恐らく正面には、伊勢湾の大海原が広がっていたのであろう。
東海道は鳴海の中心部を出ると、作町で直ぐに北に向けて進路を変える。
嘗ての伊勢湾は深くこの辺りまで入り込んでいて、東海道の行く手を塞
いでいた。ここから先宮宿までは、1里半6町(約6.5㎞)の湾岸に沿っ
た道が北に向け伸びていた。
後に陸路をとる東海道も、中世の頃は是よりもより海に近い干潟を通っ
ていたらしく、潮位によっては更に短縮したシーョトカット道であった。
今日では、そんな街道のどこからも伊勢湾の海を見ることは出来ない。
すっかり住宅等で埋まり、海までは直線距離でも数キロも離れている。
北に向けて進んできた東海道は、松ヶ根台に突き当たる三王山辺りで、
西寄りに進路を変え天白川に架かる天白橋を越える。
嘗ては田畠橋と呼ばれる廿七間の板橋が掛けられていたという。
橋の上からは星崎城が見えたと言う。城は今日の笠寺小学校辺りにあった。
赤坪の郵便局を過ぎ300mほど行ったY字路に、大木が見えてくる。
盛土の上に植えられたエノキは、樹高約7.5m、幹周り約3mと言われ
るまでに成長し、四方に力強く枝を張り巡らせている。
地表に現われた太い根が、塚を鷲掴みする姿に、強い生命力が感じられ
るものの、寄る年波には勝てないのか、数本の補助支柱で支えられてい
るのが何とも微笑ましい。
江戸から数えて88里目に当たる「笠寺の一里塚」である。
大正時代には、道の西側にもムクノキが植えられた塚が残っていたらし
いが、消滅したという。
市内には一里塚が12カ所有ったが、現存するのは唯一ここだけに成った。(続)
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