たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

古い写真から蘇る思い出の山旅・その54(2)

2024年07月24日 18時48分25秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その54
「老いらく二人山歩き・乗鞍岳」(再)
(2)


肩の小屋→蚕玉岳山頂(標高2,979m)→頂上小屋→乗鞍岳山頂・剣ケ峰(標高3,026.3m)→(往路を戻る)→蚕玉岳山頂→肩の小屋


「肩の小屋」を通過するあたりまでは、
ガスに覆われていて、お目当ての山岳展望は叶わず、
足元の高山植物を眺めるくらいだったが・・・

イワツメグサ

 

次第にガスが薄れ始め・・・、
気分は高揚・・・、

朝日岳と蚕玉岳の鞍部への登り詰める頃には、
あっという間に、青空が広がり出し、
ラッキー!、

尾根上に立つと、権現池や乗鞍高原方面の眺望が出来るようになり、爽快!

 

 

 

 

「頂上小屋」

 

最後の急登

I氏の体調によっては、途中で引き返すことも念頭におきながら、
ゆっくり、のんびり登ったが、心配は無用だった。
大幅な遅れも無く、ほぼ予定通り
9時30分頃 「乗鞍岳山頂・剣ケ峰(標高3,026.3m)」に到着、
念願叶った、I氏の喜び様が、忘れられない。
感激、感動、素晴らしい景観を堪能していたいところだったが、
週末の好天とあって、家族連れ、夫婦連れ、山ガールグループ、等々が、
 次々と登り着き、狭い山頂、ゆっくり、座る場所もない位だったことと、
登りより下りの方が心配?
ゆっくり、のんびり、時間を掛けて下ることにし、
証拠写真?を撮り、そそくさと下山を開始した気がする。

 

眼下に「肩の小屋」

 

「肩の小屋」には、10時45分頃、戻り着いたが、
前日泊した「乗鞍高原鈴蘭小屋」のご主人が、ひょっこり出迎えてくれた。
「肩の小屋」は、「乗鞍高原鈴蘭小屋」直営の山小屋だったのだ。
すでに、「乗鞍高原鈴蘭小屋」「肩の小屋」とも、息子さんに任せておられるとのことで
現オーナーは、息子さんであり、
時々、車で登ってきて、手伝いをしているという話だった。
その息子さんまで呼び付けて、挨拶されてしまい、恐縮してしまったものだ。
昼食時間には、少々早かったが、食堂で、うどんを注文、
昼食タイムとした。
なんとも家庭的な雰囲気で、出迎えていただき、送り出していただいたこと、
今となっては、貴重な思い出となっている。

「肩の小屋」内から、乗鞍岳山頂方面を望む
さらば、乗鞍!、名残りを惜しみつつ、

(つづく)


あわや、ずぶ濡れになるところだったが・・・、

2024年07月24日 14時48分55秒 | 畑日誌(見様見真似の野菜作り)

当地、今日の天気予報は、「曇時々雨」、最高気温=38℃、
早朝から、30℃超で、どうしようか迷ったが、
 もう、4日間も行ってないし・・・、
 今日は、どうしても・・・・
ということで、午前中、Go To 畑!と相成った。

ヤ、ヤ、ヤ、ヤ、ヤ・・・、
またまた、イノシシ出没?の形跡有り。
畑地の隅に積み上げている雑草の山が、
ダンプカーで均した如くに崩され、
大好物のミミズを探し回ったものなのか、
周辺のあちらこちらにも、穿り回した跡が有る。
幸いなことに、防獣ネットで囲って有る作物の畝にまで侵入した形跡無く、
被害無し。安堵。
ただ、発芽し始めて、これからの地這いキュウリの畝が、まだ防獣ネットで囲っておらず、
穿り回されたら大変。急遽、囲うことになった。
全身汗だく、頻繁休憩、水分補給、
イノシシのせいで、余分な労力と時間を費やすことになり・・・、
やれ、やれ、

(ネットから拝借、無料動くイラストgif)

(1)地這いキュウリ、追肥、土寄せ、

(2)トマト、キュウリ、ナス、ゴーヤ、収穫、
   トマト、キュウリ、ナスは、そろそろお終い?
   最後の収穫かな?


