Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【祝】ルフェーブル大司教様の公開書簡の日本語訳が完成【祝】

2006年09月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

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アヴェ・マリア!


【祝!】     【祝!】    【祝!】    【祝!】


兄弟姉妹の皆様、

ルフェーブル大司教様の公開書簡の日本語訳が完成しました!

天主に感謝!
そして、これができるために翻訳を協力して下さった兄弟姉妹の方々、そしてこれを早く翻訳することを応援し、励まし、激励して下さった多くの兄弟姉妹の皆様に心から御礼を申し上げます!



【祝】【祝】【祝】【祝】【祝】【祝】【祝】【祝】【祝】【祝】【祝】


1.
何故今カトリック者たちは困惑しているのか
2.私たちの宗教は変えられようとしている
3.典礼改革
4.永遠のミサと現代のミサ
5.それは昔の話
6.新しい洗礼と婚姻、悔悛と終油の秘蹟
7.新しい司祭
8.新しい公教要理
9.新しい神学
10.エキュメニズム(宗教統一運動)
11.信教の自由
12.友だちと旅の道連れ
13.信教の自由、団体主義の平等、宗教統一の博愛
14.「第2バチカン公会議は教会内部のフランス革命だ」
15.教会と革命との結合
16.新近代主義 信仰の基礎を危うくするもの
17.聖伝とは?
18.本当の従順と偽物の従順
19.エコンの神学校とローマ
20.永遠のミサ
21.異端でもなく、離教でもなく
22.家族で出来ること
23.「作り上げること」と「壊し尽くすこと」との闘い


 


詳しくは

ルフェーブル大司教の公開書簡


http://fsspxjapan.fc2web.com/op/op00.html
をご覧下さい。

 

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【祝!】【祝!】【祝!】【祝!】

    

     


4. 3. 使徒職的な訪問活動と回心 (ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2006年09月02日 | ルフェーブル大司教の伝記

第4章 郊外の教会の助任司祭(1930年-1931年)



使徒職的な訪問活動と回心


 熱心に信仰生活をする中核の二千名の小教区の教会信者の外に、「見失われた羊の群れ」が五千名いた。マルセルは彼らと知り合いになり、訪問する過程を通じて現況を把握しなければならなかった。熱心で実際的な主任司祭は自分と助任神父たちとで小教区の仕事を地区で分担した。それでルフェーブル神父は人々が職場から帰宅している時間に信者たちの家を訪問して門をたたいた。一般に、彼はよく迎え入れられた。しかし時には面前で門を閉められた。そんな時は隣の家に行った。


「あなたの隣りの人は何をしているのですか? 彼は何故あんな態度を取るのですか?」

「あのですね、彼は共産主義者なんです。だから神父様を家に迎えたくなかったんです。それでも悪い人ではないよ。私が彼に話してみます。最後には神父様に門を開くと思います。 」


 そして本当に、次に来た時は、とうとう敷居をまたいだ。これについてドラエ神父はある日ルネ・ルフェーブル氏に次のように報告している。「ある病人が家族に頼んで司祭をつれてきてほしいと頼んで試みてから、 " 新しい助任神父 " を求めてきました。ルフェーブル助任神父が彼を訪問し、告解を聞いて他の秘跡を施したんです。その翌日病者は極めて平和な死を迎えました。 」


 これらの訪問は非常に有益だった。教会でなされていない状況にあった結婚を正常化することができたし、子供達は喜んで公教要理教室へ行くようになった。これは、本来は悪信者というわけではない人々に、小教区教会及び司祭たちを知らしめ、その後彼らを宗教生活で立ち戻らせる機会になった。


 マルセル・ルフェーブルは洗礼台帳が見せてくれるように、幾多の子供たちに洗礼を与える喜びを味わった。彼はいつも新しく生まれた子供達ができるだけ早く洗礼を受けるように親を激励しながら、天主の生命に霊魂が生まれるという聖寵の奇蹟を説明しようと努力した。

