新聞のお悔やみ欄は葬儀終了が目立ってきた。
先月末から、見舞いに行くと寝ていることが多くなった父に、4月に入ってコロナのため面会できなくなった。
4月10日に入院費を払いに行き、看護師に様子を訊くと「食欲が落ちてきている」とのこと。逢えないと心配が募る。
4月30日の朝4時に枕もとのスマホが鳴り、光る文字に病院名が浮かんだ。
瞬間すべてを察した。心配が現実となったのだ。「すぐ来れますか?」
急いで病院へ行き、父に逢うと寝ているようだった。しかし、息をしていないようだ。
看護師が医者を呼びにく間に、母、娘二人と叔父に連絡した。
弟たちにも連絡した。朝早いので、みんな何回かの呼び出しが必要だった。
5時20分死亡診断。その後は、あっという間に時が過ぎた気がした。
茨城に単身赴任している弟と、岡崎に住んでいる弟の嫁が車で来てくれた。
道中心配で、よその車にあおられないか、途中で眠くならないか、石は投げられないか心配だった。
連休はもちろん誰もが移動しない予定だったし、弟も父母の心配をしながらも、帰省を諦めていたのだ。
しかし、喪主である弟がいない葬儀などありえない。
他県ナンバーが移動するなどあり得ないと思ったが、こんな一大事があるのだ。
コロナのため、父の弟妹、わたしと弟。わたしの娘夫婦までしか呼べなかった。
弟の娘たちは東京いて、子供も小さいので来られない。
母方の兄妹も、人数が多くなるので遠慮してもらった。父も母も8人兄弟である。
わたしの娘夫婦も葬儀には出たが、斎場へは行かないようにした。
腰が曲がって小さくなった母も、葬儀までですっかり疲れ切って帰宅した。
葬儀場も、入場の消毒、換気のため、会場は明け放してあった。
暖かい日でよかった。
納棺では、寝たまま髪をシャンプーしてくれて、器械からシャワーで流してもらいきれいになった。髭も剃って、唇もきれいに整えてもらえた。
その間も家中明け放してあった。
殿や義父の時を思い出し、進化していることに驚く。
通夜は感染を避けるため、葬儀場での飲食はしないということで、お弁当とビールを持ち帰っていただく。寂しい限りだ。
夜は、弟と私が泊まり、何十年ぶりに布団を並べて眠った。
明日の打ち合わせ、遺産相続のこと、早くに愛知県に行った弟は、わたしよりも父母と過ごす時間が少なかったと思う。弟の知らない父の話・・話は尽きないのに、昨日からの疲れで眠ってしまった。
夜中に何回か起きて、父の棺を覗きに行った。
久しぶりに家に帰ったのに、すぐお泊りやね。長い間一緒にお泊りできなかったねえ。小さな子供みたいに何回も何回も覗きにいって話しかけていた。
意外といい顔やん。4月22日に94歳になったばかりだ。
母思いの父だ。10万円もらえるんだってよ。4月27日以降の死亡は・・。
「なんじゃそれ」コロナなど知らずにいただろう、あっちへ行ったら殿に宜しく。
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斎場も15人以下と人数制限されていた。
入院生活が長かったので、解放されてほっとしているのではないかと思えた。
眠っているようで、きれいな顔だった。最後のお別れはやはりつらい。
「何食べたい?」「太鼓焼がくいたいなあ」(流動食なので無理だ)
「プリンどう?美味しい?」「うまい・・」
「車で来たんか?」「うん・・」「乗せて帰ってくれんかなあ・・」
いろんな言葉がよみがえる。
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心なしか読経のスピードが速い気がした。いや、速かった。
また初七日も済ませ、7日ごとのお参りもお寺の方から遠慮したいとの申し出があった。こちらも、同じ意見だったのでほっとした。
これから先、まだまだ解決しそうもないコロナである。
御多分に漏れず、明日「葬儀終了」と、お悔やみ欄に載る。
田舎にいると付き合いや、親戚も多く、終了を新聞発表すると、近い方が家に来てくれるので、なかなか大変で、母も応対に疲れるようです。
この時節、外出を自粛ということで、香典、お参りを遠慮いただくということなのですが、父の知り合いの方が偲んできてくださいます。
わたしたちも最後の姿をお参りできたことはありがたいです。
遺骨だけ帰るコロナの感染者のご遺族はどんなにお辛いことでしょう。