■天皇のそばにいた男 鈴木貫太郎 太平洋戦争最後の首相@歴史秘話ヒストリア
●2.26事件の生々しい妻たかの録音テープ
千葉県 野田市 関宿 鈴木貫太郎が晩年を過ごした地
上原さんのお宅にこれまで知られなかった録音テープ残されていた
鈴木の妻が夫との思い出を語った肉声
2.26事件の生々しい証言だった
妻:
ヒマがありませんから 撃ちます
パンパンパンパンと撃つと、そこに倒れてしまいましたからね
眉間に1つ当たって、1つは肩に当たって
1つは心臓の右の方へ当たって、1つが横腹へあたって
眉間からも胸のところからも血がドロドロドロドロ出てくるんです
戦後の昭和40年に近所で交流のあった農家の上原さんの要望に応じて録音したもの
普段は冷静で物事に動じないタカが、その時ばかりは様子が違ったと言う
上原さん:
ちょっと蒸気しちゃって 奥さんが赤い顔になっちゃって
小刻みに手が震えているというか 興奮して
やっぱり語るってことは思い出しちゃうんですよね、その情景や、その時の雰囲気を
【昭和11年(1936年) 2月26日未明に起きた2.26事件】
陸軍陸軍青年将校らに率いられた約1500人の兵士が、首相ら政府要人を襲撃 9人が殺害された
首相官邸や警視庁など、東京の中枢をわずか数時間で占拠した
「天皇親政」を目指し、「国家改造」を実現しようとしたこの行動は、
近代日本史上最大のクーデター事件と言われる
【鈴木貫太郎記念館】
この事件で鈴木が襲われた状況はどのようなものだったのか
鈴木の家の跡地に建てられた記念館には、それを物語る絵画が展示されている
当時鈴木は、昭和天皇側近の「侍従長」で、すでにその職に7年間ついていた
タカ:
何人くらいいたんでしょうね 兵隊さんが入ってきて
「閣下でありますか」って聞いているんですよ
「ああ、そうだ 私は鈴木だ 何事が起こってこの騒ぎをしているのか 話したらいいじゃないか」
誰も返事はしないんですよね
私の所は兵隊が入ってくると、2人で剣付鉄砲でね
座っているんですからね、どうすることも、動くこともできない
そのうちに軍曹が来てね「ヒマがありませんから撃ちます」「じゃあ撃て」 パンパンパンパン
毅然たる態度の鈴木に銃弾4発が撃ち込まれた
タカ:
兵隊さんたちは「とどめ! とどめ!」て大きな声で言ってたんですよ
私はこうやって見ていると、まだ主人が息をしていますからね
別れでもね、ひと言生きてる間に別れを言いたいと思って
「とどめだけはどうか待ってください」
安藤大尉はそれを聞いてね「とどめは残酷だからよせ みんな彼に対して敬礼をしろ」
するとみんなパタパタと座って、敬礼していきましたがね
安藤さんが私のそばに来て「奥さんですか」って言うから「そうです」
「何事が起こってこんなことになりましたか」て私聞いたんです
「閣下の考えていることと、我々、躍進日本を志している若い者とは意見の相違です」って
●元々鈴木は生粋の海軍軍人
幾多の死戦を乗り越え任務を全うした
日露戦争では、ロシアのバルチック艦隊と放火を交え、日本軍の勝利へと貢献した
その後、鈴木は連合艦隊司令長官、海軍軍令部長を歴任 海軍トップにまで上り詰めた
40年に及ぶ軍人としての人生 その中で鈴木には揺るがない信念があった
「軍人は政治に関与せざるべし」
●鈴木貫太郎と昭和天皇との縁
ところが昭和4年(1929)61歳の時、思いがけなく天皇との縁が生まれる
宮中の重要な役職である侍従長に推挙された
見込まれたのは、「君側の忠」
私利私欲なく天皇に仕えるであろう誠実な人柄だった
「侍従長」とは、天皇の身の回りの世話をするのが役目だが
それにとどまらず、公私両面で天皇の相談相手、
首相や大臣の拝謁の場に同席するなど重要な職務を担い、
天皇の側近中の側近となっていた
●青年将校たちの「決起趣意書」
しかし2.26事件の首謀者たちは「君側の奸」(天皇のそば近くで悪政を行うものとみなす)とし
鈴木は国家体制を破壊する重臣の一人として標的とされた
タカは撃たれた夫の止血に無我夢中であたったが、血の海に浸かり、
駆けつけた医者が、流れ出た血で滑って転ぶほどで、一時は脈も絶えたという
一方でタカは宮中に鈴木の大事を告げた
昭和天皇は陸軍部隊の暴挙に怒りをあらわにした
「朕が最も信頼する老臣を 悉く倒すは 真綿にて朕が首を絞むるに等しきことなり」
信頼する老臣とは鈴木らのことだった
●勅命が下る
天皇は彼らを反乱軍とみなし断固鎮圧を命じ、2.26事件は4日で終息した
鈴木は妻の素早い処置の甲斐もあってか、奇跡的に一命を取り留めたが
この年、長く勤めた侍従長を退くことになった
●幼い昭和天皇とタカが着用した衣服
タカが生涯大切にしていたものが残されている
