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教皇のイスラム聖戦批判発言? アシジとレーゲンスブルク、夢と現実

2006年10月05日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


アシジとレーゲンスブルク、夢と現実


 9月4日アシジでは、ヨハネ・パウロ二世が望んだ諸宗教の集いの20周年を祝っていた。

 9月12日レーゲンスブルク大学では、信仰と理性との関係の講話において、ベネディクト十六世はイスラムに関する引用をした。教皇はこれについて何ら自分の立場を表明しなかった。イスラム世界の抗議が過熱した。


 アシジでは、宗教統合の危険はないと声高らかに主張しながら平和のために祈っていた。アシジでは一緒に祈っていたのではなく、祈るために一緒にいた、という主張だ。それは丁度、同棲する若いカップルが反対をうけて自分たちは一緒に生活しているのではなく、生活するために一緒にいるのだ、と言っているかのようである。


 レーゲンスブルクでの講義の後に、ローマ当局は事態の沈静化に努力し、教会と非キリスト教との関係に関する第二バチカン公会議の宣言『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』の方針においてアシジの意向を新たにした。これは夢によって現実の火事を消そうとするようなものだ。


 しかしながら、教皇様のドイツでの講話において、カントの不可知論を告発、またハルナックの合理主義(理性主義)の批判、現代の宗教的主観主義の批判があった。ベネディクト十六世は、近代理性の批判が「啓蒙の時代の前へと近代の確信を捨て去って」後戻りすることではないかと思われることをおそれている。しかしフランス人哲学者マルセル・デ・コルト(Marcel De Corte)が正しく指摘したように「死の危険がある知性」への薬は、後戻りというよりも現実に立ち返ることである。



ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での発言内容


  2006年9月12日レーゲンスブルク大学での神学講義で、ベネディクト十六世教皇のイスラムについての発言は、イスラム教徒の間で問題となった。教皇様の講義は信仰と理性との関係についてであった。問題となった部分は以下の通り。


「私は最近、ビザンチン帝国の学識高いマヌエル二世パレオロゴス皇帝(Manuel II Paleologos)がおそらく1391年の冬の間にアンカラで或るペルシアの高名な学者とキリスト教とイスラム教について、またそれらそれぞれの真理について対話をしたが、その内容をミュンスターのテオドール・コウリー(Theodore Khoury)教授が出版した書籍で読んだことがある。それらが私の記憶に蘇ってきた。これは1394年と1402年の間のコンスタンチノポールが包囲をうけている間に多分にビザンチン皇帝自身がこの対話を記録したのだった。そう考えると、皇帝の考えの方が、対話の相手であるペルシア人の答えよりももっと詳しく書かれていることの説明がつく。

 対話は、聖書とコーランとに含まれている信仰の構造の次元全てにつて及んでいる。そして特に天主の似姿と人間とについて立ち止まっている。そして3つの「法」つまり旧約聖書と新約聖書とコーランとの関係についても新たに考察してもいる。


 私はこの講義では、この対話全体の構造においてはむしろ脇に置かれている議論にのみ話を限りたい。この議論は『信仰と理性』というテーマの文脈において私を魅惑したし、このテーマについて私の考察の出発点として役に立つだろう。


 コウリー教授によって出版された第七の対話(ディアレクシス-論争)において、ビザンチン皇帝はジハード(聖戦)のテーマについて言及すした。確かに皇帝はコーランのスラート2章256節においてこう書かれていることを知っていた。「信仰に関することにおいていかなる強制もない」と。


 これはコーラン成立初期のスラートの一つである。ムハンマド自身が権力も脅威も持っていなかった頃のものである。しかし当然ながら、皇帝は、コーランにおいて聖戦についてその次に発展し定められた内容のことも知っていた。「書」を持っている人々と「不信仰者」とをどのように区別して取り扱うかなどという詳しいことには立ち入らないで、皇帝は驚くべき乱暴さで、対話の相手に対して、一般に宗教と暴力との関係についての中心的な質問を次のように単にしただけだった。
『ムハンマドが新しくもたらしたものを私に見せてみよ。そこにおまえは単に、彼が教えていた信仰を剣という手段で広めよという命令のように、悪しき非人間的なことだけしか見いださないだろう。』


