Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

大天使聖ミカエルの祝日の説教、二本が公開されています。

2024年10月03日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ワリエ神父さまの9月29日の日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)での「大天使聖ミカエルの祝日の説教」が、新しい聖ピオ十世会日本のウェブサイトで公開されています。

 

大天使聖ミカエルの祝日の説教(2024年、大宮)

FSSPX Japan

 

また、

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべの、聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)での「大天使聖ミカエルは天主から全て受けたことを深く知り、それに従って行動した」も、新しい聖ピオ十世会日本のウェブサイトで公開されています。

 

大天使聖ミカエルは天主から全て受けたことを深く知り、それに従って行動した

FSSPX Japan

 

ご報告いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【お知らせ】聖ピオ十世会日本の公式ウェブサイトが誕生しました

2024年09月29日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
日本の守護者大天使聖ミカエルの祝日、おめでとうございます。

今日、愛する兄弟姉妹の皆様にニュースをお知らせします。
まず、聖ピオ十世会日本の公式ウェブサイトが誕生しました。ご紹介します。

このウェブサイトはまだ工事中ですが、皆様の御愛顧をよろしくお願いいたします。また、このサイト構築のために、多くの方々の助けを得ました。改めてお礼を申し上げます。


また、大天使聖ミカエルの祝日に、聖なる日本の殉教者聖堂(大宮)と聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)では、トマス小野田神父の司祭叙階三十周年で皆様からいただいたプレゼントのカリスを使い始めました。心から感謝申し上げます。


【聖母の汚れなき御心聖堂での新しいカリス】

最後に、新着のお祈りの依頼ですが、ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教さまのためにお祈りください。司教様は、昨日、階段で転んで、病院で治療を受けておられるそうです。

大天使聖ミカエル、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様に天主さまの祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父





9月29日、日本の守護者大天使聖ミカエルの祝日に、こちらのブログでニュースを発表いたします。

2024年09月27日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

あさっての9月29日、日本の守護者大天使聖ミカエルの祝日に、こちらのブログでニュースを発表いたします。よろしくお願いいたします。

天主さまの祝福が豊かにありますように!
大天使聖ミカエル、我らのために祈り給え!

トマス小野田神父




聖ピオ十世会の神学校に行けといってくださった恩人司祭ヨゼフ・マリ・ジャック神父様の思い出

2024年09月27日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!
 
愛する兄弟姉妹の皆様、
 
 
いかがお過ごしでいらっしゃいますか?先日の9月6日に、Inside the Vatican の Dr. Robert Moynihan と Matt Gaspers さんと秋田の聖母についてのライブ配信のインタビューがありました。その時、伊藤司教さまと一緒に聖母の涙を目撃した、聖アンナ藤枝カトリック教会の元主任司祭のヨゼフ・マリ・ジャック神父様の話がでました。ヨゼフ・マリ・ジャック神父様が私に聖ピオ十世会の神学校に行けといってくださった恩人司祭なので、とても神父様には感謝しております。
 
そこで、私が持っている1981年に発行された「藤枝聖母幼稚園創立30周年記念誌 —新園舎新築落成—」の中から、園長ヨゼフ・マリ・ジャック神父様が書かれた、三十周年にあたって 「藤枝聖母幼稚園の歴史と方針」という記事を御紹介したいと思います。内容は変えずに、すこし手を加えた部分もあります。
 
三十周年にあたって 「藤枝聖母幼稚園の歴史と方針」
 
西暦1980年(昭和55年)12月8日、カトリック教会では、聖母マリアの無原罪の祝日を祝っております。この「マリア・インマクラタ」の汚れなきみ心に捧げられた藤枝聖母幼稚園の新築と、三十周年のお祝いを迎えることは、28年前から園長である私にとって、最高の喜びであります。実際の園長は、マリア様ご自身だと思っております。私は、マリア様のとるに足りないしもべにすぎません。
 
今日、透きとおった青空の中にそびえる真白な富士山を眺めると、自ら天主様の偉大さと、この藤枝聖母幼稚園の保護者でいらっしゃるマリア様の、美しい清らかなインマクラタの心を賛美せずにはいられないのです。 
 
「至聖なる三位一体の真白な百合よ!」 
この藤枝聖母幼推園の三十周年の歩みを振り返って見ると、天主様がマリア様を通して、偉大な業をなされたのだと深く感じます。 
今年の卒業生を含めて、3,166人を社会に送ることができるようになり、現在、最初の卒業生が自分の子供を入園させる段階になって、この園の尊い役割をつくづく考えさせられます。
 
最初にさかのぼると1950年(昭和25年)、その当時は、フェルナンド・デルボス神父様が藤枝教会の主任司祭でした。神社に面して川に沿った伝道館を、社会にもっと役だてる為に、洋裁学校にしようと思っておられた神父様は、その意図を近くの文房具店のテレジア原木芳子さんに話されたのです。すると、生れたばかりの赤ちゃんをおんぶしていたこのお母さんはいきなり、「神父さん、それより、教会の幼稚園をつくったらどうですか?」と、赤ちゃんを見せながら、「この子もお世話になりますよ。」と、なにげなくおっしゃったのです。この道端での会話がきっかけで、藤枝聖母幼稚園は誕生しました。早速デルボス神父様は、伝道館を南側に移動して、それをごく簡単な幼稚園に改築されました。しかし、建物があっても子供が居なければどうにもなりません。教会の信者はじめ、特に当時の委員達は奮発して、子供と先生の募集に歩き回りました。信者でない人々もがんばりました。特に小野田すえさん達は、大変力を尽くされました。やっと、30名の子供と2人の先生が集まりました。
 
さあ、幼稚園が始まります。丁度一年前にフランスから来たばかりの、アンリー・ジャシェ神父様がいらっしゃったので、地区長であったデルボス神父様はすぐに、その若い神父様を園長とされ、「さあ、がんばれ!」と励まして、自分は身を引かれました。
 
