来見橋を渡ると左手に、南土山の鎮守・白山神社が鎮座している。
速須佐之尊、天照大御神、豊受大御神を祭神とする古社らしい。
本殿は寛文5(1665)年に火災により延焼し、文久3(1863)年に
現在の場所に造営された。毎年七月の第三日曜日に行われる「花奪い行
事」土山祇園祭花傘神事は滋賀県選択の無形民俗文化財に成っている。
南土山に「井筒屋跡」の石標があり、森鴎外の祖父・森白仙終焉の地
と刻まれている。
白仙は石見国・津和野藩亀井家の典医で、文久元(1861)年参勤交代
に随行して、帰国の際病を得て当地を訪れたがここで急に息を引き取り、
南土山の臨済宗東福寺派・常明寺に埋葬された。
国元には遺髪が送り届けられたが、鴎外が生まれたのはその翌年という。
続いて「旅籠木綿屋跡」石標があり、向いには「旅籠平野屋跡」の石
標がある。明治33(1900)年3月午後、森鴎外は軍医部長会出席のため
東京に出張の途次立寄り、祖父白仙の墓参に訪れ平野屋で一泊した。
ところが墓は無縁仏同様に荒れ果て、見るに見かねて改葬を依頼した。
合わせてご位牌の「信士」位を「居士」と改めるように依頼した。
後に祖母・きよ、母ミネも遺言により常明寺に葬られた。
その後常明寺の墓は、昭和28(1953)年、鴎外の眠る津和野の永明寺
に移されることになる。又墓地には、昭和63(1988)年に鴎外の子孫が
建てた供養塔が残されていると言う。
宿場中程にある「東海道伝馬館」の入口付近前庭には、「文豪森鴎外
来訪の地」碑が立ち、「小倉日記」の一説が刻まれている。
余談だが鴎外は誰に渡すのか、お六櫛を土山土産として買って帰った。(続)
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