タカは、昭和天皇が4歳に迪宮(みちのみや)と呼ばれていた頃から養育係を務めていた
残されていたテープには、幼い昭和天皇との親密な関係を忍ばせる話があった
タカ(明治38年 宮中での対面初日の回顧談):
可愛いお子様方でね 不思議にね、お上がちょっと私の膝にお腰掛けになるんですよ
やっぱり何かご縁があったんでしょうね
それでもう何かっていうとお召しになる
昭和天皇自身も「タカとは本当に私の母親と同じように親しくした」と懐かしむほどだった
タカは宮中に20年ほど務めた後、鈴木の妻となった
天皇にとって鈴木とタカは、信頼厚い特別な夫婦だった
鈴木は後に再び昭和天皇と日本にとって極めて重要な局面を共にすることになる
●昭和20年8月15日 終戦
アメリカなど連合国を相手に「太平洋戦争」を戦った日本は、
「ポツダム宣言」を受諾し、終戦を迎えた
この重大な時期に、総理大臣となったのが鈴木貫太郎だった
鈴木は首相就任の要請を再三固辞した
理由は、すでに77歳という過去にないほどの高齢で、耳も遠いこと
「軍人は政治に関与せずせざるべし」という信念
その鈴木に対して、直々に頼んだのが昭和天皇だった
「この重大な時に当たって、もう他に人はいない 頼むからどうか曲げて承知してもらいたい」
「私は、私の最後のご奉公と考えまする」
●昭和20年4月 首相に就任
その頃、もはや日本の敗北は決定的
しかし、「戦争を継続し、本土決戦に臨むべきだ」という声もあった
そうした中、「戦争をどう終わらせるか」ということは、非常に重く、難しい問題だった
戦争終結を実現させていった過程で、誰が、
どんな働きをしたかについては、様々な証言や見解がある
今回の番組では、鈴木貫太郎を軸にして、終戦の決断を見ていく
●敗戦6日前 8月9日
鈴木は、皇居の地下防空壕で開かれた緊急会議に臨んでいた
議題は、2週間前に連合国側から突きつけられた「ポツダム宣言」を受け入れるか否か
口火を切ったのは議長役の鈴木だった
「戦争継続は不可能というほかはなく、ポツダム宣言は受諾せざるを得ないのではないか
皆の意見が聞きたい」(会議出席者の手記より)
●ポツダム宣言は日本に対する降伏勧告だった
連合国側による「日本占領」「軍隊の武装解除」「戦争犯罪人の処罰」などを強く求めていた
日本は、この3日前、8月6日、広島に原爆を落とされ、一瞬にして多くの人の命が失われた
さらに会議の日の未明には、ソ連が満州に攻め込んでいた
日本は宣言受諾を具体的に検討しなければならない状況に追い込まれていた
●政府と軍部を代表する「最高戦争指導会議」
国家の命運を担い、決断を迫られていたのは、首相の鈴木をはじめ、この6人
鈴木を含め出席者らは「ポツダム宣言」を受諾するしかないという点では一致していた
だが問題は、受け入れるにあたって、日本側から条件を付けるかどうかだった
どういう条件ならば「ポツダム宣言」受諾が可能か
外務大臣・東郷茂徳:
条件を多く出すと、連合国側との間で交渉決裂の恐れがある
絶対必要な条件だけに限る必要がある
まず東郷から条件を1つだけに絞るという意見
その一つとは「国体護持」 国体を守ることだった
「国体」とは、大日本帝国憲法のもとで、天皇は統治者と定めた国のあり方ということ
それに反対した中心人物は、陸軍大臣・阿南惟幾だった
阿南:
国体護持は当然のこと それに加えて占領は短期間かつ小範囲
そして、武装解除と、戦争犯罪人の処罰は、日本側が行うという条件を主張する
「手足をもがれて どうして国体を護持できるか」
学習院大学学長 井上さん:
軍部にとっては神がかり的な「現人神」としての天皇を守らなければいけない
あるいは日本というのは「神の国」である
その神の国の体制としての国体を護持するんだという非常に極端な考え方もあった
一方で外務省のような立場から見ると、
皇室の存続さえできれば、あとは何とかなるということもあって、
どういう形で戦争を終えることができるのかということが
このマジックワード「国体護持」につまずいて、なかなかできないという状況だった
●会議の最中、2発目の原発原爆が長崎に投下された
しかし、その情報が入っても、閣議は延々と続いた
鈴木は結論を導くことはできなかった
鈴木は午後2時30分、「臨時会議」を開き、議論の場を移した
しかしここでも「ポツダム宣言」受諾の条件をめぐって
東郷外務大臣と阿南陸軍大臣が対立する構造は同じ 他の閣僚の意見も割れた
閣議が始まって6時間以上経っても合意には至らなかった
(場所を変えたくらいで、信念が変わるはずもない
鈴木はこの間、積極的な発言はしなかった
もっぱら聞き役に回り、意見を存分に述べてもらうこととした