(3)ミニトマトは、今日もまたごっそり採れてしまい、
   「トレスギチャッテ コマルノー ♫」
   まだまだ、しばらくは、採れそう?で。


そろそろ、引き上げようかと思っていた時間帯
遠くから雷鳴が聞こえ、一転にわかに掻き曇り、
激しい雷雨が迫ってきた。
大急ぎで引き上げ、家に戻りついたところで、
いきなり、バケツを引っくり返したような土砂降りと激しい稲光と
バリ、バリ、バリ、ドスン、身の危険を感じる落雷音と突風も・・・、
車から降りるに降りれず、しばし待機、
激しい雷雨は数分で収まったが、
あと2~3分、畑地にいたら、ずぶ濡れになるところだった。
いやはや、



懐かしい映画と映画音楽・その18

2024年07月24日 08時11分09秒 | 懐かしいあの曲

gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがある。「アクセス数」を気にしてでのことではなく、すっかり忘れてしまっているような、随分前に書き込んだ古い記事にアクセスが有ったりするのを、楽しみにチェックしている風なのだ。
そんな記事に目に止まった瞬間、「エッ、こんな記事にアクセス?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりしているのだ。
「gooブログ」「記憶力がまるで無くなっている爺さんの自分のための記憶補助ツール」と決め込んでいる爺さんには、「アクセス解析」もまた、便利で有難いツール、大いに活用しているという次第。
6年前に、ブログ・カテゴリー「懐かしいあの曲」に書き留めていた記事、「渚にて」にアクセスが有ったことに気が付いた。
「おお!、懐かしい!」・・、早速、コピペ、リメイクすることにした。
そんな古い記事を、クリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


昭和30年代、40年代、地方の小都市にも、邦画、洋画の映画館が1館や2館、必ず有ったものだ。テレビで映画を観られる時代ではなく、ビデオも無し、映画は 映画館に足を運んで観るものだった。薄給だった若い頃、おいそれと映画館通いすることは無理だったが、後年「不朽の名作」と評されているような映画は、結構観ていたように思う。
映画が斜陽産業の代名詞にもなり、映画館が身近な街からどんどん姿を消してしまった頃から、映画館に足を運ぶことも ほとんど無くなっているが、最近は テレビで放送される映画番組等で 時々ではあるが、懐かしい名作映画を楽しんでいる類である。これまで、ブログ・カテゴリー「懐かしいあの曲」に書き留めてきた曲の中で、特に懐かしく思うような映画と映画音楽を、ピック・アップ、コピペ、リメイク、改めて、書き留め置くことにした。


懐かしい映画と映画音楽・その18
映画「渚にて」と主題曲「Waltzing Matilda」(再)

今更になってネット等で調べてみると
映画「渚にて(On the Beach)」は、スタンリー・クレイマー監督、グレゴリー・ペックエヴァ・ガードナーアンソニー・パーキンス 等主演で、1959年(昭和34年)に製作、公開されたアメリカ映画だった。白黒映画で有り、地味な映画という印象だったが、静かに流れる主題曲「Waltzing Matilda」と共に、強く脳裏に焼き付いた映画だった。
第三次世界大戦が勃発し、核爆弾により北半球は壊滅、深海に潜行中だった潜水艦が生き残り、放射線汚染軽微な、オーストラリアのメルボルンに寄航、アメリカのシアトル付近から、モールス信号のような信号が発信されていることが分り、調査に向かうが、結果は、生存者はおらず、空き缶が風の力で打鍵していたものだった。
放射能汚染が南下し、人類の滅亡は回避出来ないことが分り出し、市民は安楽死を臨むようになり、潜水艦の乗組員も、アメリカ軍人として死を望み、オーストラリア領海外で、自沈させる道を選ぶ。
ボタン一つで勃発してしまう核戦争の危険、不安は 当時から有り、より強まっている現代である。人類滅亡へのストーリーを暗示し、警告する映画だったような気がする。

(ネットから拝借画像)

映画「渚にて(On the Beach)」・主題曲「Waltzing Matilda」 (YouTubeから共有)

「Waltzing Matilda」  (YouTubeから共有)


古い写真から蘇る思い出の山旅・その54(1)