そして園の力になってあげられました。折角の元気いっぱいの若い神父様だったのに、一年たったら清水教会へ移ってしまわれました。しかし、彼に負けない活発な神父が園長として、任命されました。それはやっぱり、フランスから来たばかりのホヤホヤの私の兄、アントニオ・ジャック神父でした。幼稚園の雰囲気は、若いエネルギーと希望にみなぎっていたところでしたが、一年ちょっとたったら、又、アントニオ神父も横須賀教会へ転任してしまったのです。その後継者として、このへっぽこな弟である私、ヨゼフ・マリ・ジャック神父が、1952年(昭和27年)の12月半ばに、藤枝教会の主任司祭に任命され、同時に、藤枝聖母幼稚園の園長となりました。それで、三年目の卒業式を行ないました。毎年園長が代わるのではないかと、皆は思っていたのに、今度はその心配は無用でした。あれから、ずーっと今まで、子供達と先生と御父兄と一緒に、元気よく楽しくすごしてきました。 
 
ザッシェ神父様とアントニオ神父が私に残された最後の言葉は、「聖母幼稚園の評判はよくなっているから、子供達がもっと入るだろう。その為には、この伝道館は小さく古すぎるから、増築するよりも、こわして新しくする方がよい。」との事でした。さあ、 言うのはやさしいことですが、お金なしでどうして建てなおすのかと、自分自身に問いました。聖書には、「天主にはできないことはない。」という言葉があり、又、「信仰があれば、山を動かすことができる。」という言葉もあります。これだけでやろうと、私は決心しました。銭は無いけれど、善意を百パーセント持っていました。能力も、0(ゼロ)。あったのは、正確に、15,102円。0(ゼロ)に近いものでした。然し信頼だけは無限でした。沢山の000の前に数字を一つ置けば、ものすごい大きな価値をもつようになると同じく、 天主様とマリア様を0の前に置いて、不可能な事は可能になりました。「フランスの乞食」と呼ばれるくらい方方、お金を探して毎日歩き回りました。御父兄にも借りたり、信者の方々にも寄付をしてもらいました。先生方も当時の少ない、しかも貴重なボーナスまで寄付してくださいました。2,633,200円かかった新しい幼稚園の落成式を、1953年(昭和28年)10月26日に迎えることができました。その頃、私はあまり日本語が話せなくて大変苦労しましたので、その時の挨拶や、感謝の言葉を、今でも一言一句忘れることができません。しばらくたつと、御父兄に借りたお金を少しずつ返し始めました。すると皆は、びっくり仰天、「学校の場合によくあるように、きっと借りたお金を寄付してくださいという通信が後で来るだろうと思っていたのに、 実際に返していただいてすみません。」又、他の人は、その誠実さに対して、「もっと借してあげればよかった・・・。」と言ったり、又、「返していただかなくても、寄付させていただきます。」という言葉がかえってきました。増々、藤枝聖母幼稚園に対する信頼と評判が高まってきました。
 
まもなく、1956年(昭和31年)訪問童貞会のシスター方が、藤枝教会に来られました。幼稚園の二階に住んで、狭い廊下で食事をし、とても質素で清貧でした。又、せっせと喜んで働いてくださっている姿を見て、信者と父兄は大喜びでした。 
この藤枝聖母幼稚園は、天主のみ心にかなう教育がもっと良く行なわれるように、1956年(昭和31年)11月11日に公に、イエズス・マリアの汚れなきみ心に、園を奉献するように正式にいたしました。あの時から、すごく充実しましたので、その奉献文をここにのせておきます。
 
聖心に幼稚園を献ぐる祈
 
子供を可愛がって下さるイエズス様、あなたの優しいお母様と御一緒にどうぞ私達の所にお出で下さいませ。あなたは此の幼稚園の王様でいらっしゃいます。やさしいイエズス様、あなたの子供である私達の申し上げることをお聞き下さいませ。あなたのお望みになる事を私も望みあなたのお考えになることを私も考え、あなたのお好きなものを私も好み、あなたのお嫌いになる事を私も嫌い、あなたのなさる様に私にもさせて下さいませ。あなたをお手本として、私をお導き下さいませ。イエズス様、どうぞ私をだんだんあなたに似る様にし、いつまでも、いつまでもあなたの一番愛する子供にして下さい。又、此処にいないおともだち、おなくなりになった方々、卒業なさった方々をもお祝し下さいませ。 
此の幼稚園はいつもあなたのお喜びのお家であります様に、どうぞどうぞ、お守り下さいませ。天のお母様、マリア様、私達がイエズス様をもっともっとお愛し出来ます様にお祈り下さいませ。少しの汚れもない、真白でピカピカのマリア様のみ心、あなたのみ心は、イエズスさまに対する愛でいつも一杯でいらっしゃいます。私達もあなた様とイエズス様を愛する事ができます様にお手伝下さいませ。
 
イエズス・マリアに守られて、この藤枝聖母幼稚園が増々栄えるようになって心から感謝する事だけでした。 
尚、藤枝聖母幼稚園のおかげで、1957年(昭和32年)9月12日、姉妹園が岡部町に生れました。やはり、当時の教会委員信者・岡部町長さん達のご協力のおかげで土地を買ったり、また藤枝聖母幼稚園の先生方の助けによって、岡部・朝比奈の最初の子供を集めることができました。1965年(昭和40年)6月26日、岡部町に聖心に捧げられた巡回教会が誕生しました。1967年(昭和42年)6月1日、岡部聖母保育園が生まれ、1968年(昭和43年)4月1日、長井先生と宇佐美先生(元岡部聖母幼稚園の先生)と、かくれた大勢の信者、未信者の方々のおかげで、藤岡聖マリア保育園が生れました。1978年(昭和53年)11月26日、藤枝教会創立百年の記念として岡部の聖心教会が設立されました。以上の実績は藤枝聖母幼稚園があったからこそ生れたものでした。
 
15年間お世話になった訪問童貞会のシスター達は1971年(昭和46年)3月で、もっと貧しいところに奉仕する為に皆引き上げられました。とても残念でしたが、ベルナデッタ長井先生は同じ精神で励み、今日まで続けていらっしゃいます。
 