国家が危機へ一歩一歩と近づいている時に、
ある者の意見によって、他を抑えるということになれば
すぐにも内閣は瓦解してしまう
そうなればこの戦争の始末は誰がつけるか 終戦への道を閉ざしかねない
●鈴木には、陸軍の存在が大きな懸念材料だった
明治大学文学部兼任講師日本近現代史・山本さん:
戦争となると、軍事情報が非常に大切になる
その軍事情報を独占することによって、政府よりも有利な立場に立つ陸軍は
敗戦時でも550万人という巨大組織で、もし爆発すれば政府としてはものすごい脅威になるはず
周到に事を進めなければ あの2.26事件のような軍部の反乱クーデターを引き起こしかねない
頼みの綱は2.26事件でも鎮圧に動いた昭和天皇だった
この膠着した事態を打開するため、鈴木は「御前会議」を開き、天皇臨席のもとで方針を決定しようとした
【8月10日 異例の時刻 午前0時から「御前会議」が始まる】
しかし2時間経っても結論は出せなかった
ついに鈴木は天皇に決断を仰ぐ
鈴木:
議論を尽くしましたが決定に至らず、しかも事態は一刻の猶予も許しません
誠に畏れ多いことながら「聖断」を拝して、会議の結論といたしたく存じます
●「聖断」とは、天皇自らが下す決断
本来天皇は、「大日本帝国憲法体制」のもとでは、政府の決定事項に対して「裁可」を行う存在
決定された事柄の責任は政府が負い、天皇は「無答責」 つまり責任を負わないとされていた
天皇に判断を委ねることは、まさに異例だった
井上さん:
帝国憲法の下では、天皇の「無答責」が非常に重要で、
天皇に何か政治的意思決定したことに対して責任を負わせない
それによって帝国憲法のもとでの政治体制を続けてきた
それがもし、天皇自らが「戦争をやめる」という決断をすることは、天皇に責任が及んでしまう
天皇のひと言で戦争が終えられるのであれば、何でもっと前に終えなかったのかと
8月6日以前であれば、2つの原爆投下も避けられたではないか
ソ連参戦も避けられたではないか
なぜここまで引き延ばしたんだ
ということが、後から重大な問題になりかねないということだった
沈黙を守っていた天皇は、鈴木に促される形で発言した
「私の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」
天皇による「聖断」により、日本側から出す条件は「国体護持」だけにする方針が決まった
それを受け、日本政府は連合国側に対して「国体護持」の1条件が守られるという了解のもとに
「ポツダム宣言」受諾を通告 その確認を求めた
こうしてひとつのハードルは超えたが、この後も数々の困難が待ち受けていた
【8月12日 日本の通告に対して連合国側からの回答があった】
しかしそれは「国体護持」について具体的に答えず、判断に迷う文章が含まれていた
“天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合軍最高司令官の制限のもとに置かれるものとする”
この“subject to(制限のもと)”という回答に対し、
異議を唱えたのがまたもや陸軍大臣の阿南
陸軍は不満をあらわにする
「これでは、天皇の上に統治者がいることになってしまう これ国体の根本的破壊なり」
このような状況で鈴木はどうやって「ポツダム宣言」の受諾までこぎつけたのか
【8月13日午前9時「最高戦争指導会議」が再度開かれた】
この日、鈴木はこれまでになく明確に自らの意見を述べた
「問題を故意に破局に導き、継戦を強行するのは下心ならん」
鈴木は「ポツダム宣言」に反対する意見を非常識とし、強い言葉で非難 受諾を主張した
実は会議に先立ち、海外からの一通の緊急電報が在外日本公使から鈴木の元に届いていた
連合国側からの回答文の作成過程を伝える内部情報だった
そこには、日本が「人民主権」に基づく西洋流の「立憲君主制」を取るべきことが記されていた
たとえ日本が降伏しても、天皇と皇室は存続を認められると解釈することができた
電報の内容は、昭和天皇にも伝えられたと思われる
天皇は陸軍大臣の阿南を呼んで「国体護持」に不安を感じるという阿南に対して
「阿南 心配するな 自分には確証がある」と言った
【13日午後4時 臨時閣議が開かれた】
その席でも阿南は「ポツダム宣言」の即時受諾には同意しなかった
当時、陸軍内部には、戦争の継続を唱える「主戦派」がおり
クーデターによる軍部主導の政権樹立も辞さない構えだった
(この期に及んでまだ戦争を続けるって狂気の沙汰を超えてる!
中堅将校たちは、阿南のもとに押しかけ
「もしもポツダム宣言受諾を阻止できなければ大臣は切腹すべきである」
(切腹って・・・まだ武家社会か?