2024年07月23日 17時36分31秒 | 山歩記

長男、次男がまだ保育園、小学生だった頃は、夫婦共働きで、時間的余裕も、精神的余裕も、経済的余裕も無い自営業を続けていた時代ではあったが、せめて子供達の思い出になれば・・・との思いが有って、春、秋の行楽シーズン等の休日には、忙中敢えて閑を作り、強引に?、家族で周辺の低山を、よく歩き回っていたものだった。その後、次男が小学生になった頃からは、「せめて毎年1回、夏休みには、家族で登山しよう」と決め込んで、尾瀬や八ヶ岳や白馬岳、乗鞍岳、木曽駒ケ岳、仙丈岳等、夏山登山をしていたが、それまで、登山の経験等ほとんど無く、体力にも自信が無く、山の知識情報にも疎かった人間が、よくもまあ思い切って出掛けたものだと、後年になってからつくづく思ったものだった。長男、次男が巣立ってからも、その延長線で、夫婦で細々、山歩きを続けてはいたが、10数年前に完全に仕事をやめてからは、時間が出来たものの、今度は気力体力が減退、あの山もこの山も、今や、遠い思い出の山となってしまっており、今となっては、あの頃、思い切って、登山を敢行していて、本当に良かったと思うようになっている。ブログを始めてからのこと、そんな山歩きの思い出を、備忘録、懐古録として、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込み、古い写真は、「デジブック」にし、ブログに貼っていたものだが、その後、「デジブック」が終了したことで、ブログから写真が消えてしまい、改めて、順次、古い写真を引っ張り出して、過去の記事をコピペ、リメイク(再編集)しようと思っているところだ。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・・。


今から12年前の2012月7月の下旬に、旧い友人であり、先輩であるI氏と、誘い、誘われ合い、二人で、「乗鞍岳」を訪れたことが有った。
I氏は、当時、すでに後期高齢者で、完全に仕事を辞めていたが、遅ればせながら、山歩きに興味感心を持ち出して、近隣の低山を中心に、何座かを歩き、意気揚々としていた頃だったが、
「元気な内に、1度でいいから、3,000m級の山に登頂してみたい]が口癖になっていた。
盛んに、「どこか、登れそうな山無いかな?、連れてってよ!」とせがまれてもいたのだが、そう言われても、こっちだって、体力的にも、経験的にも、技量的にも自信の無い高齢者、毎度困っていたものだった。当時は、まだ、夏になると声を掛け合い、「暑気払い飲み会」をしていたものだが、酒の勢い?で、「乗鞍岳だったら、なんとか大丈夫かも・・・」という話になったような気がする。
ただ、老いらく二人の山歩きである。無理は禁物、行き帰りの長距離運転のことも考慮し、乗鞍高原で1泊して、時間的に余裕たっぷり、ゆっくり、のんびりの山歩きを計画し、実行に移したのだった。
「乗鞍岳」は、長男、次男が小学生の頃に1度、家族で訪れたことがあり、危険性も無く、初級者向きと分かっていたが、2000m級、3000m級、初めての後期高齢者、しかも病気持ちのI氏同伴とあって、終始、緊張の連続だった気がするが、幸いにも、2日間共天候にも恵まれ お目当てだった高山植物にも沢山会えて、結果オーライ、大満足の山旅だったと思っている。
「夏が来ーれば、思い出すー♫」  
今年も、今まさに、夏真っ盛り、
「夏山、ヤッホー!」を、存分に楽しんでおられる老若男女が、多い季節であるが、
すでに、足、腰、痛!、痛!で、山歩き等を断念している爺さんは、そんな夏山に思いを馳せながら、もっぱら、古い写真を引っ張り出しては、懐かしがっている風である。


深田久弥著 「日本百名山」
「乗鞍岳(のりくらだけ)」
(一部転載)