「母親に子供に母乳を奪う権利がないと同じく、私たちには子供から超自然的生命を奪う権利がありません!」


 後に彼は、子供達が大きくなって「自分で決める」ことができるまで洗礼を待たせようという司祭たちに向かってこうも言うだろう。

「自分で決める」とはつまり「霊的な生命かそれとも霊的な死かのどちらを願うかかを自分で決めるということ(ほど愚かな質問)なのです! 」


 若いルフェーブル助任神父は、霊魂が罪によって霊的生命を失って死んでいるのなら天主の祈りを再び与えるために、また彼らの傷を縫合するために、決まった時間に告解所に座っていた。そこで彼は熱心である霊魂たちを見分け、彼らを指導することを学んでいた。彼は後にこう説明するだろう。


「小教区教会には、より大いなる霊的生活をするために創造された霊魂たちがいます。たいてい黙想会や告解の折りにそんな霊魂たちを見つけるのです。そうしたら、彼らを小教区教会のエリートとしてまとめることができます。またここで召命を見つけるようになるのです。 」


 彼はこうも言っている。

「霊魂の霊的指導の任務は、司祭が自分を聖化するための最上の手段の一つでもあります。... 彼は自分より極めて先に霊的に進歩している霊魂たちがあるというのをふと悟流こともあります。特別な勉強をしたこともない大変単純な霊魂たちが、疑う余地もなく聖徳と謙遜と単純さの極地にまで至ることのできることを見て、驚くのです。 」



(つづく)


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私たちはカトリック新聞編集長が、公教要理とは離れた説明をしても、驚くべきではなかった

2006年09月02日 | ミサ聖祭


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 私たちは、この前「カトリック新聞」の記事をびっくりながら読んだ。



体を食べ、血を飲む


 中世以来、カトリックでは「実体変化」と呼ばれる理論が支持されてきた。しかしこの説明も、古代ギリシャの物理学に基づいた理論に頼っていたところがあったため、説得力を失った。


 究極的には、重要なのは聖体がどうであるかではなく、主の弟子である私たちが聖体を分かち合うことで主を記念しているという事実


 聖書では、何かを「思い起こすということ」はそのことを「再現すること」、「現存させること」。「救いの歴史のある出来事を思い起こそうとする」なら、それで「実際に現在のことになる」。


 私たちは、聖体祭儀のうちにキリストが私たちと共にいることを信じている。私たちは、キリストご自身が私たちのうちにおられ、それは私たちがキリストのように生き、世界のための神の愛を告げ知らせ、体現していくためであることを信じている。


全文を読みたい方は次をご覧下さい。
http://www.cwjpn.com/kiji/hikari/hikariold/hikari3871b.htm



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 何故、カトリック新聞編集長ともあろう方が、公教要理とは離れた説明を書いたんだろうか?



 私たちは、この説明を読んで新しいミサの総則を思い出した。1969年の現れたこの新しいミサはその341条の総則の中で、一度も「全実体変化 transsubstantiatio」という単語が使われなかった。


 多くの批判を受けて、1970年にこの語は一度だけ総則に付け加えられた


 2000年に出された新総則にでも、次のように、一度だけ言及されたにすぎないことはそのままだ。次のように加えられただけだ。


3 両形態の聖体に主が現存されるという素晴らしい神秘は、トリエント公会議が信じるべきこととして提起したものと同じ意味と同じ文で、第二バチカン公会議および教会の教導権のその他の公文書によって確認されたが、そのことは、ミサの祭儀においては、キリストが実体変化を通して現存することを表す聖別のことば自体によるばかりでなく、感謝の典礼の中で行われる最高の尊敬と礼拝の内容と表現によっても宣言される。



 ここで注意したいのは、御聖体のうちに主が現存することは、本当にそうあるかどうかということよりも、「聖別の言葉によって表され(表現され)」、「感謝の典礼の内容と表現によっても宣言される」という「表現」のレベルに限られていることだ。しかも、御聖体のうちの現存と、ミサ(聖体祭儀)における主の現存とが同レベルに置かれている。もう一度良く読んで、ほしい。


「ミサの祭儀においては、キリストが「全実体変化」を通して現存することを表す聖別のことば自体によるばかりでなく(!!)、感謝の典礼の中で行われる最高の尊敬と礼拝の内容と表現によっても宣言される。



 ではいったい何故、御聖体のうちに主が「現存」することは、ミサ(聖体祭儀)における主の霊的現存とが同レベルに置かれているのだろうか?