天皇に説得されても、強硬な姿勢を取り続けた阿南だが、
異なる一面を覗かせる発言が残されている
「本心では和平を請い願いながらも、陸軍の若手の暴発を懸念し、
これを抑えるため、陸相が心にもない挙措を取ったことが度々あったように思う」
これを裏付けるかのように、阿南は不可解な行動をとっている
閣議の最中に阿南は部屋を出て、陸軍省に電話をかけた
「閣議では、君たちの意見を了解する方向に向かいつつあるから、
君たちは私が帰るまで、動かずに、じっとしていてほしい」
ポツダム宣言を受諾しないことになりそうだと伝える阿南
でも実際の閣議では、阿南の立場は劣勢だった
阿南が主戦派の暴発を抑えるための行動だと考えられる
山本さん:
主戦論がまかり通っている状況では、阿南は内心、早期講和と思っていても、
なかなかその主張はできないような状態にある そこで苦労している
阿南は元々この戦争が勢いで始まったことをよく知っていて
その戦争をやめるには急ブレーキでは無理だということを認識していた
事態は切迫していた
【8月13日アメリカ軍が空から宣伝ビラをまいた】
「日本の皆様」と題したビラには、あの「subject to」
日本政府の権限を連合国の下に置くと記された回答文が記されていた
天皇は危惧した
これが軍隊内に広く知れ渡ればクーデターが起きる 決定を少しでも早くしなければならない
鈴木ももはや時間はないと決意を固めた
「参内してご聖断のことをお願いしましょう」
聖断は天皇自身が意思決定を行う特別な行為
それを一度ならず二度までも求める異例中の異例の行動に出ようとした
【8月14日午前8時40分 鈴木は天皇に御前会議の開催を願い出た】
天皇は承諾 さらに軍部によるクーデター計画を防ぐため、自ら御前会議の時間を繰り上げた
昭和天皇と鈴木の考えは一致していた
井上さん:
一歩間違えると2.26事件の再来のようなことになって、クーデターが起き、
意思決定の主体が完全に失われ、外と戦争しながら、国内で内戦状態にもなりかねない
そういう悪いシナリオが描けていく中で、最後は天皇の意思を直接動員するような
ギリギリの線まで使ってでもやっていこうとした
【午前11時過ぎ 再び御前会議が開かれた】
天皇の命で、閣僚や、最高戦争指導会議のメンバーなどが集められた
鈴木は昭和天皇に対し、閣僚の大部分が連合国側の回答を受け入れることに賛成だが
全員一致には至っていない 再度のご聖断を仰ぎたい旨を述べた
鈴木の発言を受け、昭和天皇は、
「自分の先般の考えに変わりはない 国体に動揺をきたすということが そうは考えない
戦争を継続することは、結局国体の護持もできず、ただ玉砕に終わるのみ
どうか反対の者も、自分の意見に同意してほしい」
こうした内容の言葉を発し、日本はポツダム宣言受諾の結論にたどり着いた
阿南も宣言の受け入れを認めた
●陸軍将校たちの怒りは爆発する
「大臣は変節されたのか!」
しかし阿南の意志は揺らぐことがなかった
「終戦の詔書」に阿南も含めた閣僚の全員が署名した
実は阿南は、鈴木内閣の一員として陸軍大臣になった後、その胸中をこう語っていたという
「自分の立場は苦しいんだ 苦しんであるけれどもが 必ず鈴木総理と共にするのだ
また、日本を救い得るというのは、どうも鈴木内閣以外にないように思う」
【8時8月14日午後11時 阿南は鈴木の元を一人訪れた】
阿南:
総理には大変ご迷惑をおかけしたと思います
私の真意はただ一つ 国体を護持せんとするにあったのでありまして
この点どうぞご了解くださいますように
鈴木:
そのことはよく分かっております しかし阿南さん 皇室は必ずご安泰ですよ
私は日本の前途に対しては決して悲観しておりません
阿南は一礼し静かに去っていった
鈴木:阿南君は暇乞いに来たのだね
●阿南陸軍大臣の遺書
阿南は翌朝、天皇のいる宮中に向かい割腹自決した
残された遺書には、その時流れ出た血が染み込んでいる
「一死以ッテ大罪ヲ謝シ奉ル」
(血をわざわざ遺書に吹き飛ばすなんて、なんて狂った時代だ 胸が悪くなる/汗
決断が遅れて、原爆が2つも落とされたことに対して、政府などの責任も当然問われるけれども
若い兵隊らまで絡んでいたことまでは知らなかった
みな死にたかったのか? 平常心じゃなかったのはたしか
●昭和20年(1945)8月15日終戦
鈴木は閣僚全員の辞表を取りまとめて昭和天皇に奉呈し、内閣を総辞職した
その鈴木を天皇はこう労った「ご苦労をかけた」
昭和天皇は自らの聖断で戦争が終わったことに触れてこうつぶやいた
「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことができたのだ」
日本はようやく終戦を迎えたが、指導者たちの決断までの間に
国内外で多大な犠牲が生まれたことは紛れもない事実だった
鈴木貫太郎は公職から退き、現在の千葉県野田市関宿で妻たかと余生を送った
鈴木肉声:ただ今、郷里に帰って畑を相手に致して生活しております