どこの山もそれぞれ信者を持っていて、その信者たちはそれぞれ独自の雰囲気があるように思われる。例えば近代登山精鋭分子の道場である北アルプス、その中で穂高と乗鞍を挙げてみると、両信者の間にはどこかニュアンスの差異がある。
それを少し誇張して言うと、穂高信者は闘争的で、現実的で、ドライなのに引きかえ、乗鞍信者は平和的で、浪漫的で、ウエットである。もちろんここで言う乗鞍信者とは、信仰登山のそれではなく、まして遊覧バスで運ばれてくる大衆ではない。お金はあまり無いが暇は十分あるという学生時代に乗鞍に住んだことのある人たちを指す。全く、乗鞍は登るというより、住むと言った方が似つかわしい山である。
(中略)
位ケ原まで登って、初めて真正面に、遮るもののない乗鞍岳それ自身に接する。ここからの眺めを、私は日本で最もすぐれた山岳風景の一つに数えている。まずその姿がいい。雄大で、しかも単調ではない。ゆったりと三つの頭を並べたその左端が主峰である。その主峰の右肩の巨大な岩が、間延びを引きしめるアクセサリーになっている。「それから前景の豊かな拡がりがいい。胸を透くように伸びてコセコセしたところがない。
乗鞍は、北アルプスに入れられているが、遠くから眺めると、北アルプスの連嶺とは独立した形で、御岳と並んで立っている。そして御岳の重厚に対して、乗鞍には颯爽とした感じがある。
   うるはしみ見し乗鞍は遠くして
   目といえどながくほこらむ
これは、長塚節(ながつかたかし)の歌だが、乗鞍の姿を一ぺん見た人は、その山を忘れることが出来ないだろう。
(中略)
近代の乗鞍信者は信州の大野川から登るが、昔の登拝者は多くは飛騨側からであった。この山を詠んだ多くの詩歌の類が飛騨側にあるところを見ても、昔は乗鞍は飛騨の山であった。そして幾筋かの登山路もその側から開かれていた。
戦後、頂上まで登山バスの通じたことは一つの驚異であった。街を歩く格好で三千メートルの雲の上を散歩出来ようとは、誰が予想しただろう。しかし、自動車道路がついたために、その道路から外れた所はかえって寂れて、本当に山好きな者に静かな場所を残してくれることになった。
現在、夏の頂上はちょっとした繁華街のおもむきを呈しているそうだが、私はまだ知らない。しかし乗鞍の全体は、バス道路くらいで通俗化するようなチッポケなマッスではない。これほど豊かさと厚みを持った山も稀である。
ただ、頂上を極めるだけで飽き足らない人、その湖沼や森林や高原に暇をかけてさまようことに楽しさを見出す人、・・・、私の言う乗鞍信者が多くはロマンチストであるのもそこから来ている。
(中略)
私が最初に主峰に立ったのは、戦前の初冬快晴の日で、そこから眺めた日本アルプスは言わずもがな眼前に大きく御岳、遠くに美しい白山、そしてその二つの間には、限りもない果てまで山並みが続いていた。
(後略)


山行コース・歩程等

畳平バスターミナル→肩の小屋→乗鞍岳山頂・剣ケ峰→(往路を戻る)→肩の小屋→畳平バスターミナル
(標準歩行所要時間=約2時間30分)

(昭文社「山と渓谷地図」から拝借)


古い写真から蘇る思い出の山旅・その54
「老いらく二人山歩き・乗鞍岳」(再)
(1)
畳平バスターミナル→肩の小屋


前日泊の乗鞍高原鈴蘭小屋

掛け流し湯                  露天風呂

当日は、乗鞍高原観光センター前 午前6時10分発の路線バス(始発)に乗車したようだ。

メモ
乗鞍高原観光センターには、無料駐車場、約300台分有り、
バス乗車券発売開始時刻は、午前5時50分、
乗鞍高原観光センター前~畳平往復、バス料金=2,400円、片道所要時間=約50分、
途中、14ケ所のバス停に停車、
マイカー規制(マイカー乗り入れ禁止)=エコ-ライン、三本滝~乗鞍スカイライン、平湯峠、

途中、バス車内から撮った写真

7時頃、畳平バスターミナルに到着。
時折、ガスが掛かり、風も強く、気温は、10℃前後、
標高2,702mは、下界とは別世界、防寒に雨具を着用、
午前7時30分頃、畳平バスターミナルを出発したようだ。

 

