(当時の近所の風景)
昭和20年代から30年代前半、M男は、北陸の山村で小学生、中学生だった。
戦後10年近くが経ち、すでに、表日本(当時はそう呼ばれていた)では大都市部を中心に、目覚しい発展を遂げていたが、裏日本(当時はそう呼ばれていた)の、特に山間農村部では、まだまだ 貧しく粗末な暮らしが続いていたように思う。
11月下旬頃から日本海を渡ってくる冷たい季節風が、容赦なく日本列島の背骨にぶち当たり、大雪をもたらす北陸地方、冬季は、ほとんど快晴の日が続くこと等もなく、専ら、雪との格闘で、明け暮れたものだったが、その冬季の気候が、経済格差、生活格差をもたらしていた要因でもあったのだと思う。
◯雪に埋もれた暮らし
車社会以前の話である。暮していた集落は、交通の便が悪く、現在のような除雪車両も無く、根雪になってしまうと、雪の上をかんじきで踏み固めた1本の道を辿って登校、通勤するような地域だった。正月を迎えても、寺社に初詣はおろか、家族でどこかへ出掛けよう等ということは、皆無であり、M男達にとって、正月三ヶ日は、もっぱらおとなしく、家の中で過すものだと思っていたものだ。
それでも、子供たちにとっては、正月は特別、待ち遠しいものだった。年末には、家族総出で餅つきをし、まゆ玉の飾り付けをし、神棚に榊を上げ、すっかり正月の準備整えた大晦日、正月は、家族揃って掘り炬燵に入り、農協に注文し届けられた木の箱を開け、小さくてすっぱいミカンを喜んで食べ、カルタ取り等で遊んだ。ただ、雪深い地域故、「年末に大掃除・・、」は、無かったような気がしている。
数年前に実家を解体する直前、
財物整理廃棄処分中に物置で見付けたみかん箱、
懐かしさの余り、写真を撮っていた。
茶箪笥の上に鎮座?していた中古の真空管ラジオから、雑音混じりで聴こえてくる年末年始特別番組を、家族で耳を傾けていたものだ。
◯「繭玉飾り(まゆ玉飾り)」
(子供の頃、意味も分からず「まいだま」と呼んでいたような気もするが)
当時のほとんどの農家の茶の間や座敷は、10畳、16畳・・・等と広く、年末に1.5m、2m・・もあろう木の枝を、天井、柱、梁等にくくりつけ、「繭玉飾り」を設え、正月気分を味わっていたが、「繭玉飾り」も、1月15日、小正月が過ぎると、とり外し、正月気分を一掃していたような気がする。年末の餅つきの際、長く伸ばした餅に、箸4本を埋め、梅の花の形にした「鏡花?」も枝に刺していたが、干からびて、囲炉裏や風呂釜の煙で煤け、ほとんど食べれなかったような気がする。
(ネットから拝借繭玉飾りの画像)
◯「神棚」と「榊」
年末、父親に指示され、積雪の裏山に分け入り、「神棚」に供える「榊」の小枝を切り取ってくる仕事は、中学生の頃、M男の役割になっていた。年末に積雪したりすると、榊が有る場所までラッセルし、スコップで掘り出して、枝ぶりや葉の艶が良いものを選んで鎌で切り取り、引き上げたような気がする。特別、信心深い父親ではなかったが、正月には、必ず神棚を清め、新しい「御札」を納め、「榊」、「鏡餅」、「お神酒」を供え、元日には、畏まって、神棚に向かい、柏手(かしわで)、拝礼していた姿が思い出される。寺社に「初詣」する習慣が無かったM男の家だったが、その情景で、正月を迎えたことを実感した気がする。そんな、「榊」も「鏡餅」も「お神酒」も、1月15日、小正月には、片付けられ、平生の暮らしに戻ったのだと思う。元日の朝、父親が、普段見せない真剣な顔つきで「神棚」に向かって、柏手を打ち、拝礼する姿を見て、身が引き締ったものだった。三ヶ日、父親は、親戚縁者に新年の挨拶回りに出掛けたりしたが、M男等子供には、三ヶ日だけは、近所の子供の家にも遊びに行くことを禁じられたような気がする。
◯「小倉百人一首カルタ取り」
父親が挨拶回りから帰ってくると、待ってましたとばかり始めたのは、家族全員でする「百人一首カルタ取り」だった。母親が好きだったことから、M男達子供もやるようになったのだろうと思うが、1対1の対戦ではなく、ランダムにばら撒いた「取り札」を、囲んだ数人で取り合う遊びである。
読み手は、必ず、父親だったが、百人一首独特の読み方は、父親にしか出来なかったからかも知れない。M男と弟が連合軍で、母親と競ったが、負けず嫌いの母親は、子供にまったく手加減せず、バシバシ取って得意顔していたような気がする。
当時、8畳の茶の間には「囲炉裏(いろり)」が有り、冬季間は、その「囲炉裏」は、「炭火の堀り炬燵」になっていたが、カルタ取り等やる時は、全員炬燵から出て、寒々しい畳の上でやることになっていた。
茶の間の隅には、大きな「薬缶(やかん)」をのせた、やはり、炭火の「火鉢」がひとつ置かれていたが、部屋全体が暖まるというものではなく、冷たく悴む手先に息を吹き掛けながら、皆、夢中になっていたものだ。
外は雪、閉ざされた正月、子供達の遊びといったら、百人一首 カルタ取り、坊主めくり、いろはカルタ取り、双六、家族合わせ、福笑い、トランプババ抜き・・位しか、無かったような気がする。
小倉百人一首が、江戸時代初期から、カルタとして正月等の遊びになった等、当時は知る由も無く ただただ、子供の遊びとしか思っていなかったが、毎年繰り返している内に 小学生、中学生のM男でも少しずつ覚えて、得意な歌がいくつか出来ていたように思う。
「いにしえの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂いぬるかな」
「淡路島 かよふ千鳥の鳴く聲に いく夜ねざめぬ すまの関守」
「田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」
「天津風 雲の通路ふきとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
等々。
◯「書き初め」
振り返り記事 2012年12月8日「書き初め」 ⇨ こちら
わずか60年~70年前の話であるが、遠い昔話となってしまった。
昨夜は、数年振りに百人一首をしました。
覚えているのは、僅か数首だけ。情けない…。
しかも、最初は下の句ではなく。絵札を並べ、何か変?
お正月早々、間抜けな百人一首でした。
そうですか。和服美人のraraotomeさんと、百人一首・・・、情景が目に浮かびます。
我が家にも、百人一首、残っているんですが、カルタ取り等、40~50年はやっておらず、もっぱら、ブログネタにしている状態なんです。
正月気分には、いいですよね。
コメントいただき有難うございました。