役者が素晴らしい、とか、セリフが刺さる、とか、登場人物やその設定が多彩でしかも無駄がない、とか、台本書きの隅っこにいる俺、ダメだなぁ、ってやり切れない劣等感に苛まれたけど。
ずっと考え続けてたのは、登場する人物のうち、俺なら誰だろ?って問いだった。
虐殺される薬売りの行商?これはないだろう、非差別民の立場にゃないし、今から旅暮らしはない。
じゃ、南葛飾署に連行されて斬首される社会主義者か?最後の時に「社会主義革命万歳」って叫んで死ねるか?無理だ。
殺気立つ自警団と行商人たちの間に割って入った朝鮮から出戻りのインテリか?最後の最後に勇気を振り絞る、あのぎりぎりの決断をできるかどうか?
警察の沙汰を待つよう必死に説得したデモクラシー信奉者の村長か?
惨劇を止められぬまま新聞記者に書かないでくれと懇願する姿、たとえ自分は暴挙に手を貸さなかったとは言え、先々そこに生きねばならぬ村社会の惨たらしさを示していたなぁ。
あるいは村の半端者船頭の倉蔵か?村からはみ出している分、行商人たちの側に立つことができた。俺の場合、除け者にゃなれる、ってか、すでに根無し草だが、そのフリーランスの強みで押し寄せる暴徒の前に立つ、なんてできっこないさ。
「朝鮮人なら殺してもいいんか!」と叫んで真っ先に斧の一撃を受けるリーダーの新助なんかにゃ足元に及ばぬし。
事実を書くことを貫こうとする女性記者?そうありたいと心から願うが、きっと、すぐ妥協してしまうだろう。
と、登場人物を一渡り見回して来て、暗い直感!やり切れぬ敗北感!
自警団がいるじゃないか?在郷軍人がいるじゃないか?
絶対に、彼らのように噂に駆られ盲目的に残虐行為に走りたくはない!それだけはしたくない!
でも、俺の可能性ったら、自警団の尻馬なんじゃないか?
フェイクニュースを信じ、身の危険に過度に反応し、力ある者に付和雷同し、ずるずると無法な行為に流されて行く、そんな生き様が俺のような気がする。
嫌だ、そんな人間にはなりたくない!
と、思いつつも残虐行為に加担して行ったのが村人たちだった。
あんな悲惨で冷酷な犯罪はこの先起こるもんじゃない、なんて、考えるとしたら、そりゃお気楽ってもんだぜ。
見てみろよ、今の世の中を。
反日とか非国民って言葉はじわじわと蘇って来てるだろ。朝鮮や中国、あるいは少数民族、外国人移住者、難民の人々へのあからさまな差別はますます強くなりつつある。大震災時の虐殺の歴史まで、ないことにされようとしている、都知事まで加担して。
真実を伝えるべきメディアはどうだ?
「私たち新聞は何のために存在しているのですか。読者を喜ばせるためですか。それだけですか。権力の言うことはすべて正しいのですか。」
女性記者の突きつける問いに面と向かって応えられるメディアはどれだけいるだろう。政府広報と化したNHKはじめ、政府発表垂れ流しの民放、批判精神欠如した大手紙の記者たちは。
誰もが、突きつけられているんだ、あんたならどうする?
あんたは虐殺に手を貸さないと断言できるのか?迫害者の前に立ちはだかれるのか?
行く先も見失い川の流れのままに漂って行く二人のようになるのか?
そんなぎりぎり切羽詰まった窮状に追い込まれないことが、何よりなのだが。
それには、・・・・
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