り越えられる
そろそろ行かなきゃ もうすぐ準決勝が始まるのよ 電話するわ
私は犯人がシュティフィをもう一度NO.1にしようとしてたことをまだ知らなかった
まだ大会は続いているのか? 私はプレー出来ないのに、どうして?
大会続行に抗議して、数百人ものスポーツファンが集まっているのが病院の窓から見えた
大会組織側は、私の母に電話して、彼らをなだめて欲しいと頼んだ
「即刻試合を中止しろ」というプラカードを掲げた群衆の前に心痛で疲れきった母が立った
優しく抱きしめられ、花など手渡されたお蔭で話す勇気が湧いたと後で話した
シチズンカップを続けるという大会組織委員会の決定は、世界中から強い非難を浴びた
私は選手たちが団結して大会を拒否すればいいと期待していたが
選手たちは、プロスポーツ選手としてどうすべきかを第一に考えた
私なら即座に拒否しただろう
またノックの音がして、ベッドから出て、ドアの陰に隠れようとした時
ビニール袋につまずき、中から野球帽が出て来た どうしてこんなところに?
昨夜の婦人警官が入ってきて
「あなたに証拠品を見てもらわなくてはなりません」
私の血まみれのテニスシャツを取り出すと
乾いた血とすえた汗の臭いがして頭が朦朧となった
「これはあなたのシャツですか?」
「これは暴漢が使ったナイフですか?」
刃渡り9インチほどの骨取り用小型包丁には乾いた血がこびりついていた
知らないうちに「はい」と答えたのか、警官は部屋を出た
私は嘔吐した 胃液が出るまで、何度も胃は痙攣をくり返した
それでも、血の臭い、ナイフは頭から消えなかった
大会も続行した まるでこんなことは大したことではなく
私などはじめから存在しなかったかのように
準決勝後、シュティフィは会見で
「私は怖くありません テニス選手はステージに立っているようなもので
観客にもっと近づく必要があるのです 恐怖を抱いてはやっていられません」
私は彼女の言葉が理解できなかった
その並外れた精神力に畏怖の念を覚えた
シュティフィは決勝で、ストレートでサンチェスに敗れた

件名:モニカ・セレシュ謀殺未遂容疑
容疑者:ギュンター・パルヘ
「供述」
自分の罪に関して必ずしも警察に話す義務はないと説明されましたが
私は話したいと思います 弁護士は必要ない
私はシュティフィ・グラフの熱烈なファンです
彼女がプロデビューして以来ずっと活躍を見守ってきました
東西の国境がなくなってからは、誕生日に毎年必ずお金を送りました
2年前は100マルク 今年は300マルク
匿名で「チューリンゲンのファンより」と書き添えました
1990年、ベルリンのジャーマンオープンで彼女がセレシュに敗れた時は耐えられなかった
自殺を考えたほどです
全仏オープンでセレシュが優勝してまた打ちひしがれました
その頃には私の心は決まっていました
セレシュが二度と、あるいはしばらくの間はテニスが出来ないように怪我をさせようと
彼女を殺すつもりは全くありませんでした
私はアメリカとイスラエルを熱心に信奉しています
しかしシュティフィ・グラフはそれよりさらに上にいます
彼女は最高の女性なのです
私はずっと計画を練りました
今日、観客席の最前列を歩いてみて、セレシュの後ろに行くのは簡単だと分かりました
試合中のブレイクは約1分ですから、私はセレシュの後ろに立ち
ナイフをつかみ、刺す時は全力を込めはしませんでした
私が彼女を刺したのは、この3年間への罰です
たぶん私は15年の懲役を受けると思いますが
私が出る頃はグラフも現役を退いていることでしょう
私は目的が果たせたことに満足していました
これは彼女の両親に対する警告でもありました
また観客のためでもあったのです
なのでブタと罵られてとても混乱しています

