先日、2022年6月12日(日)の朝日新聞朝刊「社会面」の記事、
加藤登紀子さんが語る
「「知床旅情」に加わった新たな意味」
記事の一部を拝借、抜粋、引用させていただいた。
「加藤登紀子さん、観光船事故への思い」
知床の岬に はまなすの咲く頃・・・。加藤登紀子さんが歌い、大ヒットした「知床旅情」。1970年代、都会に出てきた若者たちの多くが、この曲を聴いては望郷の念に駆られた。そんな曲の舞台となった知床の地で起きた観光船の事故。加藤さんが事故や知床への思い、そして「知床旅情」のこれからについて語ってくれた。
「知床旅情」鎮魂を込めて
事故を受けて、まず思い出したのは、1959年(昭和34年)年、80人を超える死者・行方不明者が出た知床半島・羅臼での漁船の遭難事故です。
当時は、東西冷戦中で「鉄のカーテン」の時代。「風が吹いたらクナシリ(国後島)に逃げろ」と昔から言われていたのに、強烈な風が吹いて海が荒れる中、羅臼港に帰ろうとして事故に遭いました。船は、クナシリに逃げてソ連に拿捕(だほ)されることを恐れたのです。
この理不尽な悲劇を受け、森繁久彌さん(2009年、96歳で死去)が、知床のために動きました。
真冬の知床半島で漁師が集まる「番屋」に暮らす老人を描いた映画「地の涯(はて)に生きるもの」を、私財をはたいて自主制作しました。地元民の惜しみない協力に感激した森繁さんが、そのロケの置き土産として「知床旅情」を作詞作曲したのです。
今回の観光船事故は、無謀な出航のすえにたくさんの方々が犠牲になりました。私は、厳しい自然と向き合って生き抜いてきた知床の人たちは、船を出すことにとても慎重だと感じてきました。だからこそ残念でなりません。
「故郷を思う場所」
「知床旅情」との出会いは1968(昭和43年)年4月でした。後に夫となる藤本敏夫さん(2002年、58歳で死去)と初めて一緒にお酒を飲んだ日。東京・千駄ケ谷のマンションまで送ってくれて、別れるのが寂しくなった2人は、屋上に行きました。彼が夜空の下で朗々と歌ってくれたのが、この曲でした。
その1年後、私が「ひとり寝の子守唄」を歌った弾き語りのステージを森繁さんが見てくれていました。舞台袖で「僕と同じ心で歌う人を見つけたよ」と言って抱きしめて下さった。この出会いから、私が「知床旅情」を歌うことになります。
私は戦中、森繁さんがアナウンサーをしていた旧満州で生まれました。敗戦後には私も彼も引き揚げ船で日本に帰りました。なんという深い縁かと思います。
(中略)
「つらくて歌えず」
出会い、愛し合い、別れ、・・、「知床旅情」には、人の人生を凝縮したものが詰まっています。1番の歌詞に「思い出しておくれ、俺たちのことを」とあります。家族や恋人もそうですが、やっぱりこれは、ともに生きた友達のことなんですよね。人の人生に寄り添い、その全ての時間がいとおしいものだね、と語りかけるような歌です。
今回の事故直後、つらくて歌えませんでした。「知床」の名を持つこの歌の運命を一緒に抱いて寝ているような感覚でした。
(中略)
これからは、亡くなった方々への追悼の気持ちと厳しい知床の自然をずっと愛し続けてきた人々への敬意を込め、歌い続けようと思います。
今更になって、ネットで調べてみると、
「知床旅情」は、昭和35年に発表された、作詞・作曲、森繁久彌の「オホーツクの舟歌」が元歌で、その森繁久彌が、新たに歌詞を添詞した楽曲だった。当初は、「しれとこ旅情」と表記され、後に「知床旅情」と、表記されたのだそうだ。
1970年(昭和45年)に、加藤登紀子がリリースすると、一気に人気が高まり、当時の若者はもちろん、知らない人がいない程、耳に馴染んだ曲となったものだ。
もちろん、加藤登紀子版が、もっとも有名だが、石原裕次郎、倍賞千恵子、三橋美智也、美空ひばり、佐良直美、小柳ルミ子、ザ・ピーナッツ等、数多の歌手にカヴァーされている。
昭和の古い人間には、やはり、味の有る森繁久彌本人の「知床旅情」が、一番かなあ・・。
お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りすると共に、
未だに行方不明の方々のご家族の心情に思いを馳せながら・・・、
「知床旅情」・森繁久彌 (YouTubeから共有)