簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

単調な旧街道(東海道歩き旅・三河の国)

2021-11-05 | Weblog


 国道1号線は、中央分離帯で仕切られた、片側二車線の道だ。
流石に現代の東海道、一級の幹線道だけに、多くの車が行き交っている、
と言いたいところだが、意外とこの辺りは交通量が少ない。
その中では心なし、乗用車や小型の商用車が多いように見受けられる。
大型トラックなどが少ないのは、並走する高速を利用するからであろう。



 そんな国道の歩道は、単調な道である。
所々で民家や事務所、工場らしい建物を目にすることもあるが、沿道に
めぼしい物は何もない。
しかも両側の多くには、赤土の畑が、緩やかな丘陵一面に広がっている
だけで、遠くからでは判然としないが、畑の所々に植えられているのは
ネギで有ろうか。



 現在の国道1号線と重なった、旧東海道を4㎞程歩いて来た。
道路の向こう側に、「コオロギ 生産者直売」の看板が見えている。
「コオロギ」なら我が家の庭でいくらでも見ることが出来る。
生産販売する程の需要があるものなのか興味も湧いたが、道路の向こう
側では渡ることも出来ない。 



 この日は殊の外気温が上がり、人家が乏しく日陰のないアスファルト
の道は、暑くてたまらない。木陰でもあればと思うが、かつての見事な
松並木道も、今はその名残は欠片も見られない。
ここまで、コンビニも無かったが、ドライブインや、休憩の出来そうな
店も何も無かった。



 一里山の途中には、三ツ坂や源吾坂と言う地名があった。
潮見坂で上り詰めた台地(標高76m)を、二川に向けて緩やかに下って
いるようだ。
 結局僅かなトイレ休憩をしただけで汗を流しながら歩き続け、「境宿」
からは既に1時間半が経過していた。
暫く行くと前方に、ようやく目標としていた新幹線の高架が見えてきた。(続)



 ホームページも見てね 


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一里山(東海道歩き旅・三河の国)

2021-11-03 | Weblog


 「両方の並松見物なり 二川までの間家無し」

 このように伝わる当地を、一里山と言った。
県道173号線を暫く歩き、その先で国道1号線と合流すると、一里山東
交差点付近である。
 かつて街道の左右は、広重が描く画の通り人家とて無い「猿ヶ馬場」
と呼ばれる小松の生えるばかりの原山で、見事な松の並木が続いていた
らしい。



 この日は晩春とは言え気温が上がり、全国300以上の観測地点で夏日
を記録した、と夕方のニュースが伝えていた。
こんな日のアスファルト道は、下からの照り返しもあり真に暑い。
この先は今でも人家の乏しい通りで、何よりも日陰がないのが辛い。
こんな夏ならの強い日差しを、冬なら冷たい北風を防いで、旅人を守る
役割を担っていたのがこの街道の松並木である。



 しかし人々が歩かなくなった今日では不要の長物と化し、恐らく国道
の開通か拡幅工事で、全て伐採されたのであろう。
広々とした鋪装道に変った街道からは、昔からの松は完全に姿を消し一
本の生き残りもなくなってしまった。



 一里山に、「宿場制定400年記念七本松植樹」の案内板が立っていた。
その傍らには何本かの松が見られたが、その復興の情熱も既に冷めてし
まったのか、生い茂った蔓草や雑草がその記念碑さえを覆い隠そうとし
ていた。後々にこうした植樹を経て甦った折角の松なのに、返す返すも
この姿は残念である。



暫く進むとこんもりとした一里山八幡宮の森の中に一里塚が残されていた。
東西11m、南北14m、高さ3m、旧東海道の面影を残す堂々たる遺構だ。
この先、ここからしばらくは国道に付けられた歩道を歩く事になる。(続)



 ホームページも見てね 


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三州へ(東海道歩き旅・三河の国)

2021-11-01 | Weblog
 東海道32番目の宿場、白須賀を出ると、次の二川へはその距離凡1里
17丁(約5.7㎞)である。
起伏も小さく、ゆっくり歩いて1時間半も見ておけば充分な距離だ。
遠州灘には背を向けて、これからは内陸部に向かうことになる。



 宿場を出て暫く歩くと、白須賀宿の加宿である「境宿」の小さな集落
を抜ける。
加宿とは、一宿では賄えない程規模の小さな宿場では、隣接する村にそ
の補完的な役割を課し、機能を維持する為に協力を求められた宿の事だ。
伝馬制では宿場が用意すべき人馬の数を定めていて、その不足を補うの
が主な目的である。



 その先で県道173号線に合流し、これから暫くはそこを歩く事になる。
やがて前方に小さな川が見えてくる。
うっかりしていると見逃しそうな、川幅が数メートル程の小さく目立た
ない川だ。
護岸された人の背丈ほどの堤が有り、幅の狭い用水路が掘られていて、
その底を静かに水が流れている。



 この川を境川と言い、名前の通り遠州と三州を分ける川で、愛知県が
管理している。今でもここが静岡県と愛知県の県境になっている。
道路にも、愛知県豊橋市に入った事を示す大きな標識が立てられている。
振り返れば東に向かう道路には、静岡県湖西市の標示も見える。



 嘗ては土橋か木橋でも架けられていたのであろうか、今では橋と言う
より広々とした道路の一部である。車なら何も知らないうちに行き過ぎ
てしまう、そんな境川橋を確認しながらゆっくりと渡る。
橋の脇にはガードレールに隠れるように、三角柱の県境を示す杭が立て
られていた。



 昔から国境は境界争いが絶えないものだが、川なら一目瞭然で解り易く
て良いようだ。これまでも国境の川は、幾筋も目にしてきた。
しかし流れの定まった川なら良いが、大雨で流れが変ってしまったらどう
なるのか・・・等と、いらぬ詮索を妄想しながら、遠江の国を抜けようや
く三河の国に入ってきた。(続)



 ホームページも見てね 


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする