酒匂川に架かる酒匂橋の袂に「酒匂川の渡し」の石碑が立っている。
広重の東海道五十三次の小田原の図でも、この酒匂川の渡しの様子が描かれている。
そこには肩車でそのまま人を運び、何人かの人足が蓮台を担ぎ、その上に人や籠を
のせ川を渡渉する様子が描かれていて、当時の難儀を窺い知ることが出来る。
当時の川は人が歩いて渡れる程度の深さであったと言うことになるが、これは
富士山の噴火の影響で大量の火山灰が川底に溜り、川が浅くなったからだそうだ。
しかし、一般的にはこの川では昔から舟渡しが行われていて、浅瀬だけは渡渉が
行われる併用であったと言う。
今と異なって当時は川も幾筋にも分かれ複雑に流れていたのであろうから、深みは
舟で、舟の入らないところは人足渡しの世話になっていたようだ。
人足渡しともなれは、大雨や長雨の時期には渡れないなんていう日も少なからずあ
ったことであろうから、何れにしても江戸を発った旅人は、二日目の宿を目前にし
て難儀を強いられていたことは想像に難くない。
ここに仮橋ながら架かるのは幕末の頃で、今日の永代橋は昭和48年に架けられている。
橋を渡り左手の旧道に入ると、住宅地の入り組んだ場所に「新田義貞公首塚」が有る。
建武の中興の立役者として転戦中、越前で討ち死にし、足利尊氏によりその首は京の都
で晒されていた。哀れに思いその首を奪い、東海道を下り、義貞の本国に葬ろうとした
家臣も、この酒匂川を前に病に倒れてしまった。
そこで止む無く葬ったのがこの地であったと言う。(続)
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