白虎隊二番隊37名の内、逃げ延びて入城できたのは17名で、残りの隊士は黒
煙を上げる城下をこの飯盛山から見ながら、自ら命を絶ち城と運命を共にした。
鶴ヶ城開城の一か月前の出来事である。


しかし当時の政府は少年兵を朝敵とみなし、その亡骸の埋葬を許可しなかった。
そのため少年兵の衣服などは取られるに任せ、風雨に晒され、鳥獣にも荒らされ、
酷い状態での放置が続いていたらしい。
そんな状況を見かねて不憫に思った当時の山主が、密かに仮埋葬したのが今日
の「白虎隊十九士の墓」のあるこの地であった。埋葬の許可が下りたのが明治2年、
墓地が整備され慰霊祭が行われたのは明治17年のことだと言う。
その後只一人生き残った少年兵飯沼貞吉(後に貞雄と改名)も78歳の生涯を終え、
大勢の友が眠るこの地に墓を建て祀られている。


飯盛山を下る道の途中には、戸ノ口堰洞穴がある。
戸の口堰用水は猪苗代湖北西岸の戸の口から、会津盆地に水を引くために開削
された用水で、その全長は31Kmに及び今でも会津盆地を潤す農業用水として利用
されていると言う。戊辰戦争の折、戸ノ口原で敗れた白虎隊二番隊20名が敗走中に
潜ったことが知られている。


また山を下れば白虎隊記念館もある。
白虎隊や戊辰戦争に関する一万点を超える資料(遺品や文書、写真など)が収集
され、展示されている。
二階ではビデオが上映され白虎隊が紹介されているが、余りにも物が多いのと、
雑然と置かれる資料に圧倒され落ち着けない、そんな印象の資料館であった。(続)

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煙を上げる城下をこの飯盛山から見ながら、自ら命を絶ち城と運命を共にした。
鶴ヶ城開城の一か月前の出来事である。


しかし当時の政府は少年兵を朝敵とみなし、その亡骸の埋葬を許可しなかった。
そのため少年兵の衣服などは取られるに任せ、風雨に晒され、鳥獣にも荒らされ、
酷い状態での放置が続いていたらしい。
そんな状況を見かねて不憫に思った当時の山主が、密かに仮埋葬したのが今日
の「白虎隊十九士の墓」のあるこの地であった。埋葬の許可が下りたのが明治2年、
墓地が整備され慰霊祭が行われたのは明治17年のことだと言う。
その後只一人生き残った少年兵飯沼貞吉(後に貞雄と改名)も78歳の生涯を終え、
大勢の友が眠るこの地に墓を建て祀られている。


飯盛山を下る道の途中には、戸ノ口堰洞穴がある。
戸の口堰用水は猪苗代湖北西岸の戸の口から、会津盆地に水を引くために開削
された用水で、その全長は31Kmに及び今でも会津盆地を潤す農業用水として利用
されていると言う。戊辰戦争の折、戸ノ口原で敗れた白虎隊二番隊20名が敗走中に
潜ったことが知られている。


また山を下れば白虎隊記念館もある。
白虎隊や戊辰戦争に関する一万点を超える資料(遺品や文書、写真など)が収集
され、展示されている。
二階ではビデオが上映され白虎隊が紹介されているが、余りにも物が多いのと、
雑然と置かれる資料に圧倒され落ち着けない、そんな印象の資料館であった。(続)