鶴ケ池の南側を回り込んで進み、右に折れ、なだらかな登山道を上がって行く、

乗鞍高原方面、エコーラインも、ガスに霞んで見え隠れ・・、

お目当ての山岳眺望は叶わずだったが、
砂礫斜面には、コマクサの群落が有り・・・、
コマクサの群落初見のI氏は感動・・・、
足が止まり・・・、

 

 

コイワカガミの群落にも、足が止まり・・・、

 

I氏の体調に気を配りながら、ゆっくり、のんびり、雲上散歩・・・・・、

8時15分頃、肩の小屋、
濃いガスの覆われていて、展望も無し、

 

天気予報は、「晴」、
I氏、初めての高山登山、こんな天候のままでは、感動も半減?してしまう、
気になって仕方無かったが、天候回復を期待しながら、山頂へ向かったのだった。

(つづく)


懐かしい映画と映画音楽・その17

2024年07月23日 09時30分47秒 | 懐かしいあの曲

昭和30年代、40年代、地方の小都市にも、邦画、洋画の映画館が1館や2館、必ず有ったものだ。テレビで映画を観られる時代ではなく、ビデオも無し、映画は 映画館に足を運んで観るものだった。薄給だった若い頃、おいそれと映画館通いすることは無理だったが、後年「不朽の名作」と評されているような映画は、結構観ていたように思う。
映画が斜陽産業の代名詞にもなり、映画館が身近な街からどんどん姿を消してしまった頃から、映画館に足を運ぶことも ほとんど無くなっているが、最近は テレビで放送される映画番組等で 時々ではあるが、懐かしい名作映画を楽しんでいる類である。これまで、ブログ・カテゴリー「懐かしいあの曲」に書き留めてきた曲の中で、特に懐かしく思うような映画と映画音楽を、ピック・アップ、コピペ、リメイク、改めて、書き留め置くことにした。


懐かしい映画と映画音楽・その17
映画「ひまわり」と主題曲「ひまわり」(再)

ロシアのウクライナ侵攻が今も尚続いており、日々刻々と、破壊されていくウクライナの国土の映像が世界に発信されているが、この戦争で犠牲になった人々とその家族、国外に避難して、夫や息子、父や親族の生存を祈る数百万のウクライナ国民、そんな現実に思いを馳せながら、心痛めている。
「ウクライナ」・・・、かってのソ連から独立した国であるが、子供の頃、「地理」で「世界の穀倉地帯」等と学んだ記憶が有る。正直なところ、あまり馴染みが無かったような気がしているが、敢えて、「ウクライナ」で連想されるもののひとつと言えば、映画「ひまわり」の「ひまわり畑の情景」がある。
今更になって、ネットで調べてみると
映画「ひまわり」(原題「I Girasoli」)は、ヴィットリオ・デ・シーカ 監督、マルチェロ・マストロヤンニソフィア・ローレン主演で製作され、1970年(昭和45年)に公開された、イタリア、フランス、ソ連の合作映画だった。
戦争によって引き裂かれた夫婦の行く末を悲哀たっぷりに描いた作品だが、劇中、首都キエフ(キーウ)から南へ500km程のヘルソン州でロケされたという、地平線まで広がった「ひまわり畑の情景」は、あまりにも印象的に脳裏に焼き付いている。また、映画の随所に流れていた主題曲「ひまわり」は、数多の映画音楽を担当した、ヘンリー・マンシ-ニの作品で、当時、世界中で大ヒット、やはり、脳裏に焼きついている懐かしい映画音楽のひとつになっているのだ。
「ひまわり」は、ウクライナの国花なのだそうだ。
人間の理性、叡智をもって、1日も早く、休戦、停戦、終戦し、ウクライナが、元の平和な国に戻れるように、祈るばかりである。

(ネットから拝借画像)

映画「ひまわり」 (YouTubeから共有)


北陸の山村で育った爺さん、草花等は、まるで知らず分からずの子供だったが
「ヒマワリ」は、「アサガオ」と共に、結構、身近に有り、最も馴染んでいた花だった。
当地では、見掛けることが少ない「ヒマワリ」を、
散歩・ウオーキングの途中等で見掛けると、
ふっと子供の頃の真夏の情景が炙り出されてきて、
同時に、「ヒマワリ」から、
「アブラゼミ」、「麦わら帽子」、「水浴び」、「夏休み」、「オニヤンマ」・・・等が
連想されてしまう類である。