<事件のわずか4日後>
WTA(女子テニス選手会)は、私のランキングを留保させるかについて
ツアー中の25位以内の選手のうち17名を集めて投票を求め
ほぼ満場一致で留保を認めないと決まった
次の全仏オープンでグラフがNO.1に戻ることを意味していて、私は愕然とした
トールスン:
モニカにとって一番ショックなのはランキングを失うことより、その失い方です
あの男は彼女をNO.1から引きずりおろすために怪我をさせた
その狂気じみた計画は達成されました
ランキングはナイフではなく、コート上の勝利で勝ち取られるものです
私はこれまで対戦相手にずっと敬意を払ってきたが、それが一方的なものだと分かった
グラフまで同意したことにも失望を禁じえなかった
グラフ:
ランキングのことは一切考えていません
犯人が私のファンの一人だと分かっていながら、そんなことを考えるのは無理です
私がなにより驚いたのは、マスコミは投票について取り上げなかったことだ
私がいなくなれば、ほかの選手にとって、とくにトップ5の道はかなり楽になるだろう
ランキングはそれ自体何も意味しない
だが、企業との契約、スポンサーからのボーナスがかかっている
弁護士の話では、事件後の1年、私は推定1000万ドルの収入をふいにした
私と交わされるはずの契約はほかのプレイヤーにいったこともあるだろう
事件後、100万ドル単位で収入が増えた選手もいたという

パルヘの供述は馬鹿馬鹿しいものだ
医師の診断によれば、ナイフがそれほど深く刺さらなかった理由は
私がちょうどその時、顔を拭くため前かがみになったから
彼が私を殺せなかった理由は、警備員に取り押さえられたから
病院で迎えた3日目「家に帰りたい」と泣いた
私は医療用個人専用機まで救急車で運ばれた
フライト時間は長く、燃料補給とトイレ休憩のため2度着陸し
約20時間かけてようやくデンヴァーに着いた
また救急車に乗り、ヴェイルのクリニックのことだけ考えた
1991年、脛を傷めた時も世話になったドクターの
ステッドマン、ホーキンズも大好きな医師で
肩が専門の整形外科医として、アメリカの最高権威で信頼できる
2人はコロラドを離れていたが、予定を変えて戻ってくれた
この時はまだ、これまで信じてきたことがまた1つ
「司法制度」に対する信頼が打ち砕かれるとは思いもよらなかった
多くの有名選手の治療をした理学療法の権威ジョン・アトキンズに迎えられ
同じく権威のトッパー・ハガーマンも立ち寄ってくれて涙が止まらなかった
意味不明のことをまくしたてるのを抑えられず、その夜は一睡も出来なかった
「眠ったら彼がやってくる 私を殺しにやってくる ゾルタン、彼を止めて」
兄がいなかったらどう生き延びれたか想像もつかない
ホーキンズは、少なくとも1ヶ月のリハビリをやってからでないと
プレーにどう影響するかは分からないと言った
数週間は肩を固定し、経過をみることになった
トールスン:
記者会見を開かないと、また1991の二の舞になるかもしれない
憶測だけでデタラメ記事を書かれてしまう
1991 脛の炎症でウィンブルドンを2回戦で棄権した時
記者会見を開かず、タブロイド紙に根も葉もないことを書かれたことを繰り返したくなかった
翌朝、ドクターと、IMG責任者ボブ・ケインとともに会見に臨んだ
ヴェイルに数百人の記者が集まり、生放送のため、恐怖を覚えたが
まだショックで茫然としていて内容についてはよく覚えていない
ただ、いまだ忘れられない質問は
「シャツを脱いで傷痕を見せてくれないか」と言い
ボブは不愉快極まりない状況から救ってくれた
父はまだ本調子ではなく、ステッドマンは内科医の診察をすすめた
父は車内で「別の医師にも診てもらったほうがいいと言われただけだ」とだけ言った
デンヴァーで、父は「前立腺がん」と診断された
私の祖国、旧ユーゴスラビアではがんはそのまま死を意味する
どうしてこんな試練に遭わねばならないのか
医師:
比較的発見が早いのが幸いだが、すぐにも手術が必要です
命に関わる可能性もあるので、ゆっくり考えてはいられません
IMGの会長マーク・マコーマックに助言を求めると
「セカンド・オピニオンを求めるべきだ」と言われた
翌週、ミネソタ州のクリニックから父が電話をかけてきて
「やはり手術を受けなくてはならないよ」
私たちはロチェスターに向かった
父とはいつも強くて健康な存在だと思っていた
だから19歳にして父の病気が奇妙に思われ、病室に入るなり泣き出してしまった
父:私は死にはしない がんは私の友だちなのだから
手術は成功したが、転移の有無は1年間経過をみて
その間、化学療法を受けなくてはならないと言われた
私は母とヴェイルに戻り、自らの治療を続けた
次第に自分の殻にこもるようになった
可能性も未来もどこにも見えなかった
■PART2 貧しさの中で
「私たちはもともと裕福な家庭ではなかったが、お金を目標にしたことは一度もない
人生でほんとうに大切なものは、お金では買えない」

