簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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食べたまま、書いてます。

金比羅往来(JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-05-23 | Weblog


 「お伊勢参り」の後、「金比羅さん」に詣でる「両参り」のルートと
しての金毘羅往来は江戸中期の頃整備された。
大阪を経由して瀬戸内海を渡り、四国の丸亀に上陸する海上のルートと、
西国街道を西進し岡山に到り、そこから四国を目指す陸上ルートの二通
りが知られていた。



 岡山の城下からは、栄町(現在の表町)を起点に、吉備津回りと大元
回りの二ルートが有り、是は早島で合流し、その先で茶屋町に到る。
この茶屋町は、休憩場所のお茶屋が有った事が地名の由来となっている。



 更に藤戸を経て峠を越えると、道は再び分かれるがそのまま南下して
下津井湊に到るのが本来の金毘羅往来である。
 藤戸の先で分かれるもう一つの道は、やや南東に進路を変え、途中由
加山に立ち寄り田の口湊に到るルートだ。
この道は「由加さん」と「金比羅さん」の「両参り」のルートとして知
られていた。



 この流行により海辺に良港を擁した下津井近辺の地は、多くの参拝者
で賑わうようになり、その代表格が、田の口湊であり下津井湊であった。
取分け下津井は古くからの漁港であると同時に、北前船などの風待ち・
潮待ちの湊として知られていたが、この流れに乗ってなお一層の繁栄を
みるようになる。



 諸国から「両参り」参詣者を乗せた舟の多くは、田の口湊に賑わいを
もたらしたが、四国渡海にとっては、対岸の丸亀まで四里(約16㎞)と
至近の下津井湊は利便性が抜きん出ていて、その賑わいは、明治末に宇
高連絡線が開通するまで続く事になる。(続)


           (写真:県内に残る金比羅往来の道標や常夜灯)




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