 


雨上がり、朝焼け、有明の月、待宵草

2024年07月23日 07時56分02秒 | 散歩・ウオーキング

当地、今日の日の出時刻は、4時44分頃、
昨夜から未明に掛けて、何回か雷鳴が聞こえてもいたが、
一時的にかなりまとまった雨が降ったようで、路面が濡れており、
水冷効果?、体感的には、ちょっぴりヒンヤリ、爽やか?
なんやかんやで、休んでいた(サボっていた)早朝散歩・ウオーキング、
いかん、いかん、
やおら重い腰を上げ、
ちょこっと近くを歩いてきた。
スマホの歩数計で、約4,900歩。

有明の月

アオサギ

 

ガガイモ

 

ヨウシュヤマゴボウ

マツヨイグサ

「宵待草」  (YouTubeから共有)


船を漕ぎハワイ夢見る爺の夏

2024年07月22日 21時05分16秒 | 暮らしの記録

当地、今日の最高気温は、38℃?、
不安定な天候で、午後にはほんのいっとき、雷雨も有ったが、
夏本番、35℃超の猛暑日が、ずっと続いており、
下手に動いて、熱中症にでもなったら大変、
ゆっくり、のんびり過すのが一番と決め込んでいる。
危険な暑さ・・であり、
さすがに、エアコン、扇風機を使い分けているが、
特に、昼食後には、眠気に襲われ、
うつら、うつら、こっくり、こっくり、
  船を漕ぎハワイ夢見る爺の夏

(ネットから拝借画像)

若い頃から、ハワイアン・ミュージックに魅せられ、
一度は訪れてみたいと夢みたハワイ、
結局は、一度も訪れる機会等は無く、夢でお終いになってしまったが・・。
毎年、夏本番になると、必ず、ハワイアン・ミュージックが、懐かしくなってしまう爺さんである。

「魅惑のハワイアン」  (YouTubeから共有)

 


懐かしい映画と映画音楽・その16

2024年07月22日 13時04分00秒 | 懐かしいあの曲

昭和30年代、40年代、地方の小都市にも、邦画、洋画の映画館が1館や2館、必ず有ったものだ。テレビで映画を観られる時代ではなく、ビデオも無し、映画は 映画館に足を運んで観るものだった。薄給だった若い頃、おいそれと映画館通いすることは無理だったが、後年「不朽の名作」と評されているような映画は、結構観ていたように思う。
映画が斜陽産業の代名詞にもなり、映画館が身近な街からどんどん姿を消してしまった頃から、映画館に足を運ぶことも ほとんど無くなっているが、最近は テレビで放送される映画番組等で 時々ではあるが、懐かしい名作映画を楽しんでいる類である。これまで、ブログ・カテゴリー「懐かしいあの曲」に書き留めてきた曲の中で、特に懐かしく思うような映画と映画音楽を、ピック・アップ、コピペ、リメイク、改めて、書き留め置くことにした。


懐かしい映画と映画音楽・その16
映画「知りすぎていた男」と主題曲「ケ・セラ・セラ」(再)

何事にも、切羽詰まらないと重い腰が上がらない爺さん、窮地に陥った場合でも、なんとかなるんじゃないか等と思ってしまう、どちらかというとノーテンキ、呑気な爺さんであるが、そんな時等に、ふっと浮かんでくる言葉に、「ケ・セラ・セラ」が有る。
それが、映画「知りすぎていた男」の主題曲名だったことを知ったのは、ずいぶん後年になってからのことだったが、「ケ・セラ・セラ」という曲の方は、昭和30年代から、よくラジオ等から流れていて、脳裏に焼き付いていたような気がする。

今更になってネット等で調べてみると
映画「知りすぎていた男(The Man Who Knew Too Much)」は アルフレッド・ヒッチコック監督、ジェームス・ステュアートドリス・デイ(Doris Day)主演で製作され、1956年(昭和31年)に公開された、サスペンスタッチのアメリカ映画だった。この映画の中で、主演のドリス・デイが歌っていた主題曲、「ケ・セラ・セラ(Que Sera Sera)」は、アカデミー歌曲賞を受賞、数多の歌手にカバーされ、大ヒット、日本でも、雪村いずみやペギー葉山等が歌い、誰にでも親しまれていた曲の一つだった気がする。「ケ・セラ・セラ(Que Sera Sera)」とは、「なるようになる(Whatever Will Be Will Be)」という意味のスペイン語なのだそうだ。