一時、300人を越えるほど園児が増加しました。しかし、園舎の方は、昔から使っていた古い瓦がもろくなって、しょっちゅう屋根に登って、トタンで雨もりを防いだりしなくてはならなくなりました。とうとう、50ヶ所以上も雨もりがするようになりましたので、古い20年前の建物を、今日見られるこの新しい建物に変えることにしたのです。地元の田中組の、池端光夫氏・高橋賢氏・久保田豊氏、これら三人の監督さんの骨折りで、高橋正恒氏の立派な設計をみごとに完成されました。ほんとうに、ご苦労さまでした。ここまで運ぶ為に天主様が、ご存じの隠れた無数の人々や子供達の祈りと犠牲、苦労が必要でした。ここで、思人として感謝すべきなのは尊い土地を譲ってくださった八木庄吉氏・八木公信氏・岡野谷栄一氏と故石川廣治氏の方々です。ここで公に御礼と感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。天主様御自身が恵みと祝福でお返し下さるようお願い致します。 又、大勢の方々の御支援、御協力、御寄付をいただいて、感謝しきれないほどです。又、市のあたたかい御理解と莫大な御援助に対して責任を感じ、こんなに助けてくださる市の皆さんに報いる為に、立派な愛の心の持主である子供に育て、社会に送り出さなくてはならないと、つくづく感じます。これからも、増々心の教育に徹して行きたいと思います。
 
新しい建物の写真と設計をごらん下さい。よい環境づくりによって、広い部屋、広い運動場、屋上など、広い心と大きい心をつくりたい気持を表わしています。又、一階と二階をつなぐ面白いスローブのおかげで、雨の日もマラソンができます。健全な心に健全な体を育てたいと考えたからです。しっかりした柱、庭に植えられた高いポプラの木など、たくましい強い真直ぐな心をつくりたい気持の表われで、何処でもガラス張りで見られるのは、表裏のない正直な心をつくりたいしるしです。
 
ここで、一般カトリック幼稚園の理解の為に、藤枝聖母幼稚園の教育方針を述べさせていただきます。これは、毎年、新入園児のご父兄にする話のまとめです。
 
昔から日本では「三つ子の魂、百まで。」フランスの国では、「ゆりかごを揺る手は、世界を揺る。」「ゆりかごを揺らす手は、世界を制す。」と、言われ、西洋から東洋までこの教育の重大性を述べています。今さら私が云々するまでもありません。これが現在では一般に認められ、至る処に、幼稚園や保育園が雨後のたけのこの如くふえているのも、これを実証しています。ご存じのように、幼児期は、心身共にまだ未発達で、草花にたとえると芽生えの時期です。この時代には、色々の本能が具体化され、いろいろの習慣が身につきます。即ち、将来の生活の基盤が出来るわけです。その幼児期の重大さを皆は認めていても、それを実践しなかったり、誤った教育を行なったりすることが問題なのです。
 
藤枝聖母幼稚園の教育方針は、カトリックの精神に基づき、保育方針に従って、幼児に適当な環境を与え、その心と体をすこやかに育成する事です。 
 
まず、カトリック精神とは、主イエズス・キリストを愛し、天主の存在を知り、祈り、善悪の基準、生命の尊重、助け合う心、感謝の心、愛の心などを育てることです。イエズス・キリストは人類の為に、愛を最大の掟としてお定めになりました。
「心を尽くし、霊魂を尽くし、力を尽くして、主なる天主を愛せよ。」 
「新しい掟をあなた方に与える。互に愛し合い、私があなた方を愛したように・・・。」
皆さん、愛はすべてで 、愛を発見した人々は新しくなります。まず、天主を愛する事から始まる愛なのです。愛は天主の本質です。
「天主は愛にてまします。」
そして隣人愛が天主への愛から生れて、それに支えられるのです。天主を愛するが故にこそ、自ら隣人にまで、拡張し浸透して行く愛なのです。この天主への愛の基盤がなければ、隣人愛は根のない枝のようにまもなく、枯れてしぼんでしまうでしょう。ですから、カトリックの教えが、愛の宗教であるという時、それは決して、すべての信者が、社会革命家で、慈善家にならなくてはならないという意味ではないのです。キリスト信者とは、限りない天主の愛に打たれた者として、天主を愛する人達なのです。勿論、キリスト信者は世界の現状を今のままでよいと言うのではありません。現代の世界は大手術が必要です。けれども、根本の誤りをとらえず に、表面だけの欠陥を改革しようとするのは無駄な事です。世界の改革に先だって、まず、実行の計画が必要です。人間性の再発見が必要です。そして、物質的な文化に対して、優先する道徳の確立が必要です。つまり、新しい世界の誕生に先だって私達各自の新しい誕生が必要なのです。藤枝聖母幼稚園の一人一人の皆さん、あなたの新しい誕生を、天主の愛の中に実現してみようではありませんか? 天主の愛があなたの魂の奥底に呼びかけるみ声に耳を傾けてごらんなさい。あなたが天主の愛を理解し、天主を愛する者となる時、あなた自身の改革ができ上るのです。又、現代の改革の新しい意義が理解され、その為の確実な方法が発見され、それに対する止むことのない熱意が湧き起って来るでしょう。あなたが、まず天主の愛に打ちのまされなくてはならないのです。愛の敗北者となられますよう祈ります。そうすればあなたも立派な愛の持主、あかし人となれます。人間を新しく世界を新しく、天と地を新しく作るのは愛のみです。教育方針の原則をそのままさし置いて、も少し具体的に説明いたしましょう。
 