【昭和23年4月17日 鈴木貫太郎死去 享年80】
鈴木はたかに背中をさすられながらこう呟いたという
「永遠の平和 永遠の平和」
【実相寺】
鈴木はたかと一緒に小さな墓で眠っている
鈴木は生前自らの戒名を決めていた その中にこの文字がある
「尽忠」(忠義をもって尽くすこと)
鈴木が荼毘に付された後、その灰の中には、2.26事件の時に撃ち込まれた銃弾が残っていたという
***
番組の最後に次回の予告が入っていて、
「桜田門外の変」で井伊大老を暗殺した凶器が拳銃だと分かったとか/驚
NHK放送90年イメージソング ♪平和の鐘が鳴る/サザン・オールスターズ も流れた
その他の番宣
丹下健三は、その作品に戦後の理想を託していた
(大阪万博で太郎とコラボった人だよね
『時代をプロデュースした者たち』
萩原聖人さんが出てる
●2.26事件の生々しい妻たかの録音テープ
千葉県 野田市 関宿 鈴木貫太郎が晩年を過ごした地
上原さんのお宅にこれまで知られなかった録音テープ残されていた
鈴木の妻が夫との思い出を語った肉声
2.26事件の生々しい証言だった
妻:
ヒマがありませんから 撃ちます
パンパンパンパンと撃つと、そこに倒れてしまいましたからね
眉間に1つ当たって、1つは肩に当たって
1つは心臓の右の方へ当たって、1つが横腹へあたって
眉間からも胸のところからも血がドロドロドロドロ出てくるんです
戦後の昭和40年に近所で交流のあった農家の上原さんの要望に応じて録音したもの
普段は冷静で物事に動じないタカが、その時ばかりは様子が違ったと言う
上原さん:
ちょっと蒸気しちゃって 奥さんが赤い顔になっちゃって
小刻みに手が震えているというか 興奮して
やっぱり語るってことは思い出しちゃうんですよね、その情景や、その時の雰囲気を
【昭和11年(1936年) 2月26日未明に起きた2.26事件】
陸軍陸軍青年将校らに率いられた約1500人の兵士が、首相ら政府要人を襲撃 9人が殺害された
首相官邸や警視庁など、東京の中枢をわずか数時間で占拠した
「天皇親政」を目指し、「国家改造」を実現しようとしたこの行動は、
近代日本史上最大のクーデター事件と言われる
【鈴木貫太郎記念館】
この事件で鈴木が襲われた状況はどのようなものだったのか
鈴木の家の跡地に建てられた記念館には、それを物語る絵画が展示されている
当時鈴木は、昭和天皇側近の「侍従長」で、すでにその職に7年間ついていた
タカ:
何人くらいいたんでしょうね 兵隊さんが入ってきて
「閣下でありますか」って聞いているんですよ
「ああ、そうだ 私は鈴木だ 何事が起こってこの騒ぎをしているのか 話したらいいじゃないか」
誰も返事はしないんですよね
私の所は兵隊が入ってくると、2人で剣付鉄砲でね
座っているんですからね、どうすることも、動くこともできない
そのうちに軍曹が来てね「ヒマがありませんから撃ちます」「じゃあ撃て」 パンパンパンパン
毅然たる態度の鈴木に銃弾4発が撃ち込まれた
タカ:
兵隊さんたちは「とどめ! とどめ!」て大きな声で言ってたんですよ
私はこうやって見ていると、まだ主人が息をしていますからね
別れでもね、ひと言生きてる間に別れを言いたいと思って
「とどめだけはどうか待ってください」
安藤大尉はそれを聞いてね「とどめは残酷だからよせ みんな彼に対して敬礼をしろ」
するとみんなパタパタと座って、敬礼していきましたがね
安藤さんが私のそばに来て「奥さんですか」って言うから「そうです」
「何事が起こってこんなことになりましたか」て私聞いたんです
「閣下の考えていることと、我々、躍進日本を志している若い者とは意見の相違です」って
●元々鈴木は生粋の海軍軍人
幾多の死戦を乗り越え任務を全うした
日露戦争では、ロシアのバルチック艦隊と放火を交え、日本軍の勝利へと貢献した
その後、鈴木は連合艦隊司令長官、海軍軍令部長を歴任 海軍トップにまで上り詰めた
40年に及ぶ軍人としての人生 その中で鈴木には揺るがない信念があった
「軍人は政治に関与せざるべし」
●鈴木貫太郎と昭和天皇との縁
ところが昭和4年(1929)61歳の時、思いがけなく天皇との縁が生まれる
宮中の重要な役職である侍従長に推挙された
見込まれたのは、「君側の忠」
私利私欲なく天皇に仕えるであろう誠実な人柄だった
「侍従長」とは、天皇の身の回りの世話をするのが役目だが
それにとどまらず、公私両面で天皇の相談相手、
首相や大臣の拝謁の場に同席するなど重要な職務を担い、
天皇の側近中の側近となっていた
●青年将校たちの「決起趣意書」
しかし2.26事件の首謀者たちは「君側の奸」(天皇のそば近くで悪政を行うものとみなす)とし
鈴木は国家体制を破壊する重臣の一人として標的とされた
タカは撃たれた夫の止血に無我夢中であたったが、血の海に浸かり、
駆けつけた医者が、流れ出た血で滑って転ぶほどで、一時は脈も絶えたという