 皇帝は暴力による信仰を広めることが非理性的なことであるというその理由を詳しく説明する。暴力は、天主の本性と霊魂の本性とに対立する。『天主は血を喜ばない。理に従って(シュン・ロゴー)行動しないことは天主の本性に反する。信仰は霊魂の実りであり、肉体の実りではない。従って、誰かを信仰へと導こうとする者はよく説明し正しく理を説くことができる者でなければならない。それは暴力や脅迫に依るのではない。理性的な霊魂を説得するためには、腕力もうち叩く道具も誰かに死の威嚇を与えるようなその他いかなる道具も使う必要がない。』


 暴力を使った回心に反対するこの議論の決定的な断言はこれである。つまり、理に従って行動しないことは天主の本性に反する、ということ。この書籍の編集者であるテオドール・コウリーはこうコメントを寄せている。ギリシア哲学において成長したビザンチン人である皇帝にとって、この皇帝は明らかである。イスラムの教義にとって、その反対に、天主は絶対的に超越している。天主の意志は、たとえそれが「理に適う」というものであったとしても、私たちのいかなるカテゴリーにも束縛されていない。この文脈において、コウリーはR.アルナンデス(R. Arnaldez)という有名なフランス人イスラム学者の著作から引用している。イブン・ハズナ(Ibn Hazn)はアラーが自分自身の言った言葉にもさえ束縛されていないこと、またアラーをして私たちに真理を啓示しなければならないとするものは何も存在しないことを宣言することさえしているとアルナンデスは説明している。アラーの意志であれば人間は偶像崇拝さえも実践しなければならない、と彼は言う。


 ここで、天主を把握することにおいて、つまり宗教の具体的な実現において、今日私たちに直接に挑戦しているジレンマが生じている。理に反して行為することは天主の本性と矛盾するという確信は、単にギリシア的な思索方法にすぎないのであろうか? それともこの確信は、常にそれ自体で通用することなのか? 私はここで、言葉の最上の意味におけるギリシア的であることと聖書の基礎にある天主に対する信仰とは何かということの深い調和が現れてくると思う。創世記の最初の節を少し変えて、ヨハネはその福音の序を次の言葉で始めた。『始めに御言葉(ロゴス)があった。』これこそがビザンチン皇帝が『天主は理(ロゴス)に従って行為する』といった言葉の正確な意味である。


 理(ロゴス)とは、理と言葉を会わせた意味を持つ。理とは創造するものであり、正に理として自分を伝えることのできるものである。ヨハネはかくして私たちに、天主の聖書的概念に関する言葉の賜物を与えた。聖書的な信仰のしばしば難しいそして曲がりくねっている全ての道が、そこに繋がりその統合を見いだす言葉である。『始めに御言葉(ロゴス)があった。そして御言葉(ロゴス)は天主である』と福音師家ヨハネは私たちに言う・・・。」

 




「どのような小さなものであれ風刺画も侮辱も全くなかった」


 9月16日付のイタリアの日刊紙イル・ジョルナーレ Il Giornale で、イエズス会司祭サミール・カリル・サミール(Samir Khalil Samir)神父(ベイルート聖ヨゼフ大学文献調査センター CEDRAC 創立者及び所長)は、教皇発言について謝罪を要求する大衆について残念に思うと述べた。


「恥ずかしいのは、たとえ全てではないとしても、ほとんど大部分のデモンストレーションがこの大学講話を読んでもいないことである。もしこれを読んでいたとしても、この発言がどこまで及んでいたかを知るのは困難だったろう。私たちはそこまで水準が下がってしまっている。今年の1月と2月にイスラム預言者の風刺画が出回った時のシナリオが繰り返されているように思える。ただし違いは、ここではどのような小さなものであれ風刺画も侮辱も全くなかったことだ。その反対に、考察は全ての思索家に信仰と理性との関係を反省させるものであり、私たちアラブのキリスト者とイスラム教徒らが極めて必要としている反省である。」


 このイエズス会のサミール・カリル・サミール神父は、この事件では西側の報道機関の責任が極めて重いと評価する。

「西洋のマスメディアはこの文書をイスラム世界を挑発するために利用することを望んだ。メディアはこの学問的文書を西洋対イスラム世界という対立の文脈に位置づけた。あたかも教皇様がサムエル・ハンチントンの言い出した『文明の衝突』理論を承認してそれに依っていたかのように! しかし現実は、この大学講義での対象は、諸文化と諸宗教との対話にあった。」