近代的ヒューマニズム・同情・児童福祉などは、天主による愛と根本的に大いに相違があるのです。一つの実例を上げて説明します。
 
この藤枝カトリック教会の創立者であるテストヴィド神父様は、静岡県に沢山のライ病者が、自分の家で牢獄のように隔離生活を送っている悲惨な状態を見て、何とかしてあげなくてはならないと思い、神山(御殿場の近く)に復生病院を作られましたが、誰も世話をする人が居なかったのです。かえって嫌悪と恐れをもって避けるので、困ったあげくフランス系のシスター達を病院に迎えました。天主への愛に身を捧げたこのシスター達は、喜んで、その愛を患者にそそいで一生けんめいでした。次第に、この日本での、珍しいユニークな慈善事業が、政府のえらい人々の耳にまで入ったので、日本政府は、一人の訪問者を送りました。この訪問者は、心よく見舞って、一人一人に言葉をかけたり、励ましたりしました。しかし丁度、一人のシスターが患者の包帯をかえているところに出合いました。この外国人のシスターは親切に丁寧に愛と尊敬をこめて、もうじき腐って、体から脚がはなれそうになっているところの布を取りはずしました。その本体から取れそうになっているのを見たその偉い人は叫びました。「百万もらってもこんな仕事は私にはできない。」と、 それを聞いたシスターは、その立派な紳士の方に向って美しく微笑んで「私も百万もらってもできません。」とだけ答えました。
 
皆さん、どうですか、同情心にあふれた偉い紳士と、一生をかけて報いを望まないで、自発的愛の奉仕に尽くすこの外人のシスターを………。日本人同志で出来ない事を、キリストの愛に打たれて、キリストの愛に生きる神父様とシスターのこの二人のフランス人が、国を捨てて日本人の為に尽くしているのです。これはごく当然のことです。近代的ヒューマニズムと、キリストの愛の根本的な相異はここにあるのです。この天主の愛こそ小さな子供の心の中に育てなくてはならないのです。これこそ教育のはじまりです。人間となった天主の子、主イエズス・キリストに倣って、私達は皆、一人一人、天主の子らしく生きることです。そして、一番すぐれた人間と天主の子でいらっしゃるイエズス・キリストを生んで育てたのは、聖母マリア様ですから、この幼稚園に聖母の名前を与えました。その理由は、この幼稚園に通う子供達を守っていただく為と、先生達が優しいマリア様の心を抱いて子供を育てる為です。 
ご承知のように、親は皆、子供の幸福を願っています。その為にこそ、自分はいろいろと苦労しながら子供によい教育を受けさせるようにつとめています。然し、どうしたら幸福になれるでしょうか? 幸福は何処にあるのでしょうか? 大学者になったら、幸福になれるのでしょうか? 総理大臣になったら・・・・・・世界チャンピオンになったら・・・・・・ノーベル賞をもらったら・・・・・・いいえ、ノーベル賞の受賞者、有名な川端康成さんは、行きづまって自殺してしまったではありませんか・・・・・・世界一金持になったら、幸福になれるでしょうか? いいえ、巨万の財を持った金持の一人は、「私は本当に不幸だった。」と言いました。
 
英国のアンリー八世の王女、エリザベットは、父の王位を引き継いで女王の位につきました。その即位の時、「天主が私に四十年間在位をお許しになったら、私は天国の幸福はいらない」と申しました。実際四十六年間、国を治めましたが、いくら女王であっても死をのがれることはできません。彼女は病床で煩悶して「誰か私の命を十五分間、のばしてくれる者があったら、褒美として、その者に英国全部をあげる。」と言いながら、苦しい淋しい最後を遂げました。
 
皆さん、私達は皆尊い霊魂をもっています。天主様が直接お造りになった魂(心)なのです。この霊魂は永遠になくなりません、体は腐っても霊魂は永遠に存在します。この霊魂が天国に行けるよう務めることこそ、私達にとって一番大切なことです。この世にどんな金持ちであっても、名誉があっても、幸福であっても、死んだ後は地獄に落ちたら何になるでしょう。
「全世界をもうけでも魂を失えば何の役に立つだろう。」
と、イエズス様はおっしゃいました。正しい教育は天国の天主様に結びつける教育です。仮の命を通して本物の命、過ぎ去らない命、永遠の命につながる生き方を教える教育こそ、真の教育です。 
又、或お姫様が、何でも自分の思う存分望み通りになり、皆からうらやましがられる身分でありながら、いつも幸福になりたいと悲しげに繰り返えしていたそうです。 
 
ナポレオンは 攻めると勝ち、攻められても勝ち、連戦連勝、ヨーロッパの国々を征服し、幸福の絶頂だと思われた時、「私は小さい時、カトリックの教会で初聖体を受けた時が一番うれしかった。」と人に話しました。この世のどんな名誉を受けるよりも、きれいな純潔な心に、イエズス・キリストをお迎えした日をなつかしんだナポレオンは、私達にこの世でどんな名誉を受けても、どんなに金持ちになっても、決して幸福ではないことを教えています。この世的なことよりも、藤枝聖母幼稚園では天真爛漫な心、清浄潔白の心、清く美しい無我の心で天主に仕える事と、人類に仕える事こそ本当の幸福の秘訣だという事を教えています。ですから皆さん、子供を教育する時、私達はこの事を忘れないようにしましょう。くずれやすい過ぎ去って行く一時的なこの世の幸福にとらわれないで、高い次元の幸福を求めましょう。この藤枝聖母幼稚園で宗教教育をするのもその為で、子供達の本当の幸福を願っているからです。 
 
そのようなよい效果をあげる為に、どうしても家庭と幼稚園の協力一致が必要です。ここで二つの極端な例から、家庭と幼稚園との関係を考えてみたいと思います。 
一、「先生、うちでは決して叱らないで育ててまいりましたので、 幼稚園でもどうぞよろしく・・・。」といったぐあいに、両親が家庭でとって来た方針を、幼稚園にも押しつける方、 
二、「私のところでは、何もしつけてありませんので、幼稚園にすべておまかせしたいのです。」 
これは、勿論極端な方々です。子供の教育や躾を片寄った狭い家庭だけ、両親だけで方向づけてよいものでしょうか……。又、幼稚園に入れる前に、家庭でなされた躾をまったく過去のものとして忘れ、幼稚園に入れたのだから肩の荷が下りたとばかり、幼稚園にまかせっぱなしというのでは、やっぱり困ります。小さい時の教育は、この子の性格をつくると言われる程大切なものです。幼児時代の心をなおざりにしたり、又間違ったりした為に取り返しのつかない事になり、にがい涙をこぼしている親がどれ程あることでしょうか? 或一人の父親が幼稚園に来ておっしゃいました。「私は、子供を叱ってはいけないと教えられたので、どんな事をしても叱らないでいましたら、近頃手に負えない我儘になってしまいました。一体どうしたらよいでしょうか? どうぞよい方法を教えてください。」と無責任な父親。この子は親がいても親がなかったのと同じです。それ以上に、精神的な負債を持っているこの父親は、父親になる価値と資格がないのです。
 