一方でタカは宮中に鈴木の大事を告げた
昭和天皇は陸軍部隊の暴挙に怒りをあらわにした
「朕が最も信頼する老臣を 悉く倒すは 真綿にて朕が首を絞むるに等しきことなり」
信頼する老臣とは鈴木らのことだった
●勅命が下る
天皇は彼らを反乱軍とみなし断固鎮圧を命じ、2.26事件は4日で終息した
鈴木は妻の素早い処置の甲斐もあってか、奇跡的に一命を取り留めたが
この年、長く勤めた侍従長を退くことになった
●幼い昭和天皇とタカが着用した衣服
タカが生涯大切にしていたものが残されている
タカは、昭和天皇が4歳に迪宮(みちのみや)と呼ばれていた頃から養育係を務めていた
残されていたテープには、幼い昭和天皇との親密な関係を忍ばせる話があった
タカ(明治38年 宮中での対面初日の回顧談):
可愛いお子様方でね 不思議にね、お上がちょっと私の膝にお腰掛けになるんですよ
やっぱり何かご縁があったんでしょうね
それでもう何かっていうとお召しになる
昭和天皇自身も「タカとは本当に私の母親と同じように親しくした」と懐かしむほどだった
タカは宮中に20年ほど務めた後、鈴木の妻となった
天皇にとって鈴木とタカは、信頼厚い特別な夫婦だった
鈴木は後に再び昭和天皇と日本にとって極めて重要な局面を共にすることになる
●昭和20年8月15日 終戦
アメリカなど連合国を相手に「太平洋戦争」を戦った日本は、
「ポツダム宣言」を受諾し、終戦を迎えた
この重大な時期に、総理大臣となったのが鈴木貫太郎だった
鈴木は首相就任の要請を再三固辞した
理由は、すでに77歳という過去にないほどの高齢で、耳も遠いこと
「軍人は政治に関与せずせざるべし」という信念
その鈴木に対して、直々に頼んだのが昭和天皇だった
「この重大な時に当たって、もう他に人はいない 頼むからどうか曲げて承知してもらいたい」
「私は、私の最後のご奉公と考えまする」
●昭和20年4月 首相に就任
その頃、もはや日本の敗北は決定的
しかし、「戦争を継続し、本土決戦に臨むべきだ」という声もあった
そうした中、「戦争をどう終わらせるか」ということは、非常に重く、難しい問題だった
戦争終結を実現させていった過程で、誰が、
どんな働きをしたかについては、様々な証言や見解がある
今回の番組では、鈴木貫太郎を軸にして、終戦の決断を見ていく
●敗戦6日前 8月9日
鈴木は、皇居の地下防空壕で開かれた緊急会議に臨んでいた
議題は、2週間前に連合国側から突きつけられた「ポツダム宣言」を受け入れるか否か
口火を切ったのは議長役の鈴木だった
「戦争継続は不可能というほかはなく、ポツダム宣言は受諾せざるを得ないのではないか
皆の意見が聞きたい」(会議出席者の手記より)
●ポツダム宣言は日本に対する降伏勧告だった
連合国側による「日本占領」「軍隊の武装解除」「戦争犯罪人の処罰」などを強く求めていた
日本は、この3日前、8月6日、広島に原爆を落とされ、一瞬にして多くの人の命が失われた
さらに会議の日の未明には、ソ連が満州に攻め込んでいた
日本は宣言受諾を具体的に検討しなければならない状況に追い込まれていた
●政府と軍部を代表する「最高戦争指導会議」
国家の命運を担い、決断を迫られていたのは、首相の鈴木をはじめ、この6人
鈴木を含め出席者らは「ポツダム宣言」を受諾するしかないという点では一致していた
だが問題は、受け入れるにあたって、日本側から条件を付けるかどうかだった
どういう条件ならば「ポツダム宣言」受諾が可能か
外務大臣・東郷茂徳:
条件を多く出すと、連合国側との間で交渉決裂の恐れがある
絶対必要な条件だけに限る必要がある
まず東郷から条件を1つだけに絞るという意見
その一つとは「国体護持」 国体を守ることだった
「国体」とは、大日本帝国憲法のもとで、天皇は統治者と定めた国のあり方ということ
それに反対した中心人物は、陸軍大臣・阿南惟幾だった
阿南:
国体護持は当然のこと それに加えて占領は短期間かつ小範囲
そして、武装解除と、戦争犯罪人の処罰は、日本側が行うという条件を主張する
「手足をもがれて どうして国体を護持できるか」
学習院大学学長 井上さん:
軍部にとっては神がかり的な「現人神」としての天皇を守らなければいけない
あるいは日本というのは「神の国」である
その神の国の体制としての国体を護持するんだという非常に極端な考え方もあった
一方で外務省のような立場から見ると、
皇室の存続さえできれば、あとは何とかなるということもあって、
どういう形で戦争を終えることができるのかということが
このマジックワード「国体護持」につまずいて、なかなかできないという状況だった
●会議の最中、2発目の原発原爆が長崎に投下された
しかし、その情報が入っても、閣議は延々と続いた
鈴木は結論を導くことはできなかった
鈴木は午後2時30分、「臨時会議」を開き、議論の場を移した
しかしここでも「ポツダム宣言」受諾の条件をめぐって
東郷外務大臣と阿南陸軍大臣が対立する構造は同じ 他の閣僚の意見も割れた