 1969年の現れたこの新しいミサの総則の第7条は、次のようにミサを定義した。


「主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。」



(この新しいミサの定義は第二バチカン公会議の与えたミサの定義と抜本的に変わっていることを指摘しよう。なぜなら、第二バチカン公会議の「司祭の役務と生活に関する教令Presbyterorum Ordinis」(5番)には、「聖体祭儀の集会は信者の集いの中心である」"Est ergo Eucharistuica Synaxis centrum congregationis fidelium"とあるのにもかかわらず、新しいミサの式次第では「中心」という言葉が取り除かれ、「聖体祭儀の集会は、信者の集いである」となっている。)

 


 多くの批判を受けて、1970年に訂正され、2000年に出された新総則にでも、次のようそのまま引き継がれている。



第2章 ミサの構造、要素、各部 ミサの一般的構造


27 主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。十字架の生贄が続けられるミサの祭儀において、キリストは、その名のもとに集まっている集会の中に、奉仕者の中に、そのことばの中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される。



ローマ・ミサ典礼書の新総則 ―― 2000年7月発行。英文からの翻訳。 ――
http://www.bishop-jp.com/sankou/roma/r-05.html

或いは、
http://goseitai-to-seibo-no-sito.web.infoseek.co.jp/institutio%20generalis%20missalis%20romani.html

 



つまり、新しいミサにおいては、


 ミサはまず「集会」。(十字架の犠牲ということは重要な要素ではない。)
 「主の晩餐」であり「主の記念を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会」である。


 キリストの現存とは、集会における霊的現存である。(御聖体における現存ということは重要ではない。)
 「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)。


 新しいミサの定義において、キリストの現存は、キリストの霊的現存と混同されている。(御聖体における現存ということは最後に触れられているだけ。)
 ミサの祭儀において、キリストは、その名のもとに集まっている集会の中に、奉仕者の中に、そのことばの中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される。

 


 だから、私たちはカトリック新聞編集長ともあろう方が、公教要理とは離れた説明を書いたとしても、驚くべきではなかったのだ。

 何故なら、
新しいミサによれば「全実体変化」ということは重要ではないからだ。
新しいミサによれば、重要なのは聖体がどうであるかではなく、主の弟子である私たちが聖体を分かち合うことで主を記念しているという事実なのだから。
新しいミサによれば、聖体祭儀のうちにキリストが私たちと共にいることなのだから。


 だから、トリエント公会議の教えや公教要理の教えはもう古い「理論」として信じない司教様、司祭、カトリック信徒がますます増えても私たちは驚くべきではない。なぜなら、ラテン語であれ日本語であれ何語でなされるものであれ、それが新しいミサが私たちに教えていることなのだから。


 だから、検邪聖省の元長官であったオッタヴィアーニ枢機卿はバッチ枢機卿とともにパウロ六世に「新しい司式(=新しいミサ)はその全体といいまたその詳細といい、トリエント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。・・・聖伝からのこのように重大な逸脱を支持するような司牧上の理由は、たとえそれらの理由が仮に教義上考察した上でも正しいものだと考えられたとしても、私たちには十分だとは思われません。

 また、
「聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式 (modus significandi) が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っている。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。」
と書いたのだった。




 だから、私たちはカトリックとしてベネディクト十六世教皇様のために霊的花束を捧げ、一刻も早く、聖伝のミサの公式の復活させる勇気を持たれるように祈っている。



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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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