そこから、数百メートルほど緩やかに坂を登って河原谷橋を渡る。
嘗ては亀山橋という名の長さ六間の橋が架けられ、渡ると東亀山領・坂
下宿の入口であった。
領境石が建てられていたらしいが、何所にあるのか見付けられなかった。
これまでの街道筋の鬱蒼とした杉林が嘘のように、宿内の道路は広々
として開放感に溢れ、平入りの家並みが嘗ての宿場の大きさを伺わせて
いる。
宿内の戸数は153軒、本陣は三軒、脇本陣が一軒だが、旅籠は関宿より
も多い48軒も有ったと言う。人口564人ばかりの小さな集落だが、人口比
では女性が多かったようだ。
東海道48番目の鈴鹿山中の宿場町としては小さいのに、堂々とした陣
容で有る。面白いのは、当時の旅の情報誌「旅枕」では、「めしもりお
んななし」と伝えている。庶民にとっての旅の楽しみも、峠越えを前に
して体力は温存しておけとの事であろう。
鈴鹿という難所を控えているだけに、諸物価は相当に高かったようだ。
人足一人を雇うと111文もかかり、関宿が56文というからほぼ倍である。
馬一疋の借り賃は関宿なら73文で済んだが、ここでは146文もかかった。
因みに東の難所・箱根では、人足が238文、馬は312文と言われている。
次の宿場までの距離が四里と長い事もあるが(坂下と土山の間は二里半)、
鈴鹿の倍以上を必要とした。庶民にとっては、体力以上に懐の負担も結構
大きかったようだ。
明治に成り、現在の国道1号線が旧街道を避けて整備された。
更に23(1890)年には、関西鉄道(現在のJR関西本線)が、関から南の
加太峠を越え、柘植に到るルートで敷設される。
これにより交通の動脈は国道1号線と鉄道に移り、旧宿場町の役割は終え
ることになる。(続)
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