島田宿の川越遺跡が見事に復元されていたのに比べると、対岸の金谷
宿は些か寂しい。史跡らしい物は何も無く僅かに土手下に残る水神様と、
民家の玄関先に掛けられた番宿を書いた表札で、往時を偲ぶのみである。
渡し場跡の小公園に没後120年を記念した「義人 仲田源蔵」の石造が
建てられている。説明によると翁は当地の醤油屋の三代目として生まれ、
その後川越人夫総代を務めた。
明治維新の頃川越え制度の廃止と共に、職を追われた1,300人の川越え
人夫の為に、当時荒れ地であった牧ノ原台地の開墾に従事させるよう時
の政府を動かした人物だと言う。
台地の開墾により人夫の入植が可能となり、茶園が開かれ、今日でも
当時の子孫たち17軒が茶業を営むなど、大茶園の礎を築いた人物である。
私財を投じた翁と牧の原の茶園との関りは、地元でもあまり知られてい
ないらしく、啓発を願っての石像らしい。
翁は大井川架橋にも注力し、地元の有力者とともに尽力した。結果、
明治16(1883)年には、全長720間(凡1300m)、幅2間(凡3.6m)
の木橋、駿河と遠江を結んだ最初の橋を開通させている。
東海道は街道らしく曲がりくねって僅かに上りながら、行く手に見え
る牧ノ原台地を登る道へと繋がっていく。
旧街道筋の民家の軒先には、嘗ての川越え人足の番小屋を示す木札が
掲げられているが、通りはごくありふれた普通の地方都市の町並である。
やがて秋葉神社の先で、大井川鐵道の単線線路の踏切を渡る。(続)
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