ビヨン・ボルグの試合をテレビで見て、父にテニスがしたいと最初に言ったのは兄だった
私の生まれた町、ノヴィサドには、ラケットを売っている店はなく
父は10時間もかけてイタリアまで買いに行った
父は大学で体育を専攻し、生体力学などの知識は持っていたが
テニスに関してまったくの素人だったため
町中の本屋をまわり、やっと1冊の古いペーパーバックを買い
兄にテニスのやり方を一から教え始めた
兄は14歳で、私より8歳上だが、その頃の私はいつも兄のようになりたいと思っていた
私が重いウエイトを上げるのを見て、父は諭したが、私は少しも重いと感じなかった
父も次第に私にかなりの握力があると気づき始めた
「私もテニスがしたい」
「いいとも」
父はまたイタリアに出かけ、小さな木のラケットを買ってくれた
私はそれを両手で握って振ると、兄が直そうとするのを父が止めた
「このほうがこの子には自然だ」
その時から文字通りほとんどいつもラケットと一緒に過ごした
毎朝学校に行く前、帰るとすぐ、アパートの外のレンガ塀で壁打ちをした
町にはコートが数えるほどしかなく、私たちは駐車場にネットを渡して練習した
テニスで強くなるにはお金がないと無理だという意見を耳にするが大きな間違いだ
私は社会主義国家に住み、お金持ちではなかった
町中の人々が
「あんな小さな女の子にテニスをさせて、セレシュの親父さんは頭がおかしいんじゃないか」
「テニスなんて女の子のするものじゃない うまくいきっこない」と言った
父が私に練習を強制したことは一度もない
私は父が仕事で疲れていようがお構いなし
それほど子どもに協力的だった理由の1つは、父自身が両親に理解されなかったからだと思う
父は農家の一人っ子で、家業を継いでもらいたかったが、
父は大学に進み、最終的に漫画家を選んだことも、親には理解を超えていた
祖母は当然のように私がテニスをすることに猛反対した一人だった
「女の子はお人形や友だちと遊ぶべきよ」
母も最初は同意見だったが最後には諦めたようだった
兄は試合で勝ち続け、1年も経たないうちにヨーロッパでもトップのジュニアプレーヤーになった
父は毎週末に放送される子ども向けのテレビ番組の制作に関わったり
世界中の新聞社にマンガを売ったりしていた
6歳の私には生体力学は分からないため、よく絵を描いて示してくれた
その1つに「リトル・モー」というウサギがいる
パラパラマンガで悪いフォーム、良いフォームを見せてくれ
それは技術の向上だけでなく、苛立ちの解消にもなった
私は最初の頃、ジョン・マッケンローのサーヴの真似をしていた
彼はベースラインに横に体を向けて立つとても珍しい打ち方で
そんなことは彼が最初だったが、私はそれを真似てヒザに大きな負担がかかった
父は私に最も自然なフォームを見つけてくれた
私を飽きさせないための練習メニューも考案してくれた
初めてトーナメントに出たのは6歳半 3位に入賞した
当時はスコアも分からず、試合が終わったのも審判に言われて分かったほど
私はトムとジェリーが大好きで、父はボールにネズミ、Tシャツには猫の絵を描いた
10本サーヴが決まったら、父がビールが飲め、私はアイスクリームが食べられる
もっとも私は決められなくても食べさせてもらえたが
8歳でユーゴスラビアのジュニアNO.1になり
数年後、世界のジュニアNO.1になった
そして、世界中をまわる生活が始まった