閣議が始まって6時間以上経っても合意には至らなかった
(場所を変えたくらいで、信念が変わるはずもない
鈴木はこの間、積極的な発言はしなかった
もっぱら聞き役に回り、意見を存分に述べてもらうこととした
国家が危機へ一歩一歩と近づいている時に、
ある者の意見によって、他を抑えるということになれば
すぐにも内閣は瓦解してしまう
そうなればこの戦争の始末は誰がつけるか 終戦への道を閉ざしかねない
●鈴木には、陸軍の存在が大きな懸念材料だった
明治大学文学部兼任講師日本近現代史・山本さん:
戦争となると、軍事情報が非常に大切になる
その軍事情報を独占することによって、政府よりも有利な立場に立つ陸軍は
敗戦時でも550万人という巨大組織で、もし爆発すれば政府としてはものすごい脅威になるはず
周到に事を進めなければ あの2.26事件のような軍部の反乱クーデターを引き起こしかねない
頼みの綱は2.26事件でも鎮圧に動いた昭和天皇だった
この膠着した事態を打開するため、鈴木は「御前会議」を開き、天皇臨席のもとで方針を決定しようとした
【8月10日 異例の時刻 午前0時から「御前会議」が始まる】
しかし2時間経っても結論は出せなかった
ついに鈴木は天皇に決断を仰ぐ
鈴木:
議論を尽くしましたが決定に至らず、しかも事態は一刻の猶予も許しません
誠に畏れ多いことながら「聖断」を拝して、会議の結論といたしたく存じます
●「聖断」とは、天皇自らが下す決断
本来天皇は、「大日本帝国憲法体制」のもとでは、政府の決定事項に対して「裁可」を行う存在
決定された事柄の責任は政府が負い、天皇は「無答責」 つまり責任を負わないとされていた
天皇に判断を委ねることは、まさに異例だった
井上さん:
帝国憲法の下では、天皇の「無答責」が非常に重要で、
天皇に何か政治的意思決定したことに対して責任を負わせない
それによって帝国憲法のもとでの政治体制を続けてきた
それがもし、天皇自らが「戦争をやめる」という決断をすることは、天皇に責任が及んでしまう
天皇のひと言で戦争が終えられるのであれば、何でもっと前に終えなかったのかと
8月6日以前であれば、2つの原爆投下も避けられたではないか
ソ連参戦も避けられたではないか
なぜここまで引き延ばしたんだ
ということが、後から重大な問題になりかねないということだった
沈黙を守っていた天皇は、鈴木に促される形で発言した
「私の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」
天皇による「聖断」により、日本側から出す条件は「国体護持」だけにする方針が決まった
それを受け、日本政府は連合国側に対して「国体護持」の1条件が守られるという了解のもとに
「ポツダム宣言」受諾を通告 その確認を求めた
こうしてひとつのハードルは超えたが、この後も数々の困難が待ち受けていた
【8月12日 日本の通告に対して連合国側からの回答があった】
しかしそれは「国体護持」について具体的に答えず、判断に迷う文章が含まれていた
“天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合軍最高司令官の制限のもとに置かれるものとする”
この“subject to(制限のもと)”という回答に対し、
異議を唱えたのがまたもや陸軍大臣の阿南
陸軍は不満をあらわにする
「これでは、天皇の上に統治者がいることになってしまう これ国体の根本的破壊なり」
このような状況で鈴木はどうやって「ポツダム宣言」の受諾までこぎつけたのか
【8月13日午前9時「最高戦争指導会議」が再度開かれた】
この日、鈴木はこれまでになく明確に自らの意見を述べた
「問題を故意に破局に導き、継戦を強行するのは下心ならん」
鈴木は「ポツダム宣言」に反対する意見を非常識とし、強い言葉で非難 受諾を主張した
実は会議に先立ち、海外からの一通の緊急電報が在外日本公使から鈴木の元に届いていた
連合国側からの回答文の作成過程を伝える内部情報だった
そこには、日本が「人民主権」に基づく西洋流の「立憲君主制」を取るべきことが記されていた
たとえ日本が降伏しても、天皇と皇室は存続を認められると解釈することができた
電報の内容は、昭和天皇にも伝えられたと思われる
天皇は陸軍大臣の阿南を呼んで「国体護持」に不安を感じるという阿南に対して
「阿南 心配するな 自分には確証がある」と言った
【13日午後4時 臨時閣議が開かれた】
その席でも阿南は「ポツダム宣言」の即時受諾には同意しなかった
当時、陸軍内部には、戦争の継続を唱える「主戦派」がおり
クーデターによる軍部主導の政権樹立も辞さない構えだった
(この期に及んでまだ戦争を続けるって狂気の沙汰を超えてる!
中堅将校たちは、阿南のもとに押しかけ
「もしもポツダム宣言受諾を阻止できなければ大臣は切腹すべきである」
(切腹って・・・まだ武家社会か?
