ステージおきたま

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コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

『かぐや姫の物語』今風解釈ってちょっとねぇ

2015-03-14 09:42:42 | 映画
 なるほどなぁ、そりゃそうだ。かぐや姫の成長期ってあるはずだし、山賀育ちの姫や竹取の翁夫婦が都に出て暮らしを一変させていく過程も当然あってしかるべきだ。そこに着眼したところは、やるねぇ高畑さん。それと、幼児のかぐや姫が絆を結ぶのが、山の民・木地師の子どもらってのもさすがだ。異界から来たかぐやと材料の木を求めて山を流浪する木地師、心通い合うに無理はない。この設定のせいで、10年後の再開という劇的展開、まぁうすうす予想はついたけど、も巧みに開けた。でも、山の子らがいるなら里の子らもいるはずで、そこには差別、被差別の厳しい現実があったはずなんだけど、監督はそんなどろどろには触れなかった。後々、心通わすうるわしのふるさとが、この物語に必要だったからだろう。

 小鳥や虫など小さきものたちへの情愛、木々や草花もいとしく描かれていて、高畑監督の自然に寄り添う姿にほんわかと暖かいものを感じたりもした。一番印象的だったのはこぶしが花開くシーンの美しさかな。『おもひでぽろぽろ』制作の折、ここ高畠にも足繁く通った監督だ、きっと山裾にすっきりと立つこぶしの木に強く打たれていたんだろう、なんて手前勝手に想像してほくそ笑んだりした。

 でも、姫たちが都に出てからがなんとも退屈になってきた。なんとか飽きさせぬようにと、養育係と姫と追いかけっこや貴公子たちの求愛、なんかをコミカルに描いてみたりするのだけど、どうもいけない。自由な山暮らしに心惹かれいて、言い寄る男たちを振っていくって解釈なんだろうけど、これってなんか安っぽい理屈じゃないか?見る側には納得しやすい描き方って言えないこともないけど、なんだか底の浅い岸辺で足下さらおうとしているようで、ちょっと馬鹿にしてない?

 迫り来る月への帰還から逃れようと、初恋の人捨丸とのひとときの逢瀬に宙を飛ぶ、若い女性たちの涙を誘うシーンなんだろ。でもなぁ、今風なんだよ。月からの迎えも、帝に襲われたかぐや姫が月に助けを求めたからってなっている、ってことは、もし救いを求めなければ、そのまま地上で暮らせたってことか?ここらが釈然としないところなんだな。

 『竹取物語』のような御伽草子って、理屈とか解釈なんかまるっきり超えたとこで成り立ってるものなんだと思う。たくさんの不思議があり、考えたらどうして?って部分がしこたまある。だいたい竹から女の子が生まれるって、話の始まりからして無理無理無理なわけで、それを承知で物語に身を任せていくのが、昔語りと正しく付き合う方法なんじゃないか?不可解だからこそ、そこはかとない世界が立ち現れてくる。そういうもんだ。判らないからって、辻褄つけたり、論理で階段かけたり、すると、結局訳知りの実知らず!ってことになるんだと思う。ここが、この映画に物足りなさ感じた理由なんじゃないかな。

 最後に、月からのお迎え、魅力的じゃなかったなぁ。あんな人たちが住んでるの?あれじゃ、月に憧れたりしないよ。

 
コメント
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