(ネットから拝借画像)

映画「知りすぎていた男」・主題曲「ケ・セラ・セラ」・ドリス・ディ  (YouTubeから共有)

「ケ・セラ・セラ」・雪村いづみ  (YouTubeから共有)

「ケ・セラ・セラ」・ペギー・葉山  (YouTubeから共有)


古い写真から蘇る思い出の山旅・その53

2024年07月22日 07時59分55秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その53
「上高地から西穂高岳・遠い記憶」(再)


もう60年前にもなる学生時代、1964年(昭和39年)7月に、同じ学生寮で親しかった、長野県松本市出身のU君と、「上高地」から「西穂高岳」に登ったことが有り、その写真が貼ってある、古いアルバムが有る。
当時、登山は、主に若者達のレジャーであり、とりわけ、登山のメッカ、北アルプスは、憧れの的だったように思うが、奨学金と家庭教師のアルバイトで、寮生活を送っていた貧乏学生には、そんなレジャーを楽しむ余裕等有るはず無く、旅行も登山も無縁で、悶々としていたような気がする。
それが、U君に誘われたのか、U君を誘ったのか、記憶は定かで無いが、意気投合し、なんとか金銭の工面をして、思い切って、「西穂高登山」をしたのだった。
登山靴、リュック等の装備・・、どのように準備したのかも記憶に無く(多分、借り物)、登山の経験もほとんど無く、知識も乏しく、多少経験有りのU君におんぶにだっこだったような気がする。当然、カメラ等持っているはずがなかったが、カメラを携帯している写真が有り、もしかしたら、従兄弟か誰かから借りていったのかも知れない。
図々しくも、確か、松本城の近くだったと思うU君の実家にもお邪魔し、ご馳走になったり大変お世話になった気がする。
今となっては、U君と登った「西穂高岳」は、数少ない青春の思い出の一つになっているのである。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら、セピア色化している、古い 白黒写真をスキャナーで取り込んで、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き留め置くことにした。


山行コース・歩程等

上高地→田代橋(西穂高岳登山口)→西穂山荘→丸山→独標→西穂高岳山頂→
(往路を戻る)→独標→丸山→西穂山荘→田代橋(西穂高岳登山口)→上高地
(標準歩行所要時間=約11時間)

(昭文社「山と渓谷地図」から拝借)

記録メモ等、全く残っておらず、記憶もほとんど喪失しており、その正誤も明らかで無いが、確か、松本から電車(松本電鉄)で「新島々」へ、「新島々」からはバスで「上高地」入りしたのだと思う。

上高地バスターミナル
懐かしい、当時の登山者のスタイルも・・・・。

初めて訪れた上高地、
河童橋、梓川・・・・・、
全てに、感動したような気がする。
その日は、U君出身の地元高校登山部が夏季常設?していたのだと
思われる大テントの中に、頼み込んでもぐり込み、
1泊させてもらったのだった。

 

 

西穂高岳がどんなに厳しい山なのかの知識もあまり無かったような気がする。
翌日早朝、意気揚々と出発。

焼岳・西穂高岳 登山口?、

上高地からの急登を登り切り、バテバテ?、
南方に、焼岳、

尾根上の爽快感、
ヤッホー!気分?