 イスラムについて取り扱った段落は極めて少なく、全体の一割ほどである、とエジプト出身のサミール・カリル・サミール神父は言う。そこで教皇様はコーランの一節を引用し「宗教に関して強制はない」(2,256)と言う。おそらくこれは西洋でいちばん良く引用されるコーランの一節である。これはコーランは良心の自由を説くと強調するために引用される。もし教皇様がイスラムをこの点について攻撃しようと望んだなら、その他の多くの節を引用する方が容易だった。同じスラートの190-193節からこう始まっている。「アラーの小道においておまえたちと闘う者たちと闘い、法を犯すな。アラーは法を犯すものを愛さない。おまえたちが彼らと出会うところで彼らを殺せ。或いは、彼らがおまえたちを追放したところから彼らを追放せよ。反乱 (fitna) は殺人よりも罪が重い。反乱 (fitna) が無くなるまで彼らと闘え。宗教が全くアラーのみのものとなるまで闘え。もし彼らが止むなら、敵対は無くなるだろう。ただし不正義に反対する場合を除いて。」


 サミール・カリル・サミール神父は、対話とは真理を隠してなされるものではなく、真理を述べることによってなされると指摘する。

「コーランにおいて寛容に対して開かれている部分があるが、暴力を先導しているところもあると認めなければならない。テロは社会政治学的動機によってなされるのみならず、コーランの文章の暴力的な部分の解釈からもなされている、ということを認めなければならない。」と神父は強調した。結論として「解決は、教皇様によって提案されていることだ。つまり理性を使うことだ。」



【参考資料】
http://www.dici.org/actualite_read.php?id=1319
http://www.zenit.org/english/visualizza.phtml?sid=94748
神学講義要旨は、9月17日づけ産経新聞朝刊にも掲載されていました。

 



【コメント】


 何故、西側のマスメディアは教皇のこの講義を文脈を超えて引用したのか? カトリック教会の攻撃と迫害の準備のために世論を作っているように思えてならない。何故、そのようなことが起こりつつあるのか? 聖母マリア様の警告を私たちは思い出す。天主がこの世をその罪のために戦争と飢饉、教会と教皇に対する迫害を使って罰を下そうとされている。人類の罪のを償うために、戦争と教会に対する迫害とが準備されつつあるのではないか。そして全人類にたいして、ノアの大洪水よりも重い、いままでにない罰が準備されているのだろう。人類のほとんどの人々が死んでしまうような、そして、よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死んでしまうような、生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。
 今回の教皇様の発言に対するマスメディアの態度は、それらの苦難の序曲にすぎないのだろう。

 



1973年7月6日 守護の天使が秋田の聖体奉仕会のシスター笹川に
「あなたの罪のみでなく、すべての人の償いのために祈ってください。今の世は、忘恩と侮辱で、主の聖心を傷つけております。」



秋田の聖母の第1のメッセージ(1973年7月6日)より

「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。」




秋田の聖母の第2のメッセージ(1973年8月3日)

「世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。おん父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、おん父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。おん子とともに、何度もそのお怒りをやわらげるよう努めました。おん子の十字架の苦しみ、おん血を示して、おん父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげて、お引きとめしてきました。」



秋田の聖母の第3のメッセージ(1973年10月13日)

「もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。」



ファチマの聖母の第3のメッセージ(1917年7月13日)より

「もし天主を侮辱することを止めないなら、ピオ11世の統治下で別の更にひどい戦争が起こるでしょう。あなたたちが未知の光を見るとき、天主がこの世をその罪のために戦争と飢饉、教会と教皇に対する迫害を使って罰を下そうという大いなる印を天主様があなたたちに下さっているのだと言うことを知りなさい。これを避けるために私はロシアを私の汚れ無き御心に奉献することと、月の初土曜日に償いの聖体拝領をすることとを求めに来るでしょう。もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。」




「いとも聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝し奉る。私は御身に、全世界のすべての聖櫃にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、天主性を御身に捧げ奉る。そは、侮辱、冒涜、無関心によって三位一体が傷つき給う罪を償うためなり。主の至聖なる聖心と聖母の汚れ無き御心の無限の功徳によりて、私は御身に、哀れな罪人たちの回心を乞い求め奉る。」
(ファチマで天使が三人の牧童に教えた祈り)



 だから、私たちは聖母マリア様のロザリオの祈りをこの十月、ロザリオの聖月にたくさん唱えよう。


 だから、教皇様のために、司教様たちのために、カトリック司祭らのためにたくさんロザリオの祈りをしよう!


 全世界は、ロザリオの元后である聖母への兄弟姉妹の皆様の祈りを必要としています。



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