宿場の西外れ近くには、江戸末期に建てられたという問屋場・藤文
とかえで屋(旅篭?)の建物が残されている。江戸末期から明治の始
めにかけて造られた建物だ。
藤文は間口が五間、奥行き4間で、総畳数は38畳であった。
一方かえで屋は間口二間半、奥行き四間半、総畳数は16畳だという。
更に街道を西に向かうとその先に、同年代に建てられた萬屋が有り、
間口4間半、総畳み数39畳の旅籠は、主に庶民が利用したと言う。
復元修理時の調査では、二階部分は4間あり、食事の提供が無かった
宿と考えられている。
その向かい側に建つ川坂屋は、宿場の最も西に建つ旅籠だ。
当時の面影を良く残した間口6間、奥行き十三間、総畳数64.5畳堂々た
るの建物で、この時代には禁制材であった檜が使われていると言う。
江戸から棟梁を招いて造られた建物で、品格もあることから、主に上級
武士や公家などが利用したと考えられている。
東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんは、雨の中小夜の中山の峠を下り、
この宿場に入ると有る旅篭の前で相客に巫子(いちこ:霊魂を呼び寄せ
る口寄せの女性)がいる事を知りそれが目当てで、思いもよらず早々と
宿泊を決めた。
その後の二人の行動は、口寄せでいたぶられ、深夜に夜這いをかける
などで猥雑なドタバタはお馴染みの光景を繰り返す。
彼らが泊まったのは、よもや萬屋ではあるまいか。
それとも川坂屋のような宿であった・・・などと想像を膨らませながら、
建物を見るのも一興である。
どの建物を眺めていても上機嫌な弥次さん喜多さんが、今にも二階から
顔を出して来そうな気がしてくるから不思議だ。(続)
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