東海道では唯一の海路で、宮宿と桑名宿を結ぶのが七里の渡しである。
渡し賃は、時代によりかなりの変遷があるが、細かく定められていた。
それによると将軍や公家など高貴な身分の人は無賃、幕府などの公用
旅行者は賃銭が定めにより決められていた。
一般庶民は、幕府公用者の凡三倍であったそうだ。
江戸時代の一般的な通貨に、「両」「分」「朱」という金銀貨単位が
有り、更にその下に銅貨としての「文」があった。
一両が四分、一分が四朱だから一両は十六朱となり、更に一両は四千文
とされていたから、言い換えると一分は千文、一朱は二百五十文になる。
更に銀貨としての「匁」が有り、金一両は銀六十匁とされていた。
当時は銀相場が立っていて、これらは日常的に変化していたという。
(「大江戸生活事情」石川英輔 1997年講談社)
当時の通貨がややこしい四進法であるのは、日常的な野菜等の買い物
には「一文銭」や「四文銭」が多く使われていたからだそうだ。
ただ、高級品や薬などは「銀○匁」の扱で、更に高い物になると「○両」
表示になっていたと言うから更にややこしい。
東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんは、45文の船賃を払っている。
時代にもよるが、一文は今で言う12円程度と言うから、540円ほどの船
賃となるが、随分と安かったような感じもする。
後に舟賃も上がり200文程になったと言うが、それでも2500円程度だ。
人力と風向きと潮の流れに頼る、名古屋から桑名まで三四時間の舟旅が、
この程度の料金なら、今日の感覚では意外に安かったと思えるが、当時の
庶民にとっては、この値上がりは大変なことであったようだ。(続)
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