又、一人の囚人が死刑の宣告を受け、死刑場へ行く途中、泣きながら子供を見送っている父親を指さして言いました。「皆さん、今日死刑にされるのは私ではなく、この者です。これがもっとよく教育をし、私に我儘をさせなかったなら、このような事にはならなかったでしょうから…。」何と、父親に対して子供のきびしい宣告……この反対に、聖人や偉人、英雄の背後には、この方々をよく教育なされた、隠れた立派な父親が控えておられます。皆さん、子供の教育に、くいを残さないように、その心を大切に育てましょう。これは、非常に大切な事ですから、天主さまの助けをいただきながら、共に励んでまいりましょう。 
 
基本的生活習慣や人格形成の土台は、幼稚園に入る前の乳児期に家庭の温床の中で培われるのです。家庭は最初の教室であり、親は、お父様とお母様の両方、子供の接する最初の教師です。勿論、唯一の教師ではありません。しかし、最初の教師であることは確かです。しかも家庭は子供にとって、いつでも憩いと教育の場であり、たとえ、幼稚園、小学校に子供が進んだとしても、両親は、我が子の教育の担い手、身近かな先生なのです。 
 
子供の養育と教育は、文部省から、或いは厚生省や政府から与えられたものではありません。両親に天主から直接に与えられた使命なのです。両親は天主の代理者です。これより尊い身分はないのです。それで、天主を認めない親や先生は決してよい教育者にはなれないわけです。とっても無理です。そういう理由で、天主を認めない先生は子供の教育にふさわしくないわけです。カトリック幼稚園の果たす役割は、この家庭教育、両親の使命を助け補う事にあると言えます。でも決して、親の代わりにはなれません。文部省政府の役割は、親の役割を保護し、助け守る事です。幼児の置かれている年令、経験など、発達段階から見ても家庭と幼稚園は強い結びつきがあります。切っても切れないものなのです。
 
家庭外の最初の教育の場としての幼稚園は、家庭と両親との結びつきなしには考えられません。教師と親の対話、お母様と先生が親密になり、信頼関係が必要なのです。キリスト教の幼稚園は、この教育の権利と義務が両親にある事を認め、天主の子、天主より授けられた宝を、両親から依託されて、守り育てる使命を自覚しております。両親を助け、家庭教育を補う事によって、よき社会人となる秘訣を培う事を目指しております。
 
勿論、限られた家庭としての社会、不完全な知識・教養が、両親を教育という偉大な使命の前におののかせる事もありましょう‥‥。そうであればこそ、家庭と幼稚園はかたく結び合い、協力一致して天主の加護を念じながら、子供の教育に当らなくてはならないのです。幼稚園にお子様を入園させたご両親は、自らも学び成長する必要があります。何故なら、ほとんど皆、親になる準備なしに親になってしまったのです。その為に、家庭学級も、皆様の為にこの園は設けております。ぜひ出来るだけ大勢いや、全員御出席なさるようお勧め致します。
 
キリスト教幼稚園の教育方針に賛同下さった皆様は、この藤枝聖母幼稚園が情操を高め、宗教心をお子様に培ってくれるだろうと期待しておられる事でしょう。しかし、若し御両親や御家庭の方々が全くご理解がないとしたら、道徳心も宗教心も豊かな情緒も開花したくても出来ないのです。家庭と幼稚園が協力一致して、お子様の成長をはかる為に、家庭や御父兄は、幼稚園の教育内容、考え方を理解していただきたいと思います。幼稚園と先生方は、各家庭の立場や事情をよく理解すべきです。この相互理解の為に家庭訪問や連絡帳や話し合いの機会をよく利用したいものです。尚、PTAの集り、講演保育参観などにはつとめて御出席くださるようお願い致します。お母様だけでなく、お父様も御出席下さるようお願い致します。又、皆様もご存じのように、藤枝聖母幼稚園では要綱で示されている、健康・社会・自然・言語・音楽リズム・絵画製作の他に、宗教教育をいたしております。キリスト教幼園の特色の一つに、祈り・神様のお話し・讃美歌などがあります。何故お祈りをさせ、讃美歌を歌わせ聖書のお話を聞かせたりするのかを、簡単に説明いたしましょう。「頭のよい子に育てましょう。」「元気な丈夫な子供に育てましょう。」と叫ばれている今の日本ですが、教育に何か欠けていると多くの人が感じている現状です。頭がいいから・・・体の格好がいいから、人間が良いとは決っていません。軽井沢の浅間山荘の事件、イスラエルのテルアビブの乱射事件、赤軍派のさまざまのテロ行為、川崎での金属バットで父親を殺した高校生など、それを証明しております。あの青年達は皆頭がよく、優秀な人ばかりでした。然し、心は腐敗していました。よい心を持たない人間は結局、人間と言えない人間、とても恐ろしい人間、出来そこなった人間なのです。動物より劣る者です。動物は、犯罪を犯さないし、堕胎などしません。又、セックスの奴隷になりません。欠けた教育により、又、間違った教育によって、人間は動物以下になるのです。 
 
