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私たちは、この前「カトリック新聞」の記事をびっくりながら読んだ。
体を食べ、血を飲む
中世以来、カトリックでは「実体変化」と呼ばれる理論が支持されてきた。しかしこの説明も、古代ギリシャの物理学に基づいた理論に頼っていたところがあったため、説得力を失った。
究極的には、重要なのは聖体がどうであるかではなく、主の弟子である私たちが聖体を分かち合うことで主を記念しているという事実。
聖書では、何かを「思い起こすということ」はそのことを「再現すること」、「現存させること」。「救いの歴史のある出来事を思い起こそうとする」なら、それで「実際に現在のことになる」。
私たちは、聖体祭儀のうちにキリストが私たちと共にいることを信じている。私たちは、キリストご自身が私たちのうちにおられ、それは私たちがキリストのように生き、世界のための神の愛を告げ知らせ、体現していくためであることを信じている。
全文を読みたい方は次をご覧下さい。
http://www.cwjpn.com/kiji/hikari/hikariold/hikari3871b.htm
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何故、カトリック新聞編集長ともあろう方が、公教要理とは離れた説明を書いたんだろうか?
私たちは、この説明を読んで新しいミサの総則を思い出した。1969年の現れたこの新しいミサはその341条の総則の中で、一度も「全実体変化 transsubstantiatio」という単語が使われなかった。
多くの批判を受けて、1970年にこの語は一度だけ総則に付け加えられた。
2000年に出された新総則にでも、次のように、一度だけ言及されたにすぎないことはそのままだ。次のように加えられただけだ。
3 両形態の聖体に主が現存されるという素晴らしい神秘は、トリエント公会議が信じるべきこととして提起したものと同じ意味と同じ文で、第二バチカン公会議および教会の教導権のその他の公文書によって確認されたが、そのことは、ミサの祭儀においては、キリストが実体変化を通して現存することを表す聖別のことば自体によるばかりでなく、感謝の典礼の中で行われる最高の尊敬と礼拝の内容と表現によっても宣言される。
ここで注意したいのは、御聖体のうちに主が現存することは、本当にそうあるかどうかということよりも、「聖別の言葉によって表され(表現され)」、「感謝の典礼の内容と表現によっても宣言される」という「表現」のレベルに限られていることだ。しかも、御聖体のうちの現存と、ミサ(聖体祭儀)における主の現存とが同レベルに置かれている。もう一度良く読んで、ほしい。
「ミサの祭儀においては、キリストが「全実体変化」を通して現存することを表す聖別のことば自体によるばかりでなく(!!)、感謝の典礼の中で行われる最高の尊敬と礼拝の内容と表現によっても宣言される。」
ではいったい何故、御聖体のうちに主が「現存」することは、ミサ(聖体祭儀)における主の霊的現存とが同レベルに置かれているのだろうか?
1969年の現れたこの新しいミサの総則の第7条は、次のようにミサを定義した。
「主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。」
(この新しいミサの定義は第二バチカン公会議の与えたミサの定義と抜本的に変わっていることを指摘しよう。なぜなら、第二バチカン公会議の「司祭の役務と生活に関する教令Presbyterorum Ordinis」(5番)には、「聖体祭儀の集会は信者の集いの中心である」"Est ergo Eucharistuica Synaxis centrum congregationis fidelium"とあるのにもかかわらず、新しいミサの式次第では「中心」という言葉が取り除かれ、「聖体祭儀の集会は、信者の集いである」となっている。)
多くの批判を受けて、1970年に訂正され、2000年に出された新総則にでも、次のようそのまま引き継がれている。
第2章 ミサの構造、要素、各部 ミサの一般的構造
27 主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。十字架の生贄が続けられるミサの祭儀において、キリストは、その名のもとに集まっている集会の中に、奉仕者の中に、そのことばの中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される。
ローマ・ミサ典礼書の新総則 ―― 2000年7月発行。英文からの翻訳。 ――
http://www.bishop-jp.com/sankou/roma/r-05.html
或いは、
http://goseitai-to-seibo-no-sito.web.infoseek.co.jp/institutio%20generalis%20missalis%20romani.html
つまり、新しいミサにおいては、
● ミサはまず「集会」。(十字架の犠牲ということは重要な要素ではない。)
★ 「主の晩餐」であり「主の記念を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会」である。
● キリストの現存とは、集会における霊的現存である。(御聖体における現存ということは重要ではない。)
★ 「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)。
● 新しいミサの定義において、キリストの現存は、キリストの霊的現存と混同されている。(御聖体における現存ということは最後に触れられているだけ。)
★ ミサの祭儀において、キリストは、その名のもとに集まっている集会の中に、奉仕者の中に、そのことばの中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される。
だから、私たちはカトリック新聞編集長ともあろう方が、公教要理とは離れた説明を書いたとしても、驚くべきではなかったのだ。
何故なら、
新しいミサによれば「全実体変化」ということは重要ではないからだ。
新しいミサによれば、重要なのは聖体がどうであるかではなく、主の弟子である私たちが聖体を分かち合うことで主を記念しているという事実なのだから。
新しいミサによれば、聖体祭儀のうちにキリストが私たちと共にいることなのだから。
だから、トリエント公会議の教えや公教要理の教えはもう古い「理論」として信じない司教様、司祭、カトリック信徒がますます増えても私たちは驚くべきではない。なぜなら、ラテン語であれ日本語であれ何語でなされるものであれ、それが新しいミサが私たちに教えていることなのだから。
だから、検邪聖省の元長官であったオッタヴィアーニ枢機卿はバッチ枢機卿とともにパウロ六世に「新しい司式(=新しいミサ)はその全体といいまたその詳細といい、トリエント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。・・・聖伝からのこのように重大な逸脱を支持するような司牧上の理由は、たとえそれらの理由が仮に教義上考察した上でも正しいものだと考えられたとしても、私たちには十分だとは思われません。」
また、
「聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式 (modus significandi) が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っている。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。」
と書いたのだった。
だから、私たちはカトリックとしてベネディクト十六世教皇様のために霊的花束を捧げ、一刻も早く、聖伝のミサの公式の復活させる勇気を持たれるように祈っている。
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