長男、次男がまだ保育園、小学生だった頃は、夫婦共働きで、時間的余裕も、精神的余裕も、経済的余裕も無い自営業を続けていた時代ではあったが、せめて子供達の思い出になれば・・・との思いが有って、春、秋の行楽シーズン等の休日には、忙中敢えて閑を作り、強引に?、家族で周辺の低山を、よく歩き回っていたものだった。その後、次男が小学生になった頃からは、「せめて毎年1回、夏休みには、家族で登山しよう」と決め込んで、尾瀬や八ヶ岳や白馬岳、乗鞍岳、木曽駒ケ岳、仙丈岳等、夏山登山をしていたが、それまで、登山の経験等ほとんど無く、体力にも自信が無く、山の知識情報にも疎かった人間が、よくもまあ思い切って出掛けたものだと、後年になってからつくづく思ったものだった。長男、次男が巣立ってからも、その延長線で、夫婦で細々、山歩きを続けてはいたが、10数年前に完全に仕事をやめてからは、時間が出来たものの、今度は気力体力が減退、あの山もこの山も、今や、遠い思い出の山となってしまっており、今となっては、あの頃、思い切って、登山を敢行していて、本当に良かったと思うようになっている。ブログを始めてからのこと、そんな山歩きの思い出を、備忘録、懐古録として、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込み、古い写真は、「デジブック」にし、ブログに貼っていたものだが、その後、「デジブック」が終了したことで、ブログから写真が消えてしまい、改めて、順次、古い写真を引っ張り出して、過去の記事をコピペ、リメイク(再編集)しようと思っているところだ。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・・。
かれこれ38年前、1986年8月に、当時、中学1年だった長男と、小学3年だった次男を連れて、家族4人で、「乗鞍岳」と「上高地」を訪ねたことが有った。もちろん、乗鞍岳も上高地も、家族で訪れるのは初めてだったが、とにかく、時間的余裕、経済的余裕、精神的余裕の無かった頃で、自宅を真夜中に出発し、高速道路を飛ばし、畳平まで上がり、乗鞍岳をピストンした後、上高地で1泊、翌日は、明神池までハイキングし、その日の内に、高速道路を飛ばし、家に戻るという、強行軍山行だった。後年になって、なんと無茶なことをしていたものよと自嘲もしたが、当時は、それが精一杯だったのだと思っている。
まだ、バカチョンカメラ(ポケット型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、フィルム代、プリント代を気にしながら撮った写真は、ほんの数枚だが、プリントして、アルバムに貼って有り、以前スキャナーで取り込んだものが、外付けみHDに残っており、改めて引っ張り出し、思い出を辿ってみることにした。でした。
深田久弥著 「日本百名山」
「乗鞍岳(のりくらだけ)」
(一部転載)
どこの山もそれぞれ信者を持っていて、その信者たちはそれぞれ独自の雰囲気があるように思われる。例えば近代登山精鋭分子の道場である北アルプス、その中で穂高と乗鞍を挙げてみると、両信者の間にはどこかニュアンスの差異がある。
それを少し誇張して言うと、穂高信者は闘争的で、現実的で、ドライなのに引きかえ、乗鞍信者は平和的で、浪漫的で、ウエットである。もちろんここで言う乗鞍信者とは、信仰登山のそれではなく、まして遊覧バスで運ばれてくる大衆ではない。お金はあまり無いが暇は十分あるという学生時代に乗鞍に住んだことのある人たちを指す。全く、乗鞍は登るというより、住むと言った方が似つかわしい山である。
(中略)
位ケ原まで登って、初めて真正面に、遮るもののない乗鞍岳それ自身に接する。ここからの眺めを、私は日本で最もすぐれた山岳風景の一つに数えている。まずその姿がいい。雄大で、しかも単調ではない。ゆったりと三つの頭を並べたその左端が主峰である。その主峰の右肩の巨大な岩が、間延びを引きしめるアクセサリーになっている。「それから前景の豊かな拡がりがいい。胸を透くように伸びてコセコセしたところがない。
