国道467号線と別れ、小田急線を越え、引地川を引地橋で渡り、さらに進むと
街道は再び国道1号線に合流する。
ここら辺りまで来ると街道筋の所々に、見事な松並木が残されている。
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特に神奈川県内には並木が多いらしく、ある所には車道を挟んだ両側の歩道に、
またその片側に、ある所では中央分離帯などに残されていたりする。
そこには松だけではなく花木などを植え、きれいな緑地帯として地元で管理され
ているところもある。
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歴史を重ねて来ただけに見事な枝ぶりの巨木も多いが、無念にも松くい虫に
やられ根元から切り倒され巨大な切株だけを残しているものもある。
中には後年植えられたか、自然発芽したものなのか、まだ弱弱しい若木もあり、
新陳代謝も静かに行われている。
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江戸幕府はその基盤強化のため、各地の大名に街道の整備を命じているが、
これらの並木にはいろいろな役割が求められていたと言う。
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一つにはその存在が道そのものを示す道標であると言うこと。
遠くからでも道の存在が確認でき、特に雪深い地なら、道が見えなくても並木を
伝えば迷うこともなく先に進むことが出来た。
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次に並木は木陰をつくり道行く人々を夏の暑さや、冬の風雪から身を守る。
更にしっかりと張った根で、道そのものが流されたり、崩れたりすることを防
ぐ役割も大きかったと言う。
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幕府はその道幅にも注文を出していたらしい。
道の幅はおよそ二間から四間(3.6m~7.2mくらい)、そこにおよそ9尺の並木帯
を設け、杉や松を植えろとするものであったと言うから、当時の道は、意外に広く
しっかり整備されていたようだ。(続)
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