現今、青少年の腐敗は教育にたずさわっている人達のなやみのもとになっております。その原因は、マスコミによって毒された社会にもあります。特に有害なテレビ・映画・猥褻な出版物が青少年の非行の起因となっております。しかし、それ以上に宗教の欠如はその原因となっていると思います。天主様の事を無視したり、祈る事や善悪の区別、生命の尊重、愛のある心などを育てなかったからこそそのような人間になったのだと思います。だからこそ、藤枝聖母幼稚園では、毎日の生活の中に宗教教育をほどこしております。これが人間にとって一番大切な事だと確信しているからです。又、これはお子様の一生涯に大きなよい影響を及ぼす事を確信しております。或卒業生は、幼稚園時代の事で一番よく記憶に残っているものは何だと聞かれた時、「天主様のお話です。これは忘れる事ができません。」と言いました。
 
知育、体育に熱心な親や先生も徳育になると、力を入れたいと考えてもとまどってしまうのが現実ではないのでしょうか? 角度を変えてこの事実を眺めてみますと、欠点だらけの人間が自らの力だけで他の人の教育をしようと、力みすぎた結果と言えないでしょうか。子供を教育するという事は、家を建て、物を作るように人間の工夫と努力だけでは成し得ないのです。すべての技術を越える難しい技術なのです。同時に、生命と心を宿している一個の人間を育て導くのは、あまりに、親も教師も無力なのです。とても勝れた人物でも困難なのです。
 
皆さん、本当の正しい教育は、神と人との共同事業である事を決して忘れてはなりません。これを自覚しなくては、よい親、よい教師にはなれないのです。教育はよき社会人としての教養と技術と人格を培い、健康で幸福な社会生活へと準備させ、導く事だと言えると思います。そこには、天主と多くの人々の交わりが不可決なものとなります。たとえ、人間同志の交わりの技術を身につけ、上手に人とつき合うことを頭で理解しても、天主との交わり(祈り)を通じて学び得た他人と接する心がなければ、円満な社会生活を営む事ができないでしょう。すべての事に先んじてどのような教科の土台にも、この天主との交わりの心があるべきだと私達は考えるのです。お祈りをし、讃美歌を歌い、天主の事について学ぶのは、天主と人間との根本的な関係をよく理解し、天主と交わる事によって、自らを高める為なのです。幼子が可愛い手を合わせお祈りをし、讃美歌を歌っている姿を眺めてごらんなさい。それは単なる感傷的な美しさではなく、素朴な美しさなのです。無力な人間が意地や強がりを捨てたもっとも人間らしい姿です。 
 
アウグスチノという聖者は、
「祈る事を知っている人間は、よく生きる事を知っている人だ。」 
と書き残しています。宗教的情操は、お子様の心を豊かにし、波風の多い人生の支えになることでしょう。皆さん、幼稚園に於ける祈り、讃美歌などの宗教的な事に深い御賛同をいただければ幸いです。藤枝聖母幼稚園では毎日天主様のお話を聞かせます。又、朝、お食事前後、お帰りの時、必ずお祈り致します。ご家庭でもこれを守らせていただきたいと思います。又、お父様もお母様も、お子様とご一緒にお祈り下さいましたら、ご家庭の上に、天の豊かなお恵みを招く事になると思います。
 
単に、世間体をつくろう為の教育、「皆から笑われるから止めなさい。」とか、見えや虚栄を養う教育、見せかけの教育など、絶対止めていただきたいのです。表裏のある二重の心をつくり上げるからです。これに対してキリスト教幼稚園の教育を支える躾として「誰も見ていなくても・・・」という原理を掲げる事ができます。子供のよい行ないを守りたいばかりに、見張ったり、おどしたり、叱ったり、圧力をかける事がよくあります。然し、皆さん、どれほどすぐれた教育者であっても、よい両親であっても子供のすべてを知り、絶えずそばに居るわけにはいきません。そして、先生や親の権威や説得力は絶対的なものではなく、子供の成長にともなって弱められて行くのが普通なのです。勿論、或場合には監督し、注意し罰を与える事も必要でしょうが、躾のよりどころを親や先生の権威だけで行なうのは不充分と言わなくてはなりません。子供自身の心にうったえる躾が大切なのです。たしかに、幼い子供に、胸に手を当てて考えなさいとか、良心による自己反省は無理かもしれません。然し、‟幼い子供の心にも育ちつつある良心″がある事を忘れてはいけません。その芽生えと成長は、‟誰も見てないけれど、天主様だけは見ておられる″という考えによって、世問をはばからず、表裏のない、かげりのない行ないに導く躾をしたいと、キリスト教幼稚園では考え、天主の御前に歩んでいるとの自覚を子供に持たせるよう努力しております。
 
私の小さい頃の思い出を話しますと、悪い事をした時、一人母の前に立たされ、「ヨゼフ、お母さんの前だったら、そんな悪い事をしましたか?」と、聞かれた時、私は、「お母さんの前だったら、やらなかったよ。」と答えました。その時の母の言葉は今でも決して忘れません。母の前で出来ない事を、どうしていつも見ていらっしゃる天主様の前で出来るのか? と言ったのです。それからは、決して悪い事は出来なくなりました。 
 
子供によい行ないをさせようと、誉めたり褒美でつるだけでは不充分です。或程度必要かもしれません。しかし、絶対不完全です。たとえ、皆から笑い者にされ、誰からも認められず、理解されなくとも、報いを受ける事がなかったとしても、心の中に喜びをもって積極的に善行に向わせる動機として、‟誰も居なくても天主様だけはご存じである”その心が必要だと思います。又、天主とまわりの人に、‟ありがとう” ‟ごめんなさい” を素直に言える心に育てたいと思っております。挨拶がよく出来る人は、沢山の友達をつくり、豊かな社会性を持つようになります。逆にぶすーっとしていて、挨拶をしない子は、一人ぼっちになってひねくれた性質を持つようになります。挨拶を、人生の大切な幼児期に体得したら、生涯その子供は、天主とまわりの人から祝福と敬愛を受けるにちがいありません。天主様にありがとう、人にもありがとう、天主様にごめんなさい、人にもごめんなさいと、素直に言える子になるように、キリスト教幼稚園は教育しております。皆さん、私達が住んでいる地球と自然界をごらんになって、不思議にお考えになった事はありませんか、世界に輝く太陽、夜空に輝く月、きらめく無数の星、木々も動物も人間もおいしい澄んだ空気も、野山を飾る草花、四季とりどりに実を結ぶ果物、空にさえずる鳥、なぎさに戯れる大波小波、何と美しく不思議なのでしょう。すばらしい天主様からのプレゼント、思わず、天主を讃美し、感謝せずにはいられません。そして、「天主様ありがとう。」と叫けばずにはいられないのです。
 