父は、毎日コートに立ち、違うサーフェスでも練習できる環境が必要だと思い始めた
町のコート数は4面 すべてクレーで、サプリーム、ハードコートは私には不利だった
室内コートは1つもなく、冬は地面が凍ってしまう 雪、雨の日は練習が出来ない
フロリダのディズニーワールドで行われるスポーツ・グーフィーのようなトーナメントに出場するため
アメリカに行き、オレンジ・ボウル・マッチで初めてニック・ボロテリーに会った
ニック:2、3週間、私のテニスアカデミーで練習してみないか? 一度来てみるといい
父:行かない手はないよ、モニカ
ボロテリー・アカデミーで驚いたのは、すべてのタイプのコートが設備されていること
父と私は2週間存分に練習に励んだ 祖母が亡くなり母国に戻った
マイアミのトーナメント後、ジュニアの全米オープンと言われる
オレンジ・ボウルでも順調に勝ち進んだ
ニック:彼女に奨学金を出したい
父:
お前はフロリダで学校に通いながら練習をしたいか?
ゾルタンと2人で行くことになるだろう
私と兄はアカデミーの寮に移り、厳しいスケジュールに身を投じた
兄はアガシ、ジム・クーリエらと練習し、私は兄、ニック、コーチらと練習した
はじめはとても愉しかったが、スケジュールに慣れるにつれホームシックになった
さらに私のテニスの調子が狂いはじめた
コーチは両手打ちをシングルに変えたことで次第に試合に負けるようになった
毎週土曜に両親に電話したが、すべては上手くいっていると話した
私は、小さい頃から、まわりの気持ちを先に考え、ほんとうの気持ちを隠してしまうのだ
父が仕事を辞められないのは分かっていた
母のコンピューターの仕事から得る収入とで、私も兄も養われていて
仕事を辞めれば、子どもに大きなプレッシャーをかけることは父には出来なかった
学校のほうはさらにひどかった
私は故郷で会話も読み書きも厳格なイギリス英語を習ったが
アメリカはスラングが多く、アクセントも全く違う
兄はいつも私の勉強を助けてくれた
兄:新しい単語を5つ覚えるんだ 次の日にまた5つ教えるからね
アカデミーに来て5ヶ月、私はついに音を上げ、
「こっちに来て! 来てくれなきゃ、家に帰る!」と電話口で泣き出した
その時は、自分が両親になんの収入の保証もないまま仕事を辞め
故郷、祖父母、親戚、友だちも捨てろと言っているとは気づかなかった
両親は1週間考えて、
父:とりあえず半年仕事を休み、アメリカでフリーランスの仕事があるか探そうと思う
両親はアカデミーが手配してくれたアパートに住みはじめた
私のスタイルが何もかも変わっているのを見て父は激怒した
父:
お前が生まれついて持ってるもの それがお前のテニスだ
今日から私がまた娘をコーチします
私たちは独自の練習パターンを作った
ほかの生徒は日曜以外は毎日練習したが、私は週2日は休んだ
そのほうがより熱心に練習に臨めた
朝起きた時疲れを感じたら練習をしないこともあった
私の家庭はバランスがよくとれていると思う
父はコートではコーチだが、コートを離れれば父親だ
母は昔からスポーツは大の苦手で、テニスにも必要以上に首を突っ込まない
その代わり、一緒に買い物したり、散歩したり、お喋りしたりする
試合に勝っても負けてもいつも変わらない
兄はアカデミーに1986年までいた
その才能ゆえに練習の必要性を感じず、結果、少しずつテニスから離れていった
両親は私たちをありのまま愛してくれた
私たちがどういう人間になるか期待して愛するのではなく
アカデミーの子どもの親の中には、子どもを怒鳴る親も多かった
「どうしてそんなプレーしか出来ないの?」
私にはそういう親が理解できない
アカデミーには2種類のタイプの親がいたと思う
1つは子どもより自分が勝ちたがる親
もう1つは勝敗に関わらず、常に子どもを支える親だ
幸運にも私の親は後者で、私の調子は完全に取り戻していた

