松山市の郊外に入った、とは言え市街地はまだまだ遠いが、周囲は田畑などの
緑も多く、道も起伏が無いので歩きやすく、気持ち良い。
加えて、札所間の距離も比較的短いのがありがたい。
寺から1キロほどのところに、松に囲まれて文殊院徳盛寺と言うお堂が建っている。
ここは遍路の祖と言われる衛門三郎の菩提寺であり、かつて屋敷の有ったところだ。
『荏原庄の衛門三郎は、財宝が蔵に満ちるほどの豪族であったが、無信心で貪欲で、
貧しいものを虐げ、召使をこき使う一方で、自らは栄華の夢に酔いしれていた。
ある日、乞食のような旅僧がその門前に立ち、食事を乞うたところ三郎は追い払って
しまった。その旅僧はそのあくる日も次の日も訪れた。
煩いと怒り狂った三郎は、旅僧の鉄鉢を取り上げ、激しく地面に叩き付けると、それは
無残にも8つに割れて四辺に飛び散った。
そんな翌日、8人の子供の長男が突然こと切れた。その翌日には次子が亡くなり、
その後も不幸は続き8日の間にすべての子供を失ってしまう。
さすがに三郎も悲嘆にくれ、己の業の報いを感じ、過日の門付けの旅僧への無礼を
詫びようと発心し、館をたたんで遍路旅に出る。
そして二十一度目の逆の途でやっと大師と巡り合い、詫びを述べたあとこと切れた
のが、焼山寺下の“杖杉庵”であった。』(上二枚の写真は“杖杉庵”)
尾ひれの付いた伝説であろうが、子供は当時の流行病で死んだとの説もあり、その
子たちを葬った“衛門八塚”は、近くの田圃の中にあると言う。(続)
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緑も多く、道も起伏が無いので歩きやすく、気持ち良い。
加えて、札所間の距離も比較的短いのがありがたい。
寺から1キロほどのところに、松に囲まれて文殊院徳盛寺と言うお堂が建っている。
ここは遍路の祖と言われる衛門三郎の菩提寺であり、かつて屋敷の有ったところだ。
『荏原庄の衛門三郎は、財宝が蔵に満ちるほどの豪族であったが、無信心で貪欲で、
貧しいものを虐げ、召使をこき使う一方で、自らは栄華の夢に酔いしれていた。
ある日、乞食のような旅僧がその門前に立ち、食事を乞うたところ三郎は追い払って
しまった。その旅僧はそのあくる日も次の日も訪れた。
煩いと怒り狂った三郎は、旅僧の鉄鉢を取り上げ、激しく地面に叩き付けると、それは
無残にも8つに割れて四辺に飛び散った。
そんな翌日、8人の子供の長男が突然こと切れた。その翌日には次子が亡くなり、
その後も不幸は続き8日の間にすべての子供を失ってしまう。
さすがに三郎も悲嘆にくれ、己の業の報いを感じ、過日の門付けの旅僧への無礼を
詫びようと発心し、館をたたんで遍路旅に出る。
そして二十一度目の逆の途でやっと大師と巡り合い、詫びを述べたあとこと切れた
のが、焼山寺下の“杖杉庵”であった。』(上二枚の写真は“杖杉庵”)
尾ひれの付いた伝説であろうが、子供は当時の流行病で死んだとの説もあり、その
子たちを葬った“衛門八塚”は、近くの田圃の中にあると言う。(続)
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