簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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食べたまま、書いてます。

宮の渡し公園 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-07-22 | Weblog


 「この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ」

 熱田の地を度々訪れた松尾芭蕉は門人達と、七里の渡しからあゆち潟
(「愛知」の地名の語源とされている伊勢湾の干潟)を舟で遊び、幾つ
かの俳句を残している。



 七里の渡し場跡は、「宮の渡し公園」として整備されている。
今日の姿からは、当時の海岸線を想像することは全く難しい。
辺りはすっかり埋め立てられ、海は後退し、運河のような水際はコンク
リート壁で固められ、その間近まで民家やマンションの建て並ぶ賑やか
な町になっている。



 寛永2(1625)年に建てられた常夜灯は、その後風水害で破損した。
その後位置を少しずらし再建されたが、それも火事で焼失何時しか荒廃
した。今目にするものは、昭和30年に復元・再建されたものだ。
この常夜灯に火が灯ると、翌日まで舟は出る事が無かったと言う。



 再現された鐘楼が建っている。
かつて熱田神宮の南にある蔵福寺の境内に有ったもので、是は戦災で焼
失している。
ただ旅人に舟出を、町人に時を告げたその鐘は、延宝(1676)4年尾張
藩主の命により鋳造されたものが、戦災を免れ今も寺に残されている。



 先の戦災で全て失い、旧宿場町に当たるこの地には、当時を思い起こ
すものは何もない。
本陣や脇本陣の位置も、定かには解らないらしい。
200軒以上有った旅籠の痕跡も、曲尺手や見附も何もかも解らない。



 そんな中、旧船着き場に面して建つ嘗ての料亭「魚半」(現在は老人
向けグループホーム)の建物は、建築時期こそ明治29(1896)年と新し
いが、江戸当時の町屋の面影を良く残していると言われている。

 この建物は市の有形文化財の指定を受けていて、七里の渡し場に残り、
当時を伺い知る唯一の手掛りとなっている。
(東海道歩き旅 尾張の国 前編・完)




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