天皇に説得されても、強硬な姿勢を取り続けた阿南だが、
異なる一面を覗かせる発言が残されている
「本心では和平を請い願いながらも、陸軍の若手の暴発を懸念し、
これを抑えるため、陸相が心にもない挙措を取ったことが度々あったように思う」
これを裏付けるかのように、阿南は不可解な行動をとっている
閣議の最中に阿南は部屋を出て、陸軍省に電話をかけた
「閣議では、君たちの意見を了解する方向に向かいつつあるから、
君たちは私が帰るまで、動かずに、じっとしていてほしい」
ポツダム宣言を受諾しないことになりそうだと伝える阿南
でも実際の閣議では、阿南の立場は劣勢だった
阿南が主戦派の暴発を抑えるための行動だと考えられる
山本さん:
主戦論がまかり通っている状況では、阿南は内心、早期講和と思っていても、
なかなかその主張はできないような状態にある そこで苦労している
阿南は元々この戦争が勢いで始まったことをよく知っていて
その戦争をやめるには急ブレーキでは無理だということを認識していた
事態は切迫していた
【8月13日アメリカ軍が空から宣伝ビラをまいた】
「日本の皆様」と題したビラには、あの「subject to」
日本政府の権限を連合国の下に置くと記された回答文が記されていた
天皇は危惧した
これが軍隊内に広く知れ渡ればクーデターが起きる 決定を少しでも早くしなければならない
鈴木ももはや時間はないと決意を固めた
「参内してご聖断のことをお願いしましょう」
聖断は天皇自身が意思決定を行う特別な行為
それを一度ならず二度までも求める異例中の異例の行動に出ようとした
【8月14日午前8時40分 鈴木は天皇に御前会議の開催を願い出た】
天皇は承諾 さらに軍部によるクーデター計画を防ぐため、自ら御前会議の時間を繰り上げた
昭和天皇と鈴木の考えは一致していた
井上さん:
一歩間違えると2.26事件の再来のようなことになって、クーデターが起き、
意思決定の主体が完全に失われ、外と戦争しながら、国内で内戦状態にもなりかねない
そういう悪いシナリオが描けていく中で、最後は天皇の意思を直接動員するような
ギリギリの線まで使ってでもやっていこうとした
【午前11時過ぎ 再び御前会議が開かれた】
天皇の命で、閣僚や、最高戦争指導会議のメンバーなどが集められた
鈴木は昭和天皇に対し、閣僚の大部分が連合国側の回答を受け入れることに賛成だが
全員一致には至っていない 再度のご聖断を仰ぎたい旨を述べた
鈴木の発言を受け、昭和天皇は、
「自分の先般の考えに変わりはない 国体に動揺をきたすということが そうは考えない
戦争を継続することは、結局国体の護持もできず、ただ玉砕に終わるのみ
どうか反対の者も、自分の意見に同意してほしい」
こうした内容の言葉を発し、日本はポツダム宣言受諾の結論にたどり着いた
阿南も宣言の受け入れを認めた
●陸軍将校たちの怒りは爆発する
「大臣は変節されたのか!」
しかし阿南の意志は揺らぐことがなかった
「終戦の詔書」に阿南も含めた閣僚の全員が署名した
実は阿南は、鈴木内閣の一員として陸軍大臣になった後、その胸中をこう語っていたという
「自分の立場は苦しいんだ 苦しんであるけれどもが 必ず鈴木総理と共にするのだ
また、日本を救い得るというのは、どうも鈴木内閣以外にないように思う」
【8時8月14日午後11時 阿南は鈴木の元を一人訪れた】
阿南:
総理には大変ご迷惑をおかけしたと思います
私の真意はただ一つ 国体を護持せんとするにあったのでありまして
この点どうぞご了解くださいますように
鈴木:
そのことはよく分かっております しかし阿南さん 皇室は必ずご安泰ですよ
私は日本の前途に対しては決して悲観しておりません
阿南は一礼し静かに去っていった
鈴木:阿南君は暇乞いに来たのだね
●阿南陸軍大臣の遺書
阿南は翌朝、天皇のいる宮中に向かい割腹自決した
残された遺書には、その時流れ出た血が染み込んでいる
「一死以ッテ大罪ヲ謝シ奉ル」
(血をわざわざ遺書に吹き飛ばすなんて、なんて狂った時代だ 胸が悪くなる/汗
決断が遅れて、原爆が2つも落とされたことに対して、政府などの責任も当然問われるけれども
若い兵隊らまで絡んでいたことまでは知らなかった
みな死にたかったのか? 平常心じゃなかったのはたしか
●昭和20年(1945)8月15日終戦
鈴木は閣僚全員の辞表を取りまとめて昭和天皇に奉呈し、内閣を総辞職した
その鈴木を天皇はこう労った「ご苦労をかけた」
昭和天皇は自らの聖断で戦争が終わったことに触れてこうつぶやいた
「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことができたのだ」
日本はようやく終戦を迎えたが、指導者たちの決断までの間に
国内外で多大な犠牲が生まれたことは紛れもない事実だった
鈴木貫太郎は公職から退き、現在の千葉県野田市関宿で妻たかと余生を送った
鈴木肉声:ただ今、郷里に帰って畑を相手に致して生活しております
【昭和23年4月17日 鈴木貫太郎死去 享年80】
鈴木はたかに背中をさすられながらこう呟いたという
「永遠の平和 永遠の平和」
【実相寺】
鈴木はたかと一緒に小さな墓で眠っている
鈴木は生前自らの戒名を決めていた その中にこの文字がある
「尽忠」(忠義をもって尽くすこと)
鈴木が荼毘に付された後、その灰の中には、2.26事件の時に撃ち込まれた銃弾が残っていたという
***
番組の最後に次回の予告が入っていて、
「桜田門外の変」で井伊大老を暗殺した凶器が拳銃だと分かったとか/驚
NHK放送90年イメージソング ♪平和の鐘が鳴る/サザン・オールスターズ も流れた
その他の番宣
丹下健三は、その作品に戦後の理想を託していた
(大阪万博で太郎とコラボった人だよね
『時代をプロデュースした者たち』
萩原聖人さんが出てる