「中学生日記より」
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のことだ。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が全く無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると、すっかり喪失してしまっていた記憶が、断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。
その47 「夜なべ、栗つなぎ」
昭和30年(1955年)9月24日(土)、天気 晴、
起床 6時、
1、秋分の日、
2、昼前(午前中)、くりひろい(栗拾い)、母と弟と、
3、昼から(午後)、川原の稲かり(稲刈り)、
4、今日から、稲刈り休み、
5、夜、10時ごろまで、くりつなぎ(栗つなぎ)、
6、栃錦、今日から休場、
1、4、秋分の日だが、その日から10月2日までは、「稲刈り休み」だったようだ。M男の通っていた北陸の山村の小さなO中学校では、毎年、田植え時期には 「田植え休み」、稲刈り時期には、「稲刈り休み」が、1週間程有った。生徒のほとんどが農家の子供だったこと、当時、子供と言えども、中学生ともなれば、農作業の戦力だったことで、当然だと思っていたものだ。
2、5、M男は その日の午前中は、母親と弟と3人で裏山に「栗拾い」に出掛けたようだ。もしかしたら、毎日、農作業には一切関わらず、釣りや山歩きしていた祖父から、まだまだ大量の山栗が拾える穴場?情報が有って、出掛けたのかも知れない。もちろん、小粒な山栗ばかりだが、どっさり、拾ってきたようで、この日も、茹でた山栗を綿糸で繋ぐ作業に、夜10時頃まだ掛かったようだ。家族全員でする、夜なべ仕事だった。綿糸で繋いだ栗は、軒先等にぶらさげて乾燥させ、カチカチになった栗は、冬のおやつになり、炬燵で、カリポリ食べたものだ。
3、午後からは、また、M男の家からは一番遠い、川原の田んぼの稲刈りの手伝いとなったようだ。多分、父親は、隣リ町の印刷店勤務日で、母親と二人の仕事だったのだろう。1株づつ「稲刈り鎌」で刈り、束ね、道路まで運び出す、根気の要る仕事、M男にとっては、嫌々ながらする仕事で、サボっては怒られるの繰り返しだったような気がする。
6、「栃錦休場」、・・・、懐かしい四股名(しこな)、そんな時代だったのか、感慨深い。
M男の暮らしていた北陸の山村は、東西南、山に囲まれていて、ラジオの電波は極めて弱く、NHKラジオ第1が、雑音混じりでやっと聞けた土地だったこともあり、子供も大人も、スポーツと言えば、「大相撲」だった気がする。
懐かしい日々が、甦ってきます。農作業の合間に栗拾い・・。夜鍋仕事など、貧しかったけれど、今にして思えば愛おしい日々です。
最後に栃錦ですか。感度の悪いラジオで、友達と聞いた大相撲の、アナウンサーの声を思い出しました。栃錦と若乃花は、子殿ヒーローでしたね。
コメントいただき有難うございます。