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映画『戦雲いくさふむ』を見て感じたこと

2024-11-12 09:33:49 | 映画
三上智恵監督の最新作『戦雲いくさふむ』。



今回カメラが追ったのは、南西諸島だった。自衛隊の移駐が拡大する中、ミサイル配備や弾薬庫の移設などに反対する人々に密着する。

突如として与えられた最前線基地の立場、平和な島の暮らしを脅かし、村を2分して、繁栄するどころか、島を後にする若者も多い現実が丹念に明かされる。

粘り強く反対を続ける人々、その屈せず諦めぬ姿が圧倒的だった。少数になり、孤立に近い状態にされても、戦い続ける胆力を持ち続けることができるだろうか。人生の最後の数年間をすべて投げ入れて基地前で叫び続けることができるだろうか。
そんな、信念を保持し続けることの大切さの描写が、見る者に静かな決意を問う、そんな映画だ。

ただ、相手が米軍ではなく、自衛隊だということが、難しさを感じさせる。
ミサイルが排他的経済水域に着弾し、台湾有事が声高に叫ばれる中での自衛隊の配備だ。

自衛隊の配備が、島を守る、島民を守るとの主張は一定の説得力を持ってしまう。その中でも戦うには、平和な暮らしを返せ、戦争につながる配備反対では、弱いのかもしれない。米軍に対するナショナリズムの反発を発動できないからだ。

反対の叫びや様々な行動ばかりでなく、島の暮らしのゆったりと豊かなさまを丁寧に見せてもらいつつ、感じていた物足りなさは、この自衛隊基地そのものを否定する論拠が、示されないことだった。

監督の意図が暮らしと人々から基地を問う、というもであることは重々わかりつつ、やはり、台湾有事なるものの欺瞞性や、アメリカの対中国敵視策に組み込まれた日本政府の実態、その発現として自衛隊、及び基地というものを浮かび上がらせないと、反対運動への共感の渦巻きは生み出せないのではないかという不満だ。

台湾有事などほぼほぼないし、あったとしても日本が率先戦いの先頭に立つ必要などまったくないのだ。なまじ基地を拡充し、大陸をも射程に入れるミサイルなど、強力な武力を備えることの方が、島の危険性をいやがうえにも高める、というリアルな戦略的視点を持ち込む必要があるのではないか。

第二次大戦の際、本土空襲に必要な島を確保した米軍は、周囲の幾つかの島々に侵攻することなく戦場を北上させていった。
南西諸島も同様の地理的位置にある。万が一他国が侵略することがあったとして、これらの島々を確保する合理的理由はない。基地さえ叩いておけば、まったくの無力な地域だからだ。上陸して基地化するなど、このミサイル時代に無意味なことは、誰にだってわかる。

そんな国の防衛に関する議論を持ち込まず、あくまで島に暮らしその自然な延長として反対を叫ぶ人達の生き様と島の文化や暮らしを描きたいとの監督の姿勢は、それはそれで貴重なのだが、観客をして基地の必要性を考えるきっかけを突きつけるためには、現政権が進める防衛戦略の欺瞞と危険性の議論は避けて通れぬものなのではないだろうか。

それはやけに理屈っぽく無粋な政治的色合いをまとわせてしまうことになるには違いないのだが。

映画の中で一番心に残ったやりとり。
高い金網フェンスの中の自衛隊員に、反対の住民が声をかける。
「戦争になったらさっさと逃げなさいよ」
隊員の応え、
「ありがとうございます」
そう、それでいいんだ、マジに戦ったりすれば、隊員も住民も命の危険にさらされることになる、そんな馬鹿々々しいことはない。離島での激戦が日本を救うことにゃならんし、だいたい、守る日本っていったい何なんだよ?

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