朝ドラの最終回は、めでたしめでたしで終わる。ある意味ぱっとしない。うちの婆さんは「最終回っちゅうもんは、ぱっとせんしつまらんもんや。」と、いうが、どうなるんだろうという心配を残した終わりは不評なのである。会社勤めをしている時、朝ドラを観る暇はないと思っていたが、殿が水木しげるの「ゲゲゲの女房」が、観たいというので録画して観るようになってから、1日15分という短さと、毎回事件が起きて翌日に解決するという展開が精神衛生上良いのである。
朝ドラは、観だすと癖になる。そして、いつの間にか生活の一部になってくる。初めて観たゲゲゲの次は、「てっぱん」で、殿が好きだった任侠映画「緋牡丹博徒」に出てきた藤純子改名富司純子さんが出たから見続けた。次は、朝ドラにしては話の内容が突飛なドラマで、この時は、わたしは入院生活を送っていたので、毎朝、食堂で患者仲間とあーだ、こーだと文句を言いながら楽しく観ていた。
殿が逝くときは「まっさん」だった。その後、エリーが亡くなるシーンと爺さんの葬儀の日が同じで、通夜に泊まり込んで翌朝みんなで朝ドラを観た。通夜の夜には焼香順などを決めて大変だが、葬儀の朝は何故か時間があった。エリーがまっさん宛てに手紙を残したシーンで泣けて、殿はわたしに手紙も言葉も残さなかったなあと思ったら泣けた。テレビドラマで泣いて、舅の葬儀には泣かなかった。同じ月に夫と舅を送って、腑抜けになっていた。
最終回に何事もなく、ぱっとしないことが、ほっとするのである。最近パッとしないなあというのが、無事な証拠かもしれない。ありがたや。しかし、人生の最終回ではない。