<1988年 ヴァージニア・スリム・トーナメント>
14歳のアマチュアで初めてプロの大会に出た時
1回戦に勝てば、次は当時第3位のクリス・エヴァート
子どもの頃、私がテレビで観たことがあるのは2人しかいない
クリスとマルチナ・ナブラチロワ
チャンネルが少なく、女子テニスの放映は決勝戦に限られていた
私は世界でテニスをしている女性はこの2人だけだと思いこんでいた(w
1回戦ヘレン・ケレシの第1セットを取り、第2セットの途中で
クリスが私を見るためにスタンドに座った
グラフも目に入った
私たちは子どもの頃、ヨーロッパ選手権で何度も見かけたが
彼女は私より年上で、対戦は一度もなかった
さらにガブリエラ・サバティーニ(ガビー)も来た
その試合ほど集中出来なかった経験はない
初めてのウィンブルドンでダイアナ妃から目が離せなかった時くらいだ
私はストレートで2回戦進出
あのクリスと並んで歩いている
結果は2-6 1-6のストレート負けでも満足していた
次はキー・ビスケイン
初戦は楽に勝てた 試合後アガシがコートサイドまできて祝福してくれた(!
アンドレはアカデミー時代からの友だちで、以来、とても親切にしてくれていた
(その後、グラフと結婚て、相当の縁だな、みんな
プロツアーでは、試合後必ず記者会見することが義務付けられている
私が更衣室にいると大会の広報係がやって来た
アマチュアのため罰金は免れたが、WTAのルールについて懇々と聞かされた
翌日は第4位のガビーとの対戦
みんながガビーの大ファンだった
無心で戦い、4-1でリードし、もしかしたら第1セット取れるかもしれないと思った瞬間
集中力が薄れ、神経が張り詰め、やっと平常心になったら第1セットを取られていた
私は第1セットを落とすといつも腹立たしくなる
勝つためには次の2セットを取らなくてはならず、容易なことではない
練習と同じようにプレーできればと思うが、そうできたことは一度もない
私はストレートで2回戦敗退したが、1人のアマチュア選手に誰も期待していなかった
当時、トップ10に入るなど頭の隅にもなかった
ただいい試合をすることで満足だったのだ
「プロ転向はいつです?」と最初に聞かれた時、私は焦るつもりは毛頭なかった
一度プロになると奨学金は受けられない
だが、アマチュアでは勝っても賞金は得られない
優勝しても、ホテル代、航空費などですべて消える
自分にとって一番大切なものは何か
私にとってテニスはもはやただのスポーツではなくなったのだ

<1989年2月 ヴァージニア・スリム・トーナメント 捻挫で棄権>
試合をしたいのは本心だ プロ転向後初の大会 私は88位
準々決勝で第9位マニュエラ・マリーヴァを破った際
足首を初めて捻挫した 以来、捻挫エキスパートになった
その試合は大変な番狂わせだった
たった3つのトーナメントに出ただけでそれほど高いランキングになったプレイヤーは私が初めてだった
次の準決勝は第16位のジーナ・ガリソン
結局、棄権したがトーナメント・ディレクターは慌てた
テニスはビッグビジネスだ
その夜の試合がなくなり、急遽エキシビションを組まなければならず
大会収入が減り、スポンサーを失うことも意味していた
トーナメントの途中で棄権するのは、とても辛いことだ 調子のいい時はなおさら
でも15歳の私は怪我を押してまでプレーする気になれなかった
<1989年4月>
捻挫も癒え、ヒューストンの準決勝でキャリー・カニンガムと対戦
昔、グーフィー・トーナメントでは彼女を楽に負かしたが、
ボロテリー・アカデミーの後はストレート負けした
それから2年後また顔を合わせたのだ
私はいつも試合当日まで対戦相手のことはあまり考えないようにしている
相手の弱点より、ただひたすら自分の長所・短所に集中する
試合のビデオは決して観ない
3度目の対戦は6-0 6-1で勝ち、決勝はクリス!
当時、私にはスポンサーはおらず、精一杯キレイに見られたくて
試合会場の店に行った どこの企業のロゴもない真新しいシャツでコートに立った
第1セットは3-6 第2セットは6-3
クリスから1セット取ったと頭の中で何度もこだました
第3セットも6-4で取った
勝利の瞬間は世界が急にスローになると多くのプレイヤーが言うが
私は逆で、何もかもが速すぎて、それまで想像もしなかった数字の書かれた
大きな小切手をもらい、更衣室で大会関係者にトロフィーはどこかと尋ねた
「小切手がトロフィーの代わりなんだ」
「じゃあ、この大きな小切手をもらってもいいですか?」
巨大なボール紙を機内に持ち込み、乗客に何度も尋ねられた(w
1週間後、トーナメント・ディレクターが親切に私のために特別に作ってくれたトロフィーが送られてきた
私は初優勝に興奮したが、大会は終わったのだ
家では必要以上に大騒ぎもせず、軽んじることもない お金に執着するこもない
お金を目標にしたことは一度もない
人生でほんとうに大切なものはお金では買えないとずっと思っている