乗鞍は、北アルプスに入れられているが、遠くから眺めると、北アルプスの連嶺とは独立した形で、御岳と並んで立っている。そして御岳の重厚に対して、乗鞍には颯爽とした感じがある。
うるはしみ見し乗鞍は遠くして
目といえどながくほこらむ
これは、長塚節(ながつかたかし)の歌だが、乗鞍の姿を一ぺん見た人は、その山を忘れることが出来ないだろう。
(中略)
近代の乗鞍信者は信州の大野川から登るが、昔の登拝者は多くは飛騨側からであった。この山を詠んだ多くの詩歌の類が飛騨側にあるところを見ても、昔は乗鞍は飛騨の山であった。そして幾筋かの登山路もその側から開かれていた。
戦後、頂上まで登山バスの通じたことは一つの驚異であった。街を歩く格好で三千メートルの雲の上を散歩出来ようとは、誰が予想しただろう。しかし、自動車道路がついたために、その道路から外れた所はかえって寂れて、本当に山好きな者に静かな場所を残してくれることになった。
現在、夏の頂上はちょっとした繁華街のおもむきを呈しているそうだが、私はまだ知らない。しかし乗鞍の全体は、バス道路くらいで通俗化するようなチッポケなマッスではない。これほど豊かさと厚みを持った山も稀である。
ただ、頂上を極めるだけで飽き足らない人、そのの湖沼や森林や高原に暇をかけてさまようことに楽しさを見出す人、・・・、私の言う乗鞍信者が多くはロマンチストであるのもそこから来ている。
(中略)
私が最初に主峰に立ったのは、戦前の初冬快晴の日で、そこから眺めた日本アルプスは言わずもがな眼前に大きく御岳、遠くに美しい白山、そしてその二つの間には、限りもない果てまで山並みが続いていた。
(後略)
山行コース・歩程等
畳平→肩の小屋→頂上小屋→乗鞍岳山頂(剣ケ峰)→肩の小屋→畳平
(標準歩行所要時間=約2時間30分)
(昭文社「山と渓谷地図」から拝借)
古い写真から蘇る思い出の山旅・その52
「家族で初めて訪れた乗鞍岳と上高地ハイキング」(再)
(1)
当時はまだ、畳平まで、マイカーでも行けた時代で、畳平の駐車場に車を置き、乗鞍岳山頂(剣ケ峰)をピストンする山旅が出来たのだった。
エコーライン途中で、車を停め、ちょこっと休憩、
天気は、最高、気分も最高・・・、
だったが・・・・、
正確な記録メモは無く、畳平の駐車場に到着した時刻が何時頃だったのか、はっきりしないが、
到着時、すでに満車寸前状態で、順番に案内され、かろうじて駐車出来たような気がする。
駐車場に入れない後続車の長い列を見て、タイミングの良さを喜んだ記憶が有る。
畳平の標高は、2,707m、爽快!、
いざ、山頂に向けて出発!、
途中、高山植物がいっぱい有ったはずだが・・・・、
花の写真、1枚も無し。
当時はまだ、高山植物であろうがなんであろうが、
花に興味関心も無く、まるで無知だったことが分かる。
休憩しては、パチリ!、
寝不足、疲れ、暑さで、バテバテ・・・・、
肩ノ小屋を振り返り、また 休憩・・・、
また、休憩・・・、
頂上小屋、
とにかく 休憩・・・、
13時頃、乗鞍岳山頂(剣ヶ峰、標高3,026.3m)に着いたようだ。
14時過ぎには、畳平に戻ったようだが、
上高地に宿泊予約して有り、ゆっくり、楽しむ余裕も無く、
すぐさま出発、エコーラインを下って戻り、沢渡へ移動、
沢渡の有料駐車場に車を停めたが、
その時間帯、上高地へのバス便が少なかったのだろう、
待機時間節約?のため、4人だと、それほど料金に差がなかった、
タクシーを利用して、上高地に入ったような気がする。
経済的余裕の無い頃のこと、あらかじめ宿泊予約していたのは、
「健康保険保養所上高地山の家」だった。
やはり、正確な記録メモは残っていないが、
山宿チェックインとしては、ギリギリ、セーフ、16過ぎに、到着したような気がする。
ノビている次男
長男は、宿題?、手紙?
ぎゅうぎゅう詰めの山小屋とは違い、
ゆっくり寛ぎ、眠りについたような気がする。
(つづく)