子供の頃から、なんとなく聞いていた言葉に、「一富士二鷹三茄子」が有る。正月の初夢に、これらを見ると縁起が良いということわざだが、では、いつ見る夢を「初夢」というのかは、時代と共に変化してきているのだそうだ。
今更になってネットで調べて見ると、
「初夢」という言葉が、文献上で見られる初出は、鎌倉時代の「山家集」(春)に、「年くれぬ 春来べしとは 思ひ寝む まさしく見えて かなう初夢」が有り、当時は、立春を新年の始まりと考えられており、暦上の新年とは無関係に、「節分から立春の夜見る夢」を「初夢」としていたようだ。
その後、江戸時代になってからは、「大晦日から元日の夜に見る夢」、「元日から2日の夜に見る夢」、「2日から3日の夜見る夢」等、諸説が現れ、明治時代改暦後には、「元日から2日の夜見る夢」を「初夢」とする人が多くなったのだそうだ。
「一富士二鷹三茄子」を「初夢」に見ると縁起が良いとされるようになったのは、江戸時代初期からのようで、それは、(1)徳川家康が自分が住んだ駿河国で高いものを上げたもの、(2)徳川家康が、富士山、鷹狩り、初物の茄子を好んだことから、(3)富士山は、日本一の山、鷹は賢く強い鳥、茄子は、事を「成す」という意味合いから、(4)富士は、「無事」、鷹は、「高い」、茄子は、「成す」という掛詞になることから、(5)富士は、曽我兄弟の仇討ち(富士山の裾野)、鷹は、忠臣蔵(紋所が鷹の羽だった浅野家)、茄子は、鍵屋の辻の決闘(伊賀の名産物が茄子)を連想されることから、、等々諸説が有るようだ。
(ネットから拝借イラスト)
残念ながら、昨夜から今朝、「一富士二鷹三茄子」は、夢に見ることは無かったが、全くへんてこりんな夢で目覚めた。元々、「夢見る爺さん」では無く、ここ10年余り、夢を見た記憶が無い位だが、多分、今朝方?、本当に久し振り、あり得ない、変な夢を見た。
登場人物は、4年前に亡くなっている母親と、まだ現役で働いている初老の私。理由も、目的も、分からないが、東京都心の某駅(駅名も現れてこなかったが)の改札口で、待ち合わせするという話である。母親は、すでに認知症の症状が進んでおり、一人で電車に乗り、東京都心に出掛けられるはずのないにも拘らず、生前、触ったことも無かったであろう携帯電話を持って、出掛けてきたということになっている。私が、約束時間5分前に、某駅の改札口の到着して、あたりを見回しても母親の姿が見えない。周辺は、高層ビルが林立する東京のど真ん中の風景だが、駅の改札口は、どういう分けか、地元の駅の見慣れた改札口。これもおかしな話である。
「トイレでも行っているのかも知れない」
しばらく、うろうろしていても、母親が現れない。
携帯電話で、1回、2回、呼び出すが出ない。だんだん、心配になってくる私。
約束時間を10分過ぎ、焦る。携帯電話、十数回掛け・・・、
やっと、繋がった。
「もし、もーし・・・、どうしたの・、今、どこにいるの?」
「どこなんだか?、分からない・・・」
「エッ!、駅にいるんだろう?」
「トイレに行きたくなって、電車降りて・・・、トイレ探してる間に、迷ってしまって・・」
「途中で、降りたの・・・?」
「???」
「何という駅で降りた?・・」
「分からない・・」
「近くに誰かいない?、そこ 何という駅か聞いてみて・・、直ぐ!」
済みません、ここ何という駅ですか?、
聞いてるみたい。
「○✕駅だって・・・」
「エッ!、じゃ、全然、違う駅じゃない」
違う路線の電車にでも、乗られたら大変なことになる。
「分かった、分かった、じゃ、そこを動かないで」
「これから、そっちに行くから・・」
返事が無い。
「絶対、動いちゃダメだよ」
もし、携帯電話が繋がらなかったら、
母親は、不慣れな東京都心で行方不明事件?になるところだった。
1分も早く、駆けつけなくては・・・。
青くなって、焦る、焦る・・、
ところで 目覚め・・・。
「一富士二鷹三茄子」とは雲泥の差、全くへんてこりんな夢だった。
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