キリスト教幼稚園は、躾がきびしいと言われますが、実はきびしいのではなく、躾のよりどころを確信し、心の教育を徹底しているからです。‟誰も見て居なくても・・・” の教育を認めて、藤枝聖母幼稚園は、明るく、ほがらかな、しっかりした子供を育てて行きたいと思います。大学の学問より、子供の心を育てる幼稚園の方が大切だと思います。幼稚園で人の性格は決ってしまうのです。親切心やがまんの心がなければ、我儘、利己主義、人をこまらせる人間、ひいては、自分の欲望を満す為にあらゆる犯罪に導くことにもなるのです。自分の不幸だけでなく他人の不幸をもたらすことにもなるのです。 
幼稚園は学校の準備だと思うなら大きな間違いです。学校は知識・学問を受けるところです。幼稚園は人間の躾を受けるところで、良い心を育て成長させるところです。この基盤なしに本当の学問は育たないのです。良い心なしには、後に学ぶ知識・学間などは、かえって恐ろしい結果を生じるのです。 
人間の価値は、その人の心の価値にあるのです。
 
 
 
 
 
 
 
 

聖母が私たちの霊的母親であることの論理的な結果:全ての聖寵の仲介者

2024年09月26日 | お説教・霊的講話

2024年9月22日聖霊降臨後第十八主日のミサの説教 

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
先週は、マリアさまの七つの悲しみの祝日で、マリアさまがイエズス・キリストの伴侶――第二のエワ――として、主の御旨に従って、イエズス・キリストの功徳にまったく従属して、イエズス様において、イエズス様によって、イエズス様とともに、贖いの業を成し遂げられたということを黙想しました。

その結果として、マリアさまは御苦しみにおいてわたしたちを超自然の生命に生み出してくださった本当のお母様である、ということを黙想しました。実際に、典礼では、マリアさまがお母様であるということは、いろいろなところに出ています。聖母の連祷、サルベ・レジナ、アヴェ・マリス・ステラ、などなどに。

マリアさまは、イエズス様とともにイエズスと共同して私たちを贖った方――その結果私たちの霊的母・・・。では、このことからいったい何が、さらに導き出されるでしょうか? そのいろんなことが導き出されますが、そのうちの一つは、マリアさまが仲介者である――そういうことです。今日はそのことについて特に黙想したいと思っています。

【聖母が母であるということの結果】
マリアさまが霊的な母親である本当の母親であるということは、この世において天国への道を進んでいる私たちにとっては、マリアさまは私たちのために必要な聖寵を、お恵みを仲介して、取り次いでくださっている方ということです。もしも私たちが天国に到達したならば、マリアさまはその時、母であり、同時に聖人たちの元后・女王となられます。

聖ベルナルドは、聖母についてわたしたちは語り切れない(De Maria nunquam satis)と言いましたが、本当にその通りです。ですから今日は的を絞って、マリアさまが特に全ての聖寵の仲介者であるということをお話しします。

【全ての聖寵の仲介者】
「仲介者」というのは、いったいどういうことでしょうか。仲介者というのは、中にはいって両者の関係がうまくいくように手伝ったり取り次ぐ人のことです。

ところで、マリア様のことを聖福音に従って読んでみると、イエズス・キリストのこのご生涯のその最初から、霊的にそして物質的に取り次いで、イエズス様からお恵みを奇蹟を取り次いだ人です。

たとえば、マリアさまを通して、イエズス様は最初に洗者聖ヨハネを聖化しました。またマリアさまを通して、イエズス様は最初にカナで物質的な奇蹟を行いました。これはそののちまで世の終わりまで、イエズス様はマリアさまを通して奇蹟を行い続けますよという前兆でした。これが天主のみ旨ですよという、予告でした。

使徒行録によると、聖霊降臨のときにはマリアさまは使徒たちと一緒に祈っていました。そして聖母は、私たちの母として天に上げられた今、子供たちである私たちのために祈り続けています。絶えず祈り続けています。

では、マリアさまが「仲介者」であるということはどういうことか、そのことを深く見てみましょう。三つの点があります。

(1)【天主の御母となる恵み】
一つは、マリアさまがまず、天主の御母となるお恵みをいただいた、ということです。聖母は被造物でありながら、天主の御母となられました。これほど天主の本性とぴったりと親密な関係を持つ方は存在しえません。天主の御母――天主の母となるために、マリアさまは、満ち満ちと溢れる聖寵を受けて、そしてその溢れは私たちの上に溢れ出て、注がれるばかりでした。マリアさまが持っていたその天主の母のお恵み、これが大事です。

(2)【自由な承諾】
第二は、ただお恵みをいただいたというだけではありません。マリアさまはそれに自由に承諾しました。進んで協力したということです。救い主の母となるということは、いったいどれほどのことか、どれほどの苦しみを伴うことかということを、マリアさまは聖書を通してよくご存じでした。しかしそれに自由に承諾しました。「われ主のはしためなり。おおせのごとくわれになれかし。」そして救い主の犠牲とそのご生涯にできる限り密接に結びつこうとして、そして苦しみました。そしてそうすることによって、私たちの救いに協力しようと望みました。意志しました。ですから、マリアさまには、お恵みを受けただけでなく、自分の意志があったということがわかります。

