明治を迎える迄の呉の町は、鰯漁の舟が浮かぶ小さな漁村で、瀬戸内の島々
に包み込むように隠された波穏やかな湊が有り、人口も少なく背後に山を控え
た広大な荒れ地の広がる寒村であったと言う。
時の新政府は、欧米列強に対峙する国力を求め、富国強兵を進める中で鎮守
府の設置を検討することになる。
鎮守府とは、海軍の基地を維持管理する場所で、近代海軍にはなくてはならな
い最高の機関である。当時は長崎がその有力な候補地であったようだ。
しかし外洋に程近いその地では防御上問題があるとされ、そこで俄に注目され
たのが、瀬戸内海である。
3000もの島々が浮かぶ内海は、海の迷路のようで、守るにも攻めるにも易い
と言われたからだ。多くの場所が検討された結果その中から湊を瀬戸内の島々
が包み隠す呉が選ばれた。広大な空き地があることも決め手となったようだ。
そしてこの地には鎮守府が置かれ、引き続き海軍工廠が置かれると東洋一の
軍港と称されるほどに町が発展することになる。人口は何時しか40万人を超え、
県下では最初の電車が走り、造船場には全国から有能な職人が集まり町は活気
付いていく。
やがてこの地では、密かに巨大なプロジェクトが動き始めることになる。
圧倒的な軍事力を要する仮想敵国アメリカと対峙するために、海洋国防を進め
ることとし、「戦艦大和」建造計画を昭和12(1937)年に始めることになる。
それがこの町を、強いては日本国をあの悲惨な太平洋戦争に突き進ませた序章
と成ることを、この時点では多くの人々は想定もしてはいなかったのであろう。(続)
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