7歳の時、ノヴィサドのデパートで見た分厚くて柔らかいコットンの掛け布団と枕のセット
あれほど欲しいと思ったものはなく、それまでに見た一番美しいものだった
母:あなたの誕生日とクリスマスを一緒にして買ってあげてもいいわ
私は「毛布だけでいいわ」と言った
私は7歳ですでにお金を理解していた
テニスを続けるには多額の遠征費用がかかる
また、ユーゴスラビア国外に行くには交換レートの関係で旅費がかさむ
英語は私のほうが話せたので、航空券の予約、一番安いホテルをとるのは私の役割だった
いくらか稼げるようになってからも変わらなかった
やりくりに苦心していた人が突然大金を手にすると2通りある
1つは浪費家 スポーツカー


プロテニスプレイヤーには、交通費、ヒッティングパートナー代、
理学療法士代、コーチ代、ホテル代など支出にはきりがない
お金は役立つが、所詮、目的のための手段にすぎない
私のゴールはお金ではない いいテニスをすることだ
「お金には人生を変える力がある」と両親は昔からよく言っていた
私が20万ドルもらうようになっても、私たちはフェラーリを買ったりはしなかった
1991、1992年、私は賞金王に輝いた時も両親は警告した
「お金は入っては出ていくものだと忘れないように」
1993年の事件から2年間 私にはまったく収入がなかった
スポンサーの中には、私を告訴すると決めたところもあった
私は7歳に買ってもらったコットンの掛け布団を今でも持っている
大切なものは何ひとつ変わっていない それが可笑しくてならない

私の自我と母が娘に望むものが徐々に対立した
1989年の全仏オープンのために髪をブロンドに染めたかったが
母:あなたはまだ15歳よ 18歳になったらなんでもしていいんだから
私は母が帰国している間にブロンドに染め、変わったウェアで全仏オープンに臨んだ
子どもの頃、バービー人形などの服を作るのが大好きで
自分のウェアを自らデザインしたいと思った
家の近くのテニスショップを何軒かまわり、風変わりなウェアを何着か買った
全仏オープンとウィンブルドンは、祖国のテレビで見たただ2つのグランドスラムで夢だった
パリに着き、まず誰もいないスタジアムの観客席の一番上に座り
「いつかこのトーナメントで優勝するわ」とつぶやいた
3回戦はジーナ・ガリソン 失うものは何もない
センターコートに向かう途中、両親の知人の子どもが赤いバラの花束をくれた

コートに置くわけにはいかないので、ファンに向かって高く放り上げた
クレーは私の好きなコートで、6-3 6-2で勝利した
試合後の会見で称賛を浴びると思っていたが
「バラを投げたのはどうしてですか?」といきなり質問攻めにあった
私はひどく混乱した
名前が知られるほど、一挙一動が詮索の的になることを初めて思い知った
準決勝 グラフ どんな試合も40分以内で片付け、2年間NO.1
第1セットは3-6、第2セットは6-3
グラフが私を1時間以内で破れないことに誰もが驚いた
試合中、何度もガットを切り、ラケットをかえなくてはならず
新しいガットとグリップに違和感を覚え、3-6で落とした
それでも失望はなく、学んだことのほうが多かった
1つは、無意識の行動がマスコミの的になること
2つ目は、ガットをテクニファイバーに替える時期
最後に一番大切なこと どんな強敵が相手でも充分戦える
いつか必ず勝てるだろうと確信を持った
全仏オープンからウィンブルドンまではたったの2週間で
クレーから芝に調整しなければならない
ウィンブルドンは唯一芝のトーナメントで万全に供えることは不可能に近い
一般的に球足が速いと言われるが、天候、日によって、1試合のうちでさえ変化することがある
私と父が練習を始めると、ピート・サンプラスとコートが隣りになった
「未来の世界NO.1だ」と父は予言した
1回戦は無敵の強力サーヴァー、ブレンダ・シュルツ
長身で、サーヴが決まれば全く打ち返せない
2時間半が過ぎ、第3セットを取った時、疲労の極致だった
プロとしてテニスをしていると、重要な段階が何度かあるものだ
私にとっては全仏オープンの準決勝、ウィンブルドンでベスト16に残れたこと
次の相手はグラフ 0-6 1-6 ストレートで負けて
唯一つのいい思い出は、ダイアナ妃が観戦していて私を見てくれたことだ
その年の全米オープンは、私には最初、クリスにとっては最後だった
彼女はその年いっぱいで引退を決めていた 勝ち進めば4回戦であたる
もし私が勝てば、クリスが全米オープンで有終の美を飾るのを
阻んだ少女として記憶に残るのは耐えられない
クリスの後日談:
あの日、私も本当に緊張していた 前回あなたに負けただけに
また15歳の少女に負けてキャリアを終わらせたくないと思った
私も極限まで緊張していた
クリスはとくにバックハンドはほぼミスがない
私は0-6 2-6で敗れた
いつか私もすべての雑念を振り払い、集中する術を身につけようと思った
クリスは次のジーナ・ガリソンに敗れたが、今も彼女の栄光を奪うことは出来ない
1989年は、その頃の私のヒロイン全員と試合した
グラフ、クリス、そしてついに初めてダラスの決勝戦でマルチナ・ナブラチロワと対戦した
3セットで敗れたがいい試合で、私は誇らしかった
決勝に進んだお蔭で11月のヴァージニア・スリム・チャンピオンシップの出場権を得た
フィリップ・モリス社は、シーズンの終わりにNYマディスン・スクエェア・ガーデンで
世界ランキング16位までのトーナメントを開く
私はプロ転向1年目で仲間入りした
序盤戦でまたマルチナに負けたが「粘り強い」という定評がついたのはそこからではないだろうか
「プロ入りして1年目で6位までのし上がった 来年はきっとトップ3に入るだろう」と各紙が書いた
新聞を見るのが怖くなり、極力見ないようになった
しかし期待され始めてから、次第に勝つことが気になりはじめた