独標(標高2,701m)

独標から続く厳しい岩稜を振り返り見る 

眼下に、上高地

 

北方には、槍ケ岳の勇姿

西穂高岳から奥穂へ続く厳しい稜線、
奥穂、前穂の吊り尾根
写真2枚を繋ぎ合わせて有る、

西穂高岳山頂(標高 2,908.6m)

上高地出発から帰還まで、10時間以上?、
疲労困憊したはずであるが、若かったから出来た登山、
後年になって、よくもまあ、上高地から西穂高岳ピストンしたものよ・・・・と、
我ながら、呆れ返ったものだった。
これら、数枚の古い白黒写真は、やはり、廃棄処分出来ない宝物?・・である。


因みに
時代が変わって、2011年(平成23年)9月には 妻と二人で、「新穂高」から「ロープウエイ利用」で、「西穂山荘」に1泊、ゆっくり、のんびり、再び、「西穂高岳」を訪れ、学生時代に親友U君と登った山の思い出を辿り、感動を新たにしたのだった。


振り返り記事・「妻と二人で登った西穂高」
👇️
古い写真から蘇る思い出の山旅・その26(1)
古い写真から蘇る思い出の山旅・その26(2)
古い写真から蘇る思い出の山旅・その26(3)


 

 

 


懐かしい映画と映画音楽・その15

2024年07月21日 13時21分47秒 | 懐かしいあの曲

昭和30年代、40年代、地方の小都市にも、邦画、洋画の映画館が1館や2館、必ず有ったものだ。テレビで映画を観られる時代ではなく、ビデオも無し、映画は 映画館に足を運んで観るものだった。薄給だった若い頃、おいそれと映画館通いすることは無理だったが、後年「不朽の名作」と評されているような映画は、結構観ていたように思う。
映画が斜陽産業の代名詞にもなり、映画館が身近な街からどんどん姿を消してしまった頃から、映画館に足を運ぶことも ほとんど無くなっているが、最近は テレビで放送される映画番組等で 時々ではあるが、懐かしい名作映画を楽しんでいる類である。これまで、ブログ・カテゴリー「懐かしいあの曲」に書き留めてきた曲の中で、特に懐かしく思うような映画と映画音楽を、ピック・アップ、コピペ、リメイク、改めて、書き留め置くことにした。


懐かしい映画と映画音楽・その15
映画「太陽がいっぱい」と主題曲「太陽がいっぱい」(再)

昭和30年代、北陸の山村の実家を離れ、学生寮に入って間もない5月の休日、雲一つ無い真っ青な空、いわゆる 五月晴れの日だったと思うが、3人部屋の同室の先輩に誘われて、映画を観にいくことになった。ど田舎から都市へ出てきたばかりで、映画館や映画情報にも疎かった貧乏学生、どこで何が上映されているかも知らず、ただ先輩に付いて行ったような気もするが、向かった先は、当時良く有ったと思う「洋画3本立て」の映画館だった。
なんで、そんな昔のこと、記憶に残っているのかは不思議であるが、初めての街で、初めての映画館で、しかも、上映されていた映画が、感動、衝撃、印象が余りにも強かった「太陽がいっぱい」だったからかも知れない。同時上映されていた映画「撃墜王アフリカの星」も、強烈に記憶に残っているが、もう1本は、まるで思い出せない。
記憶は曖昧だが、確か、就職してからだったと思う。その、「太陽がいっぱい」のドーナッツ盤レコードが、どうしても欲しく、薄給にも拘らず、無理して買ってしまったような気がする。若い頃、飽きもせず良く聴いていたものだ。溝はすり減り、音質はかなり悪くなっているが、CD時代になってからも、なかなか廃棄処分出来ず、段ボール箱に仕舞い込んでいて、ブログを始めた頃からのこと、時々、引っ張り出して聴いたりもし、ブログネタにもしている。

              

今更になってネット等で調べてみると
映画「太陽がいっぱい(Plein Soleil)」は、1960年(昭和35年)公開にの、ルネ・クレマン監督、アラン・ドロン、マリー・ラフォレ、モーリス・ロネ主演のフランス・イタリア合作映画で、当時 ニーノ・ロータ作曲による主題曲「太陽がいっぱい」も、大ヒットしたものだった。
主演のアラン・ドロンの個性、魅力もさることながら、サスペンスタッチのストーリー性、地中海のギラギラする風景、すべてが、鮮烈に感じたものだった。
映画の中で終始、強く弱く流れる、日本人好みのワルツ調の「太陽がいっぱい」が、一層、場面を盛り上げており、当時はまだ、「映画音楽」等というジャンルを意識したこともなかった類であったが、日本映画には無い、映画の音楽性に感動したのだと思う。

映画「太陽がいっぱい」 (YouTubeから共有)

コメント (2)