(3)【協力の実現による功徳】
三番目は、そう望んだだけではありません。実際にそうした、それを果たした、という点です。協力を実現させた、功徳があるということです。ただそうなったらよいなあというだけではありませんでした。マリアさまは、私たちの罪の贖い・償いのために究極まで、十字架の下に佇んで、ご自分の苦しみをイエズス・キリストとともにお捧げになりました。そして、イエズス・キリストとともに溢れるばかりの功徳をお積みになりました。ですから、その功徳をもって、いま天国で、私たちの救いに役立つすべてのお恵み・聖寵を、私たちのために祈り取り次いでくださっているのです。

マリアさまが取り次ぐのは、イエズスさまとわたしたちの間です。ですから聖母は、贖い主・キリストとわたしたちの間の仲介者として、取り次いでくださっています。わたしたちのつたない祈りや犠牲を、マリアさまはイエズス様に取り次ぎ、そしてイエズス様から特別の祝福あるいは聖寵、わたしたちにとっての利益を得て、わたしたちにくださるようになさっています。こうすることによって、イエズス様に従属する・依存する普遍的な仲介者となられています。

【依存・従属する仲介とは?】
では、イエズス様に依存したり従属するというのはいったいどういうことなのでしょうか。このことを誤解のないようになさってください。贖い、つまり贖罪という大事業は、まず天主から――聖寵をわたしたちに創りわたしたちにくださる天主から、まったく由来しています。と同時に、完全な仲介者であるイエズス・キリストからも完全に由来します。さらに、従属的な仲介者であるマリアさまから、由来します。

天主、イエズス・キリスト、マリアさま、これはどういう関係になっているかというと、たとえばある荷物を3人の人が3人の紐で一緒に、「一・二・三」と引っ張ったという関係ではありません。そうではなくて、ちょうど林檎がどうやって実るかというようなのに似ています。まず、自然の創造主である天主によってあぁ林檎というものが創られたのですけれども、同時にその林檎の実がなるためには樹が生えていなければなりません・・・と同時に、その樹に枝がついていて、花が咲いて、実がならなければなりません。そのように、天主、イエズス・キリスト、マリアさまは、従属して、三つが協力されて、贖いの事業が成立しました。

つまり、すでにすばらしいやり方で無原罪の御宿りというやり方で、イエズス・キリストによって贖われて、原罪と自罪のすべてから守られたマリアさまが、わたしたちを、まず罪の赦しとそれを聖化しそして最後まで聖寵の状態に堅忍することができるように守ってくださる、そういうやり方で私たちの贖いに協力してくださっています。

これを別の言い方でいうと、マリアさまはイエズス様と一緒に二人で功徳を積んだ方です。

【聖母の功徳:全ての聖寵の仲介者】
(1)マリアさまだけが、救い主を私たちに与えました。(2)マリアさまだけが、十字架の犠牲に生贄に最も緊密に結ばれました。(3)そしてマリアさまだけが、全人類のためにすべての必要なお恵みを普遍的に仲介してくださっています。

(1)聖トマス・アクィナスは、このことをこう言っています。
「マリアさまが全く自由に聖寵の創り主である救い主の母となることに同意したので、マリアさまはあらゆる被造物の中で聖寵を創った主に最も密接に親しかった方であり、聖寵の充満を受けた。これによって聖母は聖寵に満ちた方をその胎内にお宿しになり、その方をお産みになることによって、ある意味ですべての人の聖寵の源となられた。」(III, Q. xxvii, art. 5)

(2)また、マリアさまだけが十字架と結ばれたということについては、確かにイエズス様は厳格な正義のもとに天主として功徳を積みましたが、マリアさまはいとも清い方でイエズス様を最高度に愛した方だったので、非常にふさわしいやり方で、わたしたちの罪の償いの功徳を積まれた方です。イエズス・キリストとともに積み、そして天主の正義を非常にふさわしいやり方で満足させた方です。

(3)そして、こうやってイエズス様と共に勝ち取ったこの贖いの実りを――これはイエズス様のものであると同時にマリアさまのものであるのですから――わたしたちのために自分のものとして、イエズス様と同時に共同のものとして、わたしたちのためにひとりひとりのために、特にマリアさまに助けを求める人々のために取り次ぐことができるのです。

こうやって、天主の御旨によって、あらゆる取次者の中で、マリアさまは完全な仲介者として定められました。

聖ベルナルドはこう言っています。
「私たちがマリアを通してすべての恵みを受けることは天主の御旨である」(「Serm. de aquaeductu,」 n. vii)。と。

何故なんでしょうか? それはわたしたちがあまりにも弱く、イエズス様まで到達する際にも仲介者が必要であるからです。またもう一つの理由は、マリアさまはあまりにも謙遜な方であったので、天主は聖母を高めようとお望みになられたからです。ですから、マリアさまに、救いとわたしたちの聖化のために重要な役割を果たすことができるように、それを望まれたからです。

このマリアさまの御取次の偉大さについては、聖霊の浄配という役割のためにものすごい力があったということは、さらにお話がありますが、これはまたのちの機会にしたいと思います。


【スタバト・マーテル】
最後に、この黙想を終わるについて、マリアさまが罪の贖いのために協力して、わたしたちにどれほどお恵みを勝ち取ってくださっているかということは、スタバト・マーテル(Stabat Mater)という続誦に非常に美しく表れています。その数節を引用して、この黙想を終わりたいと思います。

Eia, Mater, fons amoris me sentire vim doloris fac, ut tecum lugeam.
慈しみの泉なる聖母よ、われをして御悲しみのほどを感ぜしめ、共に涙を流さしめ給え。

Fac, ut ardeat cor meum in amando Christum Deum ut sibi complaceam.
わが心をして、天主たるキリストを愛する火に燃えしめ、一(いつ)にそのみ心に適わしめ給え。

Fac, ut portem Christi mortem, passionis fac consortem, et plagas recolere.
われにキリストの死を負わしめ、そのご苦難を共にせしめ、その御傷を深くしのばしめ給え。

Fac me tecum pie flere, crucifixo condolere, donec ego vixero.
命のあらん限り、御身(おんみ)と共に熱き涙を流し、はりつけにされ給いしイエズスと苦しみを共にするを得しめ給え。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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