<1990 シカゴ>
1回戦で負け、肩関節と回旋筋腱板に炎症を起こした
ボカ・ラトンではマスコミの関心は、13歳の天才少女ジェニファー・カプリアティの
プロとしての初トーナメントに集まった
新聞は決勝戦で私たちが対決することを期待したが、私は3回戦敗退
更衣室で失意していると、元プレイヤーで、今はWTAスタッフのレスリー・アレンが
「少しアドバイスしていい? 調子の悪い日は誰にもあることを忘れないほうがいいわ」
ツアーで誰かに親切な言葉をかけられたのは、それが初めてだ
ジェニファーは決勝戦でガビーに敗れた 私は少しマスコミの関心から解放された
リプトンでは対戦表を見るのをやめ、1試合1試合こなすことだけ言い聞かせた
4回戦は、シカゴで負けたロス・フェアバンクス
私は緊張すると独り言を言う癖がある「落ち着くのよモニカ」
彼女を負かすには効果的なパッシングショットが必要
その日、私は失敗を恐れず、ストレート勝ち
4回戦でジェニファーは敗れ、対戦は実現しなかった
私は優勝し、自信を取り戻すには大きな勝利が必要だった
次のテキサスでも優勝 調子が戻ったことに父と興奮した
フロリダに戻ると
「アカデミーのスタッフは、今後もうあなたたちにはコートを使わせないように言われている」
誰も説明が出来ないまま、公営のコートを探した
ニックの決定はいつも手紙で伝えられる
「申し訳ないと思うが、このまま今まで通りの関係を続ける理由が見い出せないのです」
私は今でも理由が分からないが、ニックの行動は珍しくなかった
アガシですら一通の手紙でアカデミーを追われている

とにかく彼は、テニスを愛する多くの子どもたちに奨学金を与え続けた
それは私にとっても有り難いものだった
それより1ヵ月後のイタリアン・オープンまでに
プライベートのコートがある新しい家を見つけなければならない
サラソタの公営コートはいつも混み、長時間待たされた挙句1時間単位の練習
しかもハードコートで、エッカード・オープンはクレーだったがなんとか優勝できた
近くにプライベートのコートがあるサラソタに小さな家を見つけて喜んだが
周辺の住人が皆テニス好きで午後までコートがあかない状態だった
イタリアン・オープンは1つのターニングポイントだった
決勝戦の相手はマルチナ いつもハードな試合になる 私と同じ左利きだから
これまでの中で最も短い試合になった 6-1 6-1で優勝したのだ
マルチナ「まるでトラックに轢かれたような気分だ」(彼女はほんとユーモアがあるな

私にとって、テニスは数のゲームでしかなかった
サーヴ、ボレー、スマッシュ、エースを何本決められるか