簾 満月「バスの助手席」

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戦艦大和(海上自衛隊呉基地見学記)

2019-08-28 | Weblog

 昭和16(1941)年12月8日、日本は真珠湾を攻撃し太平洋戦争に突入した。
その開戦直後、呉のドッグで極秘裏のプロジェクトで建造された「戦艦大和」が
就役した。初陣は半年後で、アメリカを打ち崩し、戦争を早期に終結したいとの
思惑を持ったミッドウエー島への侵攻であった。

 「大和」には高度な給排水の技術が搭載されていた。
一部の船体が打ち抜かれ、海水が浸水しても、反対側に即座に給水する事でバラ
ンスを保つ技術らしく、「大和」が浮沈艦と言われた所以である。







 しかしそんな艦もその4年後の昭和20(1945)年4月7日、沖縄での特攻作戦
に向かう途中、米艦載機動部隊の300機にも及ぶ猛烈な攻撃を受ける事になる。
戦いの開始から凡そ2時間、不沈と言われた「戦艦大和」は、鹿児島の坊の岬沖
で沈没、3,300名以上の乗組員が艦と運命を共にしている。

 時を同じくして呉の町も、アメリカ軍の猛烈な反撃を受けることになる。
16万発とも言われる焼夷弾に見舞われた町は、火の海と化し、東洋一と謳われた
軍港は日本海軍の墓場となってしまう。犠牲者は2,000人にも及んだという。
やがて広島・長崎に原爆が投下され戦争はようやく終結を向かえることになる。







 戦後になってこの地にはアメリカの大手造船会社が進出し、嘗て例を見ない
3万8千トンと言う巨大なタンカーの建造が、アメリカの溶接技術により進めら
れることになる。昭和27(1952)年に進水した新造船は「ペトロクレ(石油・
呉)」と名付けられた。
絶望に打ちひしがれた呉の町を救ったのは、皮肉にも「戦艦大和」で培われた
工数管理グラフや、ブロック工法と言う